おおやんのこと (4)




12月10日土曜日午後、ひととおりの荷物をクルマに積み込み、僕は明石へと向かった。17時30分から始まる大山の通夜に参列するためだ。自宅から明石まで100km。夕方の道路渋滞を考え、少し早めに出ようと思っていたが、昼過ぎに東京の友人から香典を包んでほしいと連絡があり、慌てて香典袋を買いに行き、家で必要な事柄を書いていたら出発時間が少し遅くなってしまった。

阪神高速も大蔵谷インターからの市街地道路も、想像以上に混んでいて僕は少しイライラしながら葬祭会館へクルマを走らせていた。着いたのは通夜が始まる10分ほど前で、その時はあまり友人たちと話をすることができなかった。

しめやかに通夜が執り行われ、予定されていた行事が終わると、僕と友人たちは棺のまわりに集まり、大山の顔をのぞいてみた。その顔は、多くの幼なじみが集まってまるで喜んでいるかのように見えた。自然に、昔話に花が咲いた。

しばらくすると、大山の奥さんが来られて挨拶をして頂いた。僕は形式的な挨拶のあと、こういう時になんて言えばいいのかと迷っていたのだが、奥さんの方から彼のこれまでの闘病の話や僕たちには言わなかったことを話してくれた。それまで、彼の奥さんとはゆっくり話をしたことがなかったのだけど、僕は緊張もほぐれ、ゆっくりそれらの話を聞いていた。

そんな中で、奥さんは9月に大山と二人で須磨寺に行ったときのことを話してくれた。
「主人はね、あの須磨寺に行ったことがほんとうに楽しかったみたいで、あの日帰ってきたときは嬉しそうに話してたんですよ。それでね、もう息を引き取る何日か前のことだけど、主人がね、私に言ったんですよ。「須磨寺って書いて」って。それでね、ベッドにあった日誌の空きページに、漢字で『須磨寺』って書いたらね、それ見てとても満足そうな顔をしたんですよ。ほんとうにありがとうございました。」
僕はその話を聞いて、やはり、涙が止まらなかった。さっき棺のそばで友人たちのおかげで泣きやんだところだったのに。




2016年9月25日 須磨寺にて

その後、僕たちは近くのうどん屋へ行き、生前の大山についていろんな話をして彼のことを思い出していた。
僕は実家に帰ったのだけれど、母親と二人で家にいるのが少々しんどくて、少し休んでからクルマで出かけることにした。
とくに行く当てはなかったのだけれど、ふと若い頃に大山と加古川の別府港でクルマを並べて写真を撮ったことを思い出し、旧浜国道、通称「浜国」を西に走った。
別府港のそばには大山が勤めていた会社があった。今日もその会社の方が多数参列されていた。彼は病が発覚してからも仕事場に通っていた。奥さんの運転するクルマの助手席でこの浜国を通っていたはずだ。大山はその時、どんな思いで仕事に向かっていたのだろう、とそんなことを考えながら夜の浜国を走った。
別府港にクルマを止め、工業地帯の海を見ていた。大山は THE ALFEE が好きだった。中学時代のバンドではベースを担当していたのだけど、THE ALFEE の曲をよくカバーしていた。ベースつながりで、桜井氏がお気に入りだったように思う。そんなことを思い出しながら、昔の THE ALFEE の曲をカーステレオで聴いた。

ふとサンルーフから月が見えた。僕はクルマから降り、空を見上げた。満月ではないけれど、まん丸よりは少し欠けた状態のきれいな月がそこにはあった。
岸壁のそばから工場地帯と月の写真を撮るためにカメラを構える。月はかなり高く昇っていたが、28mm画角の広角レンズが備わったカメラだったので、ギリギリ両方が入った。三脚を据えることはせず、息を止めてそっとシャッターを押す。夜なのでブレている可能性が高いので、それを何度か繰り返す。露出も何段階か変えて撮ってみる。
そうやって撮った写真を携帯と接続し、比較的きれいに撮れている写真を選んでFacebookにアップした。

するとすぐ、友人で今日の通夜にも来てくれた田渕からコメントが入る。「修、こっちも綺麗やで。」
彼の家は目の前が海で、偶然彼も自宅から夜の海を見ていたようだ。そして
「ちょっと江井ヶ島海岸行くわ」と追加のコメントが入ったので、僕も実家のある江井ヶ島へ戻ることにした。
浜国を走って江井ヶ島海岸へ行くと、田渕の車が止まっていた。僕たちは止めたクルマの前で、夏から今日までの出来事や、逆らいようのない運命というものがやはりあるんだというような話をした。

僕と田渕が夜の海岸でそんな話をしていた頃、うっつん氏は大山とセッションした昔の曲をギターで弾きながらひとりで歌い、それをFacebookアップしていた。他にも多くの友人が思い思いの気持ちをブログなどにアップし、大山を偲んでいた。
そうやって、2016年の12月10日という日は終わった。

翌朝、雨戸を開けると明石はよく冷え込んでいたが快晴のすばらしい天気だ。
葬儀は10時からだったが、僕は前日の反省から1時間前に葬儀会館に着いた。
少しずつ人が集まり、日曜日ということもあってか10時には多くの人が席についていた。時間どおり、葬儀は始まった。






多くの葬祭がそうであるように、30分ほどでお経は終わり、続いて出棺の準備に入った。
これがほんとうの別れになる。実感があるようで、ないような気もする。
そのうち、そんな実感がどうのこうのとかいう話ではなく、思考が入り込む余地のない状況にとらわれ、棺は花で満たされ、蓋が閉じられてその棺は黒い車に入っていった。
僕たちは友人のワンボックスカーに乗り、火葬場へと向かった。最後は少しハプニングがあったけど、いい形で大山を見送ることができたと思う。

葬儀会館へ戻ってきて、僕たちは解散した。僕は最寄りのインターチェンジへは向かわず、大山のマンションの前を通って帰ることにした。明石海峡大橋が見える大山家。海岸道路はそのマンションの前を通っている。昔、淡路島へ渡るフェリーが出ていた港の前を通り過ぎ、海岸道路をまっすぐ走ると、やがて大山のマンションが見えてくる。
彼の部屋を思い浮かべながらそのマンションを通り過ぎる。また線香をあげにくるからね、とつぶやいてみた。
マンションを通り過ぎると、僕は交差点を曲がって第二神明道路の大蔵谷インターチェンジに向かった。

このようにして、特別な2日間は終わった。

大山という僕たちの友人と、この2016年という特別な年があったのだということを、この先もずっと忘れずにいられるようとの思いをこめて。
自分も、このブログを読んでくださる方にも。




2015年8月の同窓会。大山は男側の幹事をつとめてくれた。



BACK