エッセイ〜琵琶湖のほとりで

 さんざん迷った末、近江牛ステーキ定食を食べることにした。ここは道の駅「びわ湖大橋米プラザ」。京都から国道367号を走りながらこの国道の写真を撮り、途中峠から国道477号を通って、琵琶湖大橋のたもとにあるこの道の駅に来たのだ。時刻はすでに14:30。遅めの昼食に、少し奮発して出てきた近江牛は柔らかく、1350円の価値は十分にある。雨の休日。天気予報は午後から雨が上がるといっていたのに、その気配はいっこうにない。このテーブルから見える琵琶湖も、モノトーンの色調は今日いっぱい変わらないだろう。
 そういえば、目の前に広がるこの琵琶湖の水は、どれくらい綺麗になったのだろう。以前、おぼろげな記憶ではたしか10年以上前だったと思うが、琵琶湖の水は生活排水によってかなり汚れていた。洗剤が源と思われるぶくぶくとした泡がテレビに映し出された残像がよみがえる。あれから滋賀県はかなり条令を強化したはずだ。滋賀県民も努力を重ねてきて、その頃よりは水質は格段に良くなっているはず。僕が住む大阪の町もこの琵琶湖の水のお世話になっていることもあって、決して他人ごとではなかったのだ。綺麗になっただろうこの琵琶湖へ、僕は排気ガスを出してやってきた。そのガスに含まれる有害物質は、今日のような雨とともに琵琶湖にも降り注ぐ。水質うんぬんを考えながら、それを汚す手段でここに来ている。矛盾している、と思いかけたが、それは違うと言いきかせた。人間の生活において、環境に害を及ばさずに生きていくことは不可能だ。なんらかの形で僕らは環境に影響を与えている。それを最小限におさめるのが、これからの僕たちの課題なのだろう。今まで作りあげてきた便利さや快適さを極力損なわずに、自然と共存する手法を探していかなければならないはずだ。
 クルマはほんとうに素晴らしい。移動の容易さ、といった機能性もさることながら、それ以外の、クルマを操って得られる安らぎと満足感というような感性に響きわたるファクター。さらに、僕が国道を走り続けているのは、クルマから見える日本という情景の連続性と、自分だけの時間と空間の連続性が同時に得られるからだ。このふたつの連続性は、電車でもバスでも得られない。この連続性を構成するスピードは、「クルマで国道を走る」という行為がちょうど僕にあっている。自転車でも、高速道路を走ることでも得られないのだ。もはやクルマは、僕という人間を構成するひとつのパーツになっている。
 このような利点を兼ね備えたクルマという道具を、僕たちは手放すことはできない。だから、クルマが環境に与える影響をできるだけ少なくするよう、僕たちはこれから、いろんな意味で努力していかなければならないのだ。状況に応じた公共交通機関とクルマとの選択。大排気量車に対する社会的負担。燃料電池車の開発と普及。雨の琵琶湖を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。             (98/12/5記)