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第三章 外なる魔術 
 
  
魔術の基本     
 
 
 
物やひとの優劣は、どのような基準で、どのようにして決められるのでしょうか。
ここに同じ縫製所で製作されたTシャツが、二枚あるとします。その一枚は、胸の所によく知られたワンポイントの刺繍があるものとします。もう一枚は、なにもありません。その二枚を、同じ値段で売りに出したとしたら、どちらがより多く販売できるでしょうか。
また、隣合せにある二つの写真ギャラリーで、同時に写真展があるとします。ひとつは、有名な写真家で、もうひとつは無名の写真家の写真展であるとします。入場料は同じとしたら、どちらの写真展により多くのひとが入場すると思いますか。
もしも、Tシャツを着る基準が、体温の保温とか汗の発散とかの服の機能だけだとしたら、胸に有名なワンポイントの刺繍があろうとなかろうと関係ないわけです。
もしも、写真展の入場基準が、写真展の展示作品だけであるならば、有名写真家の名前を掲示しようがしまいか関係ないことです。
しかし、ひとが、ある似通った物やサービスを比較検討する場合、その物の機能やサービスの内容だけではなく、他の選択基準を持っているようです。その基準のひとつが「ブランド」と言われているものです。
「ブランド」とは、宣伝広告や物品販売の関係者であるならば、大昔において牛や馬に所有権を明確にするための「焼印」が、語源であることは知っていることでしょう。その「焼印」は、時代が下がり、販売物の身元を知らせる「マーク」となり、現在では、物品ではないサービスコンテンツにも「ブランド」思考が蔓延してきています。
では、その「ブランド」とは何かと言えば、大昔では「所有権」であり、商業時代では、物品のマークは「品質保証」であり、サービスの世界では「内容保証」と言うことになるのかもしれません。
その「保証」を利用して、物品やサービスを有利に販売することを、広告業界では、「ブランドマーケティング」と言っているようです。
では、その「保証」するための「ブランド」とは、どのようにして創られたのでしょうか。そのヒントは、ブランドが「所有権」から「品質保証」へのイメージ変換する過程にあるようです。
そこで、この章では、無名プロカメラマンが有名プロカメラマンへ変身するひとつの方法としての「ブランドマーケティング」手法を、魔術的に考えて見ることにしましょう。
物を所有するということは、その所有する物を保持することで、そのイメージは「接触する」ことです。その接触は、直接身体で接触していなくても、物たとえば「ひも」などで繋いでいることも、その物を所有していることになります。
このような「所有権」を意味する「焼印ブランド」から、マークによる「品質保証」の「ブランド」になるには、どのようなイメージ変換があったのでしょうか。
マークによる「品質保証」には、「焼印ブランド」のようにひもで繋ぐような物理的な接触はありません。それでは、そのマークはどのようにして「品質保証」をするのでしょうか。
それはどうも、その「マーク」だけによるのではなく、何にかの「魔術」を基盤として、その効力を発揮しているようです。
魔術には有名な、「天なるごとく又地も、外なるごとく又内も」という呪文があります。その意味するところは、天空、つまり宇宙にあることは、地上にも影響し、又、ひとの外界にあることは、ひとの内面にも影響する、ということで、それらは離れてはいるけれども、それぞれ影響しあい連動している、と言うことです。
この魔術は、どうも万人のこころの奥深く、つまり、潜在意識に回路として存在しているようです。
その潜在意識にある回路としての「魔術」は大きく分ければ、二つあり、そのひとつは、「触れたものは、その影響が移る」ということで、もうひとつは、「似ているものは、互いに影響がある」ということです。
これはどういうことかと言えば、触れるということは、「感染魔術」を意味し、又、似ているということは、「類似魔術」を意味している、と言うことです。
つまり、魔術的に言えば、「焼印ブランド」とは、焼印を持ったひとが直接馬なり牛に焼きゴテを押し当て印を付けることにより、所有者の影響力をあたえる「感染魔術」ということです。
それに対し、マークによる「品質保証」は、高等魔術で、まずひとにマークの意味を「学習」つまり、「刷り込み」させる必要があります。そして、その刷り込みが成功しなければ、この魔術は完成しないのです。しかし、一度刷り込みが完成してしまえば、後は簡単です。その意味付けされたイメージを保持するマークを、任意の物やサービスに付けるとすれば、そのイメージが感染するからです。
この感染魔術は、一般的に人生舞台のあらゆる場面で実際に使われています。それらは、「肩書き」「学歴」「家柄」などです。
威張り散らす政治家などは、選挙で落選し議員バッチを外されてしまえば、唯の口煩い爺さんで、マスコミも誰も相手にしないでしょう。ひとは、対するそのひと個人ではなく、その議員バッチのイメージの「肩書き」に対応する傾向があるからです。
「学歴」は、そのひとの学習能力を示すのではなく、卒業したその学校のイメージが感染したものです。外国学校卒の「学歴魔術」は、今も健在です。
「家柄」は、歴史という虚構物語が必要です。平安時代からの高貴な家柄といっても、先祖を辿れば唯の「帰化人・渡来人」の子孫であるのかもしれません。
それでは、「肩書き」「学歴」「家柄」の感染魔術(ブランド)を使えない、無名プロカメラマンは、どのようにして、ブランドマーケティングを展開して行けばよいのでしょうか。
その為には、ブランドの感染元を解明してみることにより、そのヒントが得られるかも知れません。
若い女性のブランド物と言えば、バッグや靴などの身の回りを飾る小物を思い浮かべることでしょう。大抵、それらのブランド小物は、特定できるマークが付加されているかデザインとして使用されているでしょう。そして、そのマーク(ブランド)の意味するところは、ヨーロッパの貴族や王族でしょう。つまり、ブランドマークは、貴族や王族のイメージを、その小物に感染させ、そして、その感染した小物を保持することにより、そのひとに貴族や王族のイメージを感染させるわけです。
そして、そのブランドの感染元の貴族や王族とは、大金持ち或いは権力者のイメージを持っているようです。しかし、世界にはそれらを凌ぐ大金持ちも権力者もいます。でも、それら大金を持っていたり権力を保持していたとしても、そのひとのことを成金と呼んでも、貴族とか王族とは呼ばないでしょう。
それでは、貴族や王族のそれらの人達は、どのようにしてそのようなイメージを創り上げたのでしょうか。
一般に、貴族は、王族に認められることにより、その地位を得るようです。つまり、感染元の王族が、ある物、例えば剣や勲章や指輪を贈呈することにより、平民から貴族に変身するわけです。
それでは、その感染元の王族は、どのようにして平民から変身したのでしょうか。
日本の王権の象徴的神宝に、所謂、三種の神器があります。その三種の神器を保持することにより、王権を獲得できるわけです。つまり、王権の感染元は、その三種の神器であるわけです。それでは、それら三種の神器の「ヤタノ鏡」、「草薙剣」そして「八坂瓊曲玉」とは何なのでしょうか。
ヤタノ鏡とは、比売大神のヤアタ(多くのワダツミ)つまり多くの仇の象徴としての鏡であり、草薙剣とは、夷賊を薙ぎ払う刀剣のことで、八坂瓊曲玉とは、不服従の鉄王のねじくれた魂を象徴するもので、それら三種とは、反王権サイドの象徴であるわけです。
その反王権の象徴の三種を完全掌握することにより、はじめて上御一人、つまり唯の権力者から王族へ変身できるわけです。王権の感染元の三種の神器とは、神が与えた高貴な物ではなく、そのような禍禍しい物だったのです。
それでは、外国の王族はどうかと言えば、日本国と同じで、「三種の神器」が「王冠」に替っただけです。
例えば、つい最近意味不明の原因により勃発した湾岸戦争のあったクウェートの国王を、誰がジャビルとしたのかを調べれば、それは1937年にイギリス王室が、クウェートの国民を無視して、勝手に認知したにすぎないことがわかるでしょう。そして、そのイギリス王室も、ローマ法王による戴冠式の虚式で王位を賜ったわけです。それでは、その感染元のローマ法王はどうかといえば、元を正せば四世紀以前には存在していなかったのです。何故ならば、キリスト教がローマ帝国の国教となったのは、392年だからです。
そのように感染元を正せば、王族も唯のひとなのです。しかし、「セット」としての虚構伝説や「セッティング」としての華々しい戴冠式などの舞台装置により、庶民はその魔術にかかってしまうわけです。
以上のことにより、無名プロカメラマンが有名プロカメラマンへと変身する方法のひとつがわかったことでしょう。その方法とは、何を「セット」し、どのような手段で「セッティング」するかを考えればよいわけです。
変身魔術の基本は、感染魔術なのです。その魔術を完成させるには、その感染元を創らなければなりません。そこで次に、その方法を考えてみることにしましょう。
 
 
感染魔術の応用     
 
 
 
実生活での感染魔術の身近な例としては、宣伝広告の昔からある手法、有名人や著名人が宣伝物を手に持ってのニッコリポスター等が挙げられるでしょう。それはまさしく感染魔術そのもので、有名人や著名人の手が宣伝物に触れることにより、それらのひとのイメージが、その宣伝物に感染するわけです。
更に、感染魔術は接触しなくても、その魔術を発揮できるのです。それは、新刊書籍の腰巻にある著名人の推薦文なども、感染魔術の良い例となるでしょう。見たことも聞いたこともない新人作家の書籍は、腰巻にあるその著名人の推薦文により、そのイメージが感染するわけです。
そのように、無名の宣伝物に、あるイメージを感染させることにより販促活動をすることが、宣伝広告の基本となっています。つまり、数学に似せた科学的手法を研究・開発し、その科学的広告理論を展開しクライアントを惑わすことができたとしても、宣伝広告の実体は、感染魔術なのです。(実際、大手広告代理店などはプレゼンで、エビデンスの乏しい広告用数式を用いて、広告リーチ数や対広告経費予測売上額などを自信満々に述べています。新しい概念を次々発明し続ける広告を、科学的最先端技術だと信じている勉強不足のクライアントなどは、その虚数にまんまと惑わされてしまうのです。)
そこで、無名プロカメラマンが有名になる方法のひとつとして、宣伝広告の手法を真似て、この感染魔術を応用することを考えてみましょう。
それではまず手始めに、宣伝広告の専門家である広告代理店の仕事の基本的流れを見てみましょう。
例えば、広告代理店に、クライアントからデジカメの新製品キャンペーンの仕事の依頼があったとします。すると、営業部が主体となって、プロジェクトチームが結成されます。そのメンバーとしては、調査員、プランナー、アートディレクター、コピーライターそして媒体部員等が集められます。
仕事の流れとしては、まず、基礎調査をします。広告の基礎調査とは、調査員がその宣伝物のデジカメ競合品や競合社を調査します。つまり、宣伝物の市場規模を調べるわけです。それと同時に、モニターを使って、その新製品の潜在顧客の反応や新製品の特徴又は短所を調査します。
次に、その基礎調査結果を、プランナーに渡します。プランナーは、その資料を基に、宣伝の手法を考えます。つまり、販売予測を立て、それから宣伝予算を算出し、どのようにして売り出すかのアクションプランを考えます。
そして次に、アートディレクターが、製品の特性を生かした、ビジュアル表現を考え、それにコピーライターがキャッチコピーなどの宣伝文を考え出します。
そして、それらの宣伝表現をどのような媒体に露出するかを、媒体部が考えることにより、デジカメ新製品キャンペーンの仕事の流れが完了するわけです。
後は、その流れをクライアントにプレゼンして、認められれば広告代理店の仕事が完成するわけです。
ざっとこのように、宣伝広告の仕事は流れているのです。
もし、無名プロカメラマンに、広告代理店に宣伝広告を依頼できるほどの資金力があるのであれば、事は簡単です。しかし、それは現実的ではないでしょう。そこで、上記の宣伝広告の流れに沿って、自分で、自分を宣伝広告することを考えてみましょう。
 
1.調査員の仕事:
ここにおける基礎調査とは、カメラマン市場と自分のイメージを調べることですが、自分が考えているのと実際とでは異なることが普通のようです。
そこでまず、カメラマン市場について調べてみましょう。
自分がイメージとして保持しているカメラマン市場は、先輩やマスコミなどからの過去の情報の積み重ねによるものです。時代の流れが長期間停滞しているのであれば、過去の情報はそれなりに利用価値があるのかもしれません。しかし、時代は急速に流れているのです。
一昔前では、写真と言ったら、銀塩フィルムの世界であったわけです。しかし、今やデジタル媒体による映像が幅をきかせているのです。
つまり、仕事をゲームと考えれば、時代の流れにより、ゲームのルールが変わったり、更にはゲームそのものが消滅してしまうこともありえるのです。そこで、常に仕事の流れを見極めておく必要があるわけです。
既成の仕事の流れを変えることや新しい仕事の組み合わせを考え出すことを、マーケティングの世界では、デ・コンストラクションと言っているようです。
そのように、ゲームは時代と共に変化又は消滅しているのですから、未来のカメラマン市場を調査する場合、過去の価値判断を重視することは疑問です。それではどのように考えればよいかと言えば、それは、ひとびとが興味を持つであろう物やサービスを先回りして調べることです。
その調査手段のひとつとして、街や喫茶店などでの何気ないひとびとの会話に注目することです。不平、不満は未来市場の芽となります。それらを知ることにより、未来のカメラマン市場についてのヒントを見つけることができるでしょう。
次に、自分が保持している自分自身のイメージについて調べることです。
カメラマンの仕事は、材料を加工して物を造り販売するのではなく、カメラを道具として映像を固定化しその媒体を販売することです。その仕事は、一見製造業でもありサービス業でもあるわけです。
つまり、ストックフォトカメラマンであるならば、購買者と対面せず、映像を創り(撮影し)その媒体を販売するのですから製造業の範疇かもしれません。しかし、依頼撮影の仕事は、依頼者の前で仕事をするわけですから、どちらかと言えば対面販売のサービス業と言えるのかもしれません。
そこで、自分のカメラマンイメージとして、製造業向きかサービス業向きかを見極めておく必要が生じるのです。
ひとの性格は平等には創られてはいないようです。つまり、そのひとの生まれつき持っている性格は、どのように努力したとしても、変えることができない場合もあるのです。
自分の成りたいプロカメラマン像に合わせて、人生努力することもひとつの方法であるのならば、考えを一寸替えて、自分が本来持っている性格に合わせてプロカメラマン像を創るのもひとつの方法です。
そこで、自分はどのような性格であるのかを調査する必要があるわけです。それは、自分で思っているのと、他人が思っているのとでは異なる傾向があるからです。そのために他人からみた性格調査が必要となるのです。
その方法としては、親や兄弟などの身近なひとに聞くのではなく、友人を介して、自分の素性を全く知らないひとに聞くことは大切なことです。それは、初対面の他人からの第一印象には、重要なイメージデータを多く含んでいるからです。
そのようにして基礎調査が済んだら、そのデータをプランナーに渡しましょう。
 
2.ブランナーの仕事:
そのように基礎調査で分ったことが、誇れるような肩書きナシ、学歴ナシ、家柄ナシ、そして中高年で人見知りで製造業向きだったとしましょう。
プランナーは、基礎調査資料に基づいて、宣伝対象物又はイメージを一言で表現できる特徴に絞り込みます。このことを、広告業界では、「コンセプト」と言うそうです。
宣伝広告で成功するためのコンセプトとは、学者の喋る堅苦しい饒舌な言葉ではなく、分り易い短い言葉で表現できなければなりません。その言葉も、日常で使われているものであれば、尚可です。
コンセプトは、そのままキャッチフレーズになる場合もあります。例えば、コンセプトが、無口、頑固、浪人作家風、中高年などだとしたら、「プロカメラマン」とするよりも、「写真作家」とするほうが、イメージが感染するでしょう。更に、得意とする分野が、寺院仏閣など渋いものであるとすれば、コンセプトは「幽玄を語る写真作家」などはどうでしょう。
そのように、コンセプトが決まったら、次はアートディレクターの仕事になります。
 
3.アートディレクターの仕事:
アートデイレクターは、クリエイティブの責任者です。その下に、デザイナー、コピーライター、カメラマンなどを従えています。そして、与えられた「コンセプト」を、それらの人達をコントロールして、ビジュアルや文章でイメージ化していくのが、アートディレクターの仕事なのです。
この場合のコンセプトは、「幽玄を語る写真作家」です。
宣伝広告するものが「物」であるのならば、その商品の名前(業界ではネーミングと言うそうです。)を考え、イメージに相応しいロゴやマークを創り、そしてその商品を訴求するキャッチフレーズを考え、そのイメージするビジュアルを創れば、クリエイティブの仕事は完成するわけです。
しかし、「ひと」である場合は、そのひとをコンセプトに合わせるように「変身」させなければなりません。一般的には、変身とは外見を取繕うことですが、ここでの変身とは、「外なる変身」と「内なる変身」との二つがあります。
「外なる変身」とは、目に見えるものが変身のための対象です。例えば、頭髪を肩まで伸ばし、口髭や顎鬚など生やしたりして、写真作家風に変身することなどです。
それに対し、「内なる変身」は、変身する高度な技術が必要でしょう。つまり、「内なる変身」とは、そのイメージする人物に成り切る技術が必要だからです。「新しいイメージ」を創る為には、今までの自分の人生の歴史を抹殺する技術の習得が必要なのです。
以前述べたと思いますが、ある秘密結社に入信するには、骸骨を抱いて穴倉に数日間篭るなどの精神的死の儀式などをして、自分の保持している過去の情報を記憶から除去し、新しく生まれ変わることにより、初めてその結社員として認められるわけです。
そのひとの記憶の過去を消去する技術とは、死に対する未知の恐怖と不安により、今までの思考回路が溶解し、思考能力が「無」になることにより、過去の記憶を抹殺するわけです。このような状態のことを、一般に「頭の中が真っ白になる」と表現していることです。コンピュータ用語では「初期化」と言っていることです。
そのような特殊な技術ではなく、ひとのこころを「初期化」するには、他にも方法は色々とあるでしょう。地獄の特訓会社のように、死ぬほど恥ずかしいことをさせることにより、こころを「初期化」させたりすることも、「内なる変身」には有効な手段なのかもしれません。しかし、天が与えてくれたチャンス(一般レベルでは、ピンチと言われていることです。)も、時には「内なる変身」のきっかけとなる場合もあるのです。
それらは、「倒産」「リストラ」「離別」「挫折」などの逆境のピンチ場面がそうです。「死ぬ程辛い思い」とは、見方を替えてみれば、「こころの初期化」に相応しいチャンス場面なのです。
そのようなチャンス場面に恵まれないひとは、「旧約聖書の瞑想法」や「シュルツの自立訓練法」あるいは「禅」「ヨーガ」など、こころを初期化する技術を研究してみるのもひとつの方法かもしれません。
一般的に、ひとは、「外なる変身」にこころを奪われ、「内なる変身」を疎かにしてしまう傾向にあるようです。実は、変身の順番は、「内なる変身」が「外なる変身」よりも先なのです。
「内なる変身」が完成すれば、自ずから「外なる変身」が成就するのです。その二つの変身が完成すれば、「内なるごとく、また外も」の魔術が完成し、「幽玄を語る写真作家」の誕生となるわけです。変身の技術を忘れてしまったひとは、「ステップ1」を再読してみましょう。
そのように変身できましたら、再びアートディレクターに登場してもらいましょう。
内外の変身が成功しましたら、そのイメージに相応しいネーミングを、ディレクターに考えてもらいましょう。
基礎資料によると、肩書きナシ、学歴ナシ、家柄ナシ、中高年で人見知りで製造業向きであるわけですから、それに相応しいネーミングとしては、軽薄ではなく重々しく、そして明るくはなく影のある名前が考えられます。名前の表記は、カタカナよりも漢字でしょう。
性格が明るくはないのですから、日向(ひなた)ではなく、日影(ひかげ)がネーミングに相応しいでしょう。そこから、姓は日影、名はキャッチフレーズから幽玄。つまり、ネーミングは「日影幽玄」です。その名前から、なんとなく、朝霧の深遠の杉林の神社仏閣を撮影している、無骨な写真家のイメージが想像できるでしょう。
そのように名前が決まりましたら、その名前をデザイン化することです。このことを広告業界では、ロゴと言っているようです。
そのロゴは、名刺はもとより、写真作品発表時などに使うわけです。つまり、名前の差別化をして、そのロゴを見ることにより、写真作家「日影幽玄」を連想させるわけです。
しかし、そのことは、感染魔術になるわけですが、無名の写真家の名前は、その感染源がないわけですから、イメージも無い、つまり、感染魔術が使えないわけです。
そこで、感染魔術を使えるような「新たな魔術」を考える必要があるわけです。その魔術とは、「履歴の魔術」です。
 
 
履歴の魔術     
 
 
 
この節で、写真家「日影幽玄」を売り出す手段として、宣伝広告におけるブランドマーケティングの手法を考えるわけですが、ひとをブランド化するには、どのような方法があるのでしょうか。
ひとには学習能力があり、その基本は「学ぶ」、つまり、ひとは真似をすることができるのです。そこで真似をするために、この世で、ひととしてブランド化に成功したひとを探してみましょう。
言葉を認識できる程度の子供からボケる前の老人まで、誰でも知っているひとのひとりとして、キリストが考えられます。
そこで、キリストがどのようにしてブランド化したのかを、魔術的に考えてみることにしましょう。そこに新人が有名になる、つまりブランド化するヒントがみつかるかもしれません。
この国の大部分のひとたちは、キリストのことを知っています。しかし、その認識度には大きな差があるようです。例えば、イエス・キリストを、姓がイエスで、名がキリストと思っているひとも中にはいるようです。しかし、それは誤りです。
それでは、「キリスト」とは何を意味しているのでしょうか。
ユダヤびとは、救世主のことを「マーシーアハ」(メシア)と呼んでいました。その意味は、「油をそそがれた者」で、オリーブ油を頭に注ぐことにより、王に変身すると、ザドク一派により、旧約聖書でヘブルびとは安息日に学習(刷り込み)させられたのでした。
その「マーシーアハ」がギリシャ語になると「クリストス」となり、更に日本語になると「キリスト」に変化するわけです。
「イエス・キリスト」の意味としては、「ユダヤの救世主イエス」が正解でしょう。それがどうして、392年に、ユダヤの敵対するローマの国教となり、誰が決めたのか分りませんが、キリスト教歴が世界標準となってしまったのでしょうか。魔術師から言わせて頂ければ、これこそ本当の「魔術」です。
そのキリスト教について、ローマの歴史家タキトゥスが「年代記」(紀元117〜119年頃)の中で、「迷信的な教団」についてということで、ティベリウス帝の治世の政務官ポンティウスによって処刑されたと伝えられる、あるひとりのキリスト(メシア・救世主)に由来する、と述べています。
では、「イエス」とは何者なのでしょうか。
免罪符など販売するローマ・キリスト教の腐敗から決別したドイツのプロテスタント神学は、19世紀になるとイエスの生涯に関する研究の先頭に立ちました。
その研究に触発され、1835年ダーフィト・フリードリッヒ・シュトラウスが「イエスの生涯」という本を著しました。その本によりますと、福音書の記述とは、旧約聖書に触発されて創作されたイエスの伝説と説話以外の何物でもでもないと述べているのです。
旧約聖書の時代、外国支配からの解放者のひとりとして「ヨシュア」がいます。その名の意味は「ヤハウェは救い」ということです。そのヨシュアをギリシャ語訳にすると「イエス」となるわけです。つまり、「イエス」とは、「モーセ」(子という意味)と同じに、個人名ではなく、神に命じられた解放の任務を実現する者にたいする称号、あるいは通り名として用いられていたのです。
「イエス」と言われているひとの本当の名は、イエスであったのかは疑問です。
そこで、「イエス・キリスト」を魔術的に解釈すると、「ヨシュアはユダヤの救世主」となるわけです。
現在でさえ、書店に行けば、イエスについての書籍は沢山見受けられますが、イエスとは何者か、生年月日(12月25日ではないことは、以前述べました。)は、どんな容貌をしていたのか(ドゥラ・エウロポスのミトラス神の壁画のサトゥルヌス神は、イエス像と大変よく似ています。)、十字架に架けられたのはいつか、いつどのようにしてどこで死んだのかを史実として知ることはできないようです。(このことは、わが国の聖徳太子にも言えることです。)
それが困難なことは、二世紀までに書かれた書物には、イエスはほとんど実在のひととは言及されていないからです。その後の書物では、神学的な著作で、当然のごとくイエスをメシアであり神の子であると信じたうえで書かれているからです。
今日の研究では、イエスというひとは、ヘロデ王の治世(前37〜4年)に生まれたことが定説のようです。そのひとを、聖書批判学では、福音書作家に脚色されたイエスと区別するため、「原イエス」といっているようです。
さて、そのような遠い異国の二千年前のキリストの名を、この国のキリスト者でもない多くのひとたちが知っているだけではなく、その顔も良く知っているようです。更に、その誕生日も正確に知っているのです。これは魔術です。
そのように、この国の多くのひとたちが「キリスト」のことを知っているのは、そのブランドマーケティングのプロモーションが完璧だったからでしょう。
そもそも、宣伝広告におけるプロモーションの原点は、プロパガンダの言葉が示すようにプロテスタントの布教テクニックであるわけです。つまり、布教とは、見かたを変えれば、それは宣伝広告なのです。
その基本とは、ひとびとの興味を引くイベント(興行)を計画し、そのことをパンフレットで告知し、ひとびとを定期的に集め、快い歌と踊りと説教でイメージ世界に埋没させ、ひとびとを至福の世界に誘うことです。
そのパンフレットを利用したプロパガンダの手法は、現在の宣伝広告のプロモーションにも応用されています。
その基本は、名のとおった異教徒(現在では有名学者)、あるいは教会に関係のない作家を(現在ではタレント作家)、コントロールできない時はその人物の死後、キリスト教のための証人として取り立てる方法です。勿論、内容を教団に都合よく脚色するわけですが。
そのパンフレットの文字情報を操作する手法は、現在の広告業界用語では、ペイパブ(お金を支払って記事として情報を流す手法。)といっていることです。
ひとをブランド化するには、気の利いたネーミングを創るだけではできません。それには、前節で述べた、感染元が必要です。
それでは、キリストはどのような手法で、唯の大工さんから「神の子」に変身できたのでしょうか。
その最大の武器は「聖書」でしょう。聖書とは、色々な内容の著作物を集めたもので、昔は、ビブリア(合本)と言われていたそうです。そのビブリアが、いつのまにかバイブル(聖書のネーミングを発明したひとは宣伝広告の天才です。)と変化してしまったそうです。
その聖書は、旧約と新約の合本となっているわけですが、キリストが登場するのは、新約聖書です。その新約聖書の中で、キリストは感染魔術を使って変身するわけです。その感染元は、洗礼者ヨハネです。
様々な術を駆使してひとびとを癒す洗礼者ヨハネの事跡を述べて、感染元の権威を付けて、そのイメージをキリストに感染させる手段が、新約聖書の戦略でしょう。つまり、新約聖書は、キリストの履歴書であるわけです。
そこで、「日影幽玄」も、履歴書を創作する必要があるわけです。その参考書は、聖書です。
履歴書は、見ず知らずのひとを判断する重要なデータバンクなのです。しかし、そのデータは、信頼されることが必要です。それには、客観的という基準をクリアしないといけません。つまり、自分で自分を誉めたところで、他人はそのデータを信用しないわけです。そこで、伝記作家の登場となるわけです。聖書の場合、複数人の福音書作家が活躍しています。履歴の魔術を完成させるには、「自らの口をもってほめるのではなく、他人の口からほめさせよ。」となるわけです。
「日影幽玄」をブランド化するには、履歴書の中で、有名写真家の推薦文があれば、簡単にできるわけですが、その手段を実現することは困難でしょう。そこで、「洗礼者ヨハネ的人物」を、身近な人脈で探してみましょう。もし、いなければ、他の方法を考えることです。
その方法のひとつとして、著名人物(写真家でなくても可)の弟子になることです。
弟子になるということは、見方をかえてみれば、感染元を創るということです。このことは、初対面のカメラマンに質問する言葉、「どの先生に師事されましたか。」として使われています。それは、感染元を知ることにより、その初対面のカメラマンを評価する手段となるわけです。
写真作家「日影幽玄」の場合、そのイメージを感染させるには、師匠(感染元)の選択は大切なことです。
ブランドを支持してくれるひとたちは、そのブランドが保持しているイメージを支持しているのです。そのイメージを創り、そして刷り込むことが、ブランドマーケティングの基本なのです。
例えば、現代女性の好むアクセサリーのブランドイメージは、抹香臭い重苦しい仏教徒的貴族ではなく、爽やかな生活臭のないヨーロッパ・キリスト教的貴族でしょう。ですから、そのブランドを差別化する商標(マーク)は、タントラや梵語などの東洋・仏教的デザインではなく、アルファベットをデザイン化した洗練されたヨーロッパ調のものが多いでしょう。
つまり、ブランドを具現化したマーク(商標)は、その歴史(履歴)をひとびとに認識してもらわないと、その魔術は効力を発揮できないのです。
キリストの場合、ブランドマークとは十字架です。その十字架は、キリストについての知識のないひとたちには、唯のアクセサリーですが、少しでもキリストについての知識があるひとには、聖なるお守りとなるわけです。
そこで、フォトグラファーではなく「写真作家」のイメージを考えてみると、それはどちらかと言えば、軽軽しいものではなく、重々しさでしょう。
地域にもイメージがあります。パリ、ニューヨークと言えば、写真作家よりもフォトグラファーのイメージでしょう。しかし、インド、比叡山といえば、写真作家のイメージでしょう。そこで、履歴の魔術を完成させる方法のひとつとして、インド、比叡山の連想イメージとしての「ヨーガ」や「禅」の道を極めることも、写真作家「日影幽玄」のブランド化のバックアップとなることでしょう。
被写体を撮影する技術が困難な時代であれば、写真を上手に撮影する技術者として生活していけたわけです。しかし、撮影技術だけでは生活できない現在では、他のカメラマンとの差別化が必要です。その差別化を証明する手段として、履歴書を完成させておく必要があるわけです。
撮影後の情報以上に、撮影前の情報、つまり、どのような履歴を持った写真作家であるのかのデータを、鑑賞者に示すことは、その写真作品を鑑賞する時、そのイメージを広げることでしょう。
カメラマンの名前を聞く、あるいは見ることにより、その作品がイメージに浮かぶことが、写真作家のブランド化に成功したということです。
それでは、「日影幽玄」のブランド化を完成させるためのプロモーションを、次に考えてみましょう。
 
 
模倣魔術の応用     
 
 
 
広告業界的に、プロモーションを定義するとすれば、「企業が自社製品の販促を目指し、ユーザーに働きかける内容および手段を、企業がもつ資源、ひと、モノ、カネ、情報そしてスキルなどを組み合わせでもって具現化する政策の内容」、と言うことになるのでしょうか。
このことを簡単に述べれば、「布教活動の実際」と言うことと同じでしょう。その基本は、教祖(自社製品)がいかに素晴らしいか、帰依(購入)すれば至福の世界に暮らせます、と折伏(セールス)することです。
そのための、道具集め、虚構舞台装置創作、その集客方法とその手段、販促スケジュールそして資金手当てを考え、実行することが、プロモーションの全てということです。
そのプロモーションも、製品(思想やイメージなど眼に見えないものも含む。)のライフサイクルのステージに合わせて行うことは大切です。そのステージとは、導入期、成長期、成熟期そして衰退期です。
ものやサービスの普及の仕方は、大体決まっているようです。ある新製品(新サービス)を媒体を使って告知すると、
@まず革新的採用者(マニア)が興味を示し(導入一期)、
A革新的採用者が購入、使用しているのを見て初期少数採用者が動き(導入二期)、
Bそれを見て前期多数採用者が興味を示し(成長期、この時期をブームと言う。)、
C更に後期多数採用者が興味を示し(成熟期)、
Dそして最後に採用遅滞者が興味を示すようです(衰退期)。
眼に見えるものでさえ、そのようなステージを経て普及していくのです。ましてや、眼に見えないブランドを認知してもらうには、更なる時間が掛かります。それは、ひとのこころに魔術的世界を想像させる虚構舞台装置創作に時間が掛かるからです。紀元一世紀突如この世に現われた大乗仏教は、ブッダ入滅から導入期まで約五百年、キリスト教はイエス昇天後から約四百年掛かってローマの国教になったことになります。現在のアクセサリーの世界的ブランド創りも、最低十年の歳月を掛けているようです。
それでは、写真作家「日影幽玄」のブランド化のプロモーションはどのように考えたらよいのでしょうか。
日影幽玄に変身しようとするひとが、もし現在五十歳台として、今すぐにブランドマーケティングのプロモーション活動に入ったとしても、多くのひとに知られるようになる、つまり成長期に到達するには、六十歳台になっているわけです。
そのように、ひとをブランド化するには、十年の時の流れが最低必要ですから、プロモーションスケジュールを考える場合、ステージの流れに合わせた長期プロモーション活動を考えておく必要があるわけです。
その前に、日影幽玄のブランド化のための、プロモーションツールを再点検してみましょう。
布教の場合のプロモーションツールとしては、教祖の奇蹟を述べた立派な書物、それを簡単にしたリーフレットやポスター、ひとびとに印象付けるための記念日やイベント、偉業を示す立派な伽藍、そして威厳のある法衣そして宣伝員などです。
写真作家「日影幽玄」の場合のプロモーションツールとしては、どのようにして写真作家になったのかを示す物語としての履歴書、写真集、写真展の履歴、著名人との人脈、撮影機材類、写真事務所、風貌創りの小道具類と衣装などが考えられるでしょう。
そのような日影幽玄がもつ資源を組み合わせて、ブランド化を計り具現化することが、これから行なおうとするプロモーションの実際です。
しかし、現実問題としてそれらのツールが利用できない場合は、どのようにしたらよいのでしょうか。
もし、今現在それらのツールもないし、カメラマンとして誇れる活動をしていない場合でも、問題は解決できるでしょう。
無名のひとが、多くのひとに知られるには時間がかかるのです。それまでのステージに合わせて、ツール創りのスケジュールを計画すればよいでしょう。
例えば、現在が、定年前あるいはリストラ前の状態であるのであれば、そこからスタート時点として、いかにして写真作家「日影幽玄」に変身したかを十年後のゴールを目指して歩んで行けばよいでしょう。
ある時は、カメラ片手にインドにヨーガの、またある時は深淵の禅寺での修行などを、歩みの途中に計画すれば、それは立派な履歴作りのネタとなるわけです。更に、十年後を目指して、一年に何冊かの写真集の自費出版あるいは、写真展開催も履歴作りのネタとなるわけです。
そのようにして、プロモーションのためのツールが揃えられたら、革新的採用者にプロモートすることです。日影幽玄に対する革新的採用者と考えられるのは、大手出版社や大新聞社などではなく、新興勢力の媒体社などでしょう。あるいはストックフォトエィジェンシーなども考えられます。更に、ネットでのプロモートなども革新的採用者に向いているかもしれません。いずれにしても、プロモートする場合、既成概念に囚われないようにすることです。
事の始まりは、革新的採用者の動きです。それは、小さな動きかもしれません。しかし、動くことにより、次のステージに向かえるのです。
一遍にプロモーションツールを揃えられるひとは、限られるかもしれません。それに、ひとは平等にできていませんから、そのスケールも各自異なるかもしれません。
そのために、目指す市場と戦略としてのマーケティングを考えておく必要があるでしょう。
プロモーションツールとは、別表現では武器のことです。その武器に見合った戦い方をしなければ、戦場で勝利は望めないでしょう。そのためには、戦い方、つまり戦略を考えなければならないわけです。
一般的に、広告業界では、その戦略を、リーダ戦略、チャレンジャー戦略、ニッチャー戦略の三つに分けているようです。
リーダ戦略とは、豊富な武器を駆使して、市場にイッキに殴り込みをかける戦い方です。この戦い方は、敵(潜在顧客)の動向を把握していることが前提です。
チャレンジャー戦略とは、敵の動向がハッキリ分らないが、ある程度の武器がある場合の戦い方です。戦況が五分五分の時の戦い方です。
ニッチャー戦略とは、武器の調達が上手くいかない時の戦い方です。全面ではなく、敵の弱点を攻める戦い方です。
武器の調達具合により戦い方が決まりましたら、戦場の選定をすることです。
人生が無限であるのであれば、よいのですが、欲望は無限でも人生は有限なのです。その限られた時間内で、日影幽玄をブランド化するには、自分の置かれた状況を正確に把握しておく必要があります。
今現在から十年で集められる武器を想定して、世界を目指すのか、全日本を目指すのか、あるいは日本のローカルを目指すのかを決めることです。
そのように戦略も整った。戦術を実行する武器も揃った。目指す戦場も決まった。さあ、出発だ、と行動する前に、もう一度プロモーションツールを点検してみましょう。
そこで再チェックする武器は、履歴書です。履歴書が完璧でないと、この闘いの勝利は望めないかもしれません。それほど大事なのは、キリストをキリストたらしめているのは、クリスマスセールでもなければ十字架でもありません。それは「聖書」です。
知的なひとは、庶民のオピニオンリーダとなります。オピニオンリーダから発せられた言葉は、庶民に受け入れられます。つまり、オピニオンリーダの支持なしには、コミニュケーションは広がらないのです。
そのオピニオンリーダに、日影幽玄のブランドの革新的採用者となってもらうには、「日影幽玄の聖書」が必要なわけです。
そこで、模倣魔術の登場となるわけです。模倣魔術とは、「似ているものは影響し合う。」、ということです。このことは、物質だけではなく、言葉などにも使える魔術です。
日影幽玄の聖書を創作する参考として、新約聖書の模倣魔術を見てみることにしましょう。
それでは、キリスト教の福音書作家は、なにを模倣して創作活動に励んだのでしょうか。(著者は、キリスト教を愚弄する為に、このようなことを記述しているのではありません。聖書に右手をおいて、「眼には眼を、聖なる闘いに出撃せよ!」と勇ましくテンションを挙げている超大国指導者の頭を冷やす為に書いているのです。聖書が、戦争の出撃の誓いに利用されているのを、「原イエス」が知ったら、何と言うでしょうか。アーメン。)
聖書批判学者の研究によりますと、新約聖書、特に紀元一世紀以後に創作されたヨハネの福音書の記述の多くは、紀元前一世紀頃出版された仏教の「ダンマパダ」や、更に経を集めた「ウダナヴァルガ」に掲載されている物語と共通すると述べています。
それでは、何を目的に福音書作家達を動員して新約聖書を創作したのかと言えば、それは、ローマの圧政下で新たな独立した宗教組織を作ろうとしたのではなく、基本的にはユダヤ教を改革しようとしたのでしょう。
何故そのようにいえるのかといえば、イエスの生涯を、色々な材料から引用し小説のようにばらばらに繋ぎ合わせたのではなく、旧約聖書の持つ入り組んだ文化的多重構造の中から、旧約聖書の物語にリンクするように展開するという学問的作業をおこなっているからです。(ここが巷で言う、ローマ・キリスト教が、ユダヤ・キリスト教と言われる所以かもしれません。)
新約聖書の幾多の文章が仏教物語からの模倣で、福音書が多様な資料の寄せ集めから創作されているのは、聖書批判学者の研究で明らかにされていることです。
その一例として、イエスの奇蹟として有名な物語、「パンと魚の奇蹟」と「水上歩行の奇蹟」とがあります。
「パンと魚の奇蹟」の物語とは、「マタイによる福音書」第十四章第十七節に、「マルコによる福音書」第六章四十一節に、「ルカによる福音書」第九章十四節に、「ヨハネによる福音書」第六章十節に、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、さらに十二籠のパン屑が余った、と言うものです。
それに対して、仏教の「ジャータカ」では、ブッダが、物乞いの鉢の中のパンをもって、五百人の弟子と僧院の全ての者の飢えを満たし、十二籠のパン屑が余ったとされているのです。
「水上歩行の奇蹟」とは、「マタイによる福音書」第十四章二十五節に、「マルコによる福音書」第六章四十九節に、「ヨハネによる福音書」第六章十九節に描写されていて、その聖書の物語と仏教の物語とは全く同じシチュエーションとなっているのです。
神学者ノルベルト・クラットは、この水上歩行におけるブッダとイエスの対応関係を明らかにしたのです。それらは、どちらの場面も水面が荒れていて、水の上には人の乗った小船があり、船に乗っている人は水の上を歩く人に驚き、水上を歩く人が誰だか分らず問いかけ、ブッダもイエスも「わたしである」と言い、ブッダもイエスも船に乗るように求められると乗り込むわけです。
では、その他に仏教物語から模倣したものを探してみましょう。「ヨハネによる福音書」第四章のサマリアの女の物語は、何度読んでも感動してしまいます。
その物語に似ているものとして、ブッダの弟子のアーナンダの物語があります。
田舎を旅していたアーナンダは、マータンガ族の娘プラクリティが井戸で水を汲んでいるところに出会った。アーナンダが水を飲ませて欲しいと言うと、娘はアーナンダに近づくのを恐れた。何故かと言うと、マーカンダ族のカーストは聖者には近づくことが許されていないからであった。しかし、アーナンダはこう答えた。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水を分けてくださるかどうかを尋ねているのです。」
更に、「マルコによる福音書」十二章四十一節の貧しいやもめの献金の話は、仏教文献では、どのような物語となっているのでしょうか。
ひとりのやもめが食事のできる宗教的な集まりにやってきた。他の者達は貴重な品々を布施しているのに、自分には何も差し出すものがないことを残念がった。そのとき、ゴミ捨て場で拾った「銅貨を二枚」もっていたことを思い出した。そして、それを喜んで出した。人々の心の奥底まで読み取れる阿羅漢は、金持ちの布施には注意を払わなかったが、この貧しいやもめの敬虔さを讃える歌を歌ったという。
因みに、「マルコによる福音書」のやもめも、「二レプタ」を献金しているのです。
では、その仏教物語の模倣の四福音書は、どのようにして聖典として認められたかと言うと、二世紀の終わり頃、リヨンの司教エイレナイオスというひとが、四巻のそれぞれがイエスの使徒に由来するものだという主張をもって権威付けをおこない、これを受け入れさせたにすぎません。正に、キリストによる魔術です。
聖書批判学者の研究によりますと、四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカの三巻は非常に良く似ている、ということです。マタイとルカは、マルコによるテキストから多くを取り込んでいる。しかし、その他に、マタイとルカは、マルコの知らないイエスの語録を利用している、というのです。その語録を研究者達は、「Q資料」と呼んでいるようです。ヨハネの福音書は、それら三巻より新しく、二世紀の中頃に完成したようです。
そのように模倣された四福音書の物語の中に、「原イエスの言葉」は、どこにあるのでしょうか。
暗号解読の方法である、コード式とサイファー式とで考えてみることにしましょう。
サイファー式の暗号解読の基本は、鍵言葉を前か後ろの文章から見つけ出すことでしたね。そこで、聖書の最後のヨハネの黙示録を読んで行くと、不思議な文章に突き当たるでしょう。
それは、第二十二章十六節に、
わたしイエスは、使いをつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの若枝または子孫であり、輝く明けの明星である。
と言う文章です。
この文章をコード式で分析すれば、イエスはダビデの子孫で、それは明けの明星である、ということです。「明けの明星」をコード式で変換すると、それは「ルシファー」イコール「悪魔」です。つまり、この文章は、魔術的に解釈すれば、「ダビデの子孫のイエスは悪魔である。」と読み取れるわけです。
パモス島にいたヨハネというひとは、この黙示録でいったい何を語りたかったのでしょうか。
「原イエスの言葉」を四福音書から探し出すとしても、サイファー式の、同じ文章を探して、埋め草を取除く方法も、ここでは使えません。新約聖書の福音書では、三つも四つも同じ物語があるのですから。
そこで、ジョン・クロッペンボルグによる、聖典から除外された外典(アポクリフア、つまり隠されたという意味)とQ資料とで炙り出した、新約聖書に登場するダビデの子孫のイエスではなく、「原イエスの言葉」をみてみましょう。
 
これはイエスの教えである。
群集を見ながら、イエスは弟子たちに言われた。
貧しい人々は、なんと幸いなことか、神の国はその人たちのものである。
飢えている人々は、なんと幸いなことか、その人たちは満たされている。
泣いている人々は、なんと幸いなことか、その人たちは笑うようになる。
わたしは言っておく、敵を愛し、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも取らせなさい。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取りかえそうとしてはならない。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがどんな報いがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。自分の兄弟だけを抱きしめたところで、ほかの人よりどんな優れたことをしたことになろうか。だれでも同じことをしているではないか。返してくれるはずの者に貸したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。罪人でも、返してくれるはずの仲間には貸すのである。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、神の子となる。
その方は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。あなたがたは自分を量る秤で量り返されるからである。
盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ちこみはしないか。
弟子は師にまさるものではない。弟子は師のようになれば、それで十分である。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって「あなたの目からおが屑を取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目の丸太が見えないのに、偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。あざみからいちじくが、茨からぶどうが採れるだろうか。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分る。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に家を建てた人に似ている。雨が降り、川があふれてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。しかし、わたしの言葉を聞くだけで行なわない者は、砂の上に家を建てた人に似ている。雨が降り、川の水が押し寄せると、家は倒れて、その壊れ方がひどかった。
イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
ほかの人が「まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
イエスはその人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
イエスは言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行け。見よ、わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群に羊を送り込むようなものだ。金も、袋も、履物も、杖も持って行ってはならない。道で会った者に挨拶してはならない。その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。そこに平和の子供がいるなら、その挨拶は受け入れられるだろう。もしそうでなければ、その平和はあなたに返ってくる。同じ家にとどまり、そこで与えられるものは何でも食べ、飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へと渡り歩いてはならない。あなたがたを迎え入れる町に入ったなら、前に置かれるものを食べなさい。病人には気遣い、「神の国は近づいた」と告げなさい。あなたがたを迎え入れない町に入ったなら、出ていくとき、足の埃を払い落としなさい。そして、「それでも、たしかに、神の国は近づいた」と告げなさい。」
「祈るときは、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせないでください」」
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものもない。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。五羽の雀が青銅貨二枚で売られているではないか。だが、その一羽さえ、神が知らなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
群集の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」しかし、イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしょう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った「こうしょう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分の魂に言ってやるのだ。「魂よ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。」しかし神は、「愚かな者よ、今夜お前の魂は取上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとをりだ。」
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈入れもせず、納屋も倉も持たない。だが神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。百合がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花ほど着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それは世界のだれもが求めていることだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さびつくこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になる、その枝には空の鳥が巣をつくる。」
また言われた。「神の国はパン種に似ている。女がこれをとって三杯の粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた。すると皆、次々と断った。最初の人は、「畑をかったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言った。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言った。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも連れてきなさい。」そこで、僕は大通りに出て、見かけた者を皆集めて来たので、家は客で一杯になった。」
「父や母を憎まない者はわたしから学ぶことはできない。息子や娘を憎まない者はわたしの学舎には入れない。自分の十字架を担ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味がつけられようか。畑の肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」
 
以上が、ジョン・クロッペンボルグによる「原イエスの言葉」です。
「原イエスの言葉」と新約聖書の福音書の物語とを読み比べてみると、前者のほうが心に響くと感じるのは、私だけでしょうか。
キリスト教の模倣魔術は、物語だけではなく、聖なる絵にもあるようです。
キリスト教で有名な聖画のひとつ、フレスコ画の聖餐式シーンを描いた「最後の晩餐」は、キリスト教のライバル・ミトラス教の、二世紀頃に完成したミトラス・ソル両神の聖餐式の絵とソックリということです。しかし、その絵は現存しません。キリスト教徒サンタ・プリスカの仲間達により、徹底的に破壊されてしまったからです。
さて、この節では、キリスト教を研究することが目的ではなく、日影幽玄の名前をブランド化させることです。そのために、プロモーションツールを創る目的として、新約聖書の模倣魔術をみてきたわけです。
新約聖書にも、ネタ本があったわけですから、もし、日影幽玄のブランド化のための「聖書」創りを考える場合、その手を使うことは賢いことです。
その方法のひとつとして、自分の目指す方向と同じ生き方をした人の真似をすることです。つまり、ブランド化のためのスケジュールを創る場合、参考とする人物の伝記を研究し、その道程を真似ることです。その場合、ひとりのひとではなく、複数人のひとの部分部分の生き方を参考とすることも考えられるでしょう。
模倣魔術とは、姿かたちを真似るだけではありません。先人の生き方を真似ることも、その術なのです。それが、模倣魔術の応用ということです。
さて、そのように、日影幽玄をブランド化させるには、長い道のりが必要なのでしょうか。瞬間的に、ブランド化する方法はないのでしょうか。
そこで、瞬間的にブランド化する魔術を次に考えてみましょう。
その魔術とは、賞の魔術です。
 
 
賞の魔術(変身の儀式)     
 
 
 
水を器に入れ、その器を熱して行くと、ある温度を越えると、液体から気体に変成します。何故か。九十九度と百度との一度の差は何を意味しているのでしょうか。
水銀と硫黄の化合物である辰砂(朱砂)を焼くと、硫黄成分が燃えてなくなり、水銀を採取することができます。その水銀の中に、金鉱石や銀鉱石を砕いたものを入れると、鉄を含む不純物は分離され、金や銀を含むアマルガムが得られます。そして、そのアマルガムを蒸留すると、水銀は除去され、あとに、金や銀が残ります。
今の化学では、そのような湿式冶金法をアマルガム法などと、化学記号を用いて簡単に説明できるでしょう。
しかし、鉄が錆びることが、酸化によることも分らなかった時代では、錆びる金属と錆びない金属との因果関係を化学的に説明することも困難だったのでしょう。
そこに、金属の変成を研究する人達が出現するわけです。
その時代は宗教が世界を支配する時代でしたので、智恵あるひとが、神の創った不完全な金属を、完全つまり神の領域へ導くことを考えたのでしょう。
不完全な金属から完全な金属への変成、それが巷で練金術と呼ばれる頃には、最初の志とかなり異なり、金儲けのインチキ化学となってしまったようです。しかし、本来の錬金術は、不完全な金属つまり鉄を、鉄(火星)→銅(金星)→鉛(土星)→錫(木星)→水銀(水星)→銀(月)→金(太陽)の順序で段階的に、金属の神である金に変成することにあったのです。
この卑金属から貴金属へと変成することを目的とした錬金術の方法論が、精神世界に持ち込まれ、不完全なこころを完全なこころに変成するための色々な技法、科学的(?)心理分析から宗教的秘儀まで、が開発されてきているわけです。
本来の錬金術は、化学の礎となり、一般の人達から距離が離れて行ってしまったようですが、平凡なひとから完璧なひと、或は超人的なひとへの変身願望は、子供から老人まであらゆる人達のこころの中にあるようです。
そこで、この節では、無名カメラマン日影幽玄の瞬間的ブランド化のための、変成(錬金術)を考えてみることにしましょう。
心身が金属で構成されているならば、酸化や還元を促進させる触媒を使い、心身を変成させることは可能でしょう。しかし、心身はそのような化学の力では変成できません。そこで、宗教、哲学、心理学など、心身を変成させることができると信じられているレトリックが発明されてきているわけです。
現在では、宗教や哲学は、心理学ほどの魔力がなくなったとはいえ、一部の熱狂家には、今だ心身の変成の触媒として利用されているようです。一方心理学は、時代のニーズに合わせて心理学用語を次々発明することにより、心身の変成を望む人達のこころを捉え続けているようです。
しかし、それらの触媒も目覚ましい成果を得ることはできないかも知れません。何故ならば、身体の方は医学的検知から、そのメカニズムが解明されつつありますが、こころの方は、今だブラックボックス状態だからです。こころがどこにあるのか、何によって構成されているのか等の、万人を納得させる基礎情報も定かではないからです。こころは今だ、魔術の時代にいるのです。
それでは、こころについて解明されていなければ、こころを変成させることが出来ないのではないか、と思うでしょう。しかし、テレビジョンのメカニズムを知らなくても、それを楽しむことができるように、こころのメカニズムを知らなくても、禅、ヨーガ、シュルツの自律訓練法、旧約聖書の瞑想法などの触媒を使い、こころをコントロールし、変成させることは可能でしょう。
だからと言って、そのような手法で、こころを鉄から金に変成できたとしても、ブランド化に成功したことになりません。つまり、厳しい修行を行い、個人の力により、こころを錬金術的に「鉄」から「金」にしたところで、他の多くのひとたちがそのことを認めなくては、ブランド化に成功したことにはならないからです。
そこに目を付けたビジネスがあるわけです。そのひとつが学歴ビジネスです。宣伝広告の手法でブランド化された学びの学舎は、入学者を断るほどの賑わいをみせています。それは、そのブランド化された学校を、勉学に励まず、遊び暮らして卒業しても、その人物はブランド化できるという「感染魔術」が使えるからです。
この魔術の効力を知った学校経営者などは、金儲けの為に、幼稚園から大学院まで、宣伝広告に金を使いブランド化を目指しているわけです。そのため、本来こころの錬金術の場としての学校が、金儲けのインチキ学校になってしまっているわけです。多額な入学寄付金をとることなどは、免罪符を販売したローマ・キリスト教を模倣したのでしょうか。
では、日影幽玄は、ブランド化する目的で、ブランド幼稚園入園からやり直さなければならないのでしょうか。
カメラマンと似た職業に文筆家がいます。その文筆家のブランド化を観察し、研究すれば、無名カメラマンから、ブランド化カメラマンに変成するためのヒントが得られそうです。
毎年、出版業界では、○○賞なる新人作家のためのショーを行なっているようです。その賞を受賞すると、瞬時にブランド化され一流作家の仲間入りとなるわけです。
そこで疑問が起こるのです。そもそも、その新人がその賞に応募した時点の作品は、アマチュアの作品であるわけです。それが、たまたま賞を受賞しただけで、何故、その文筆家がブランド化されてしまうのでしょうか。
そこで、賞の魔術・変身の儀式の舞台裏を覗いてみることにしましょう。
出版社は、出版物である本を販売することにより、収益を上げているわけです。その為に、一冊でも多く本を売るための仕掛けを考えるわけです。そのひとつが、有望新人の発掘です。
それでは、有望新人を発掘し、何の儀式もせずその有望新人の作品を書籍として発売したら、爆発的に売れるものでしょうか。
そもそも、文学における有望とは、何を基準にしているのでしょうか。スポーツの優劣が数値で計れるのと異なり、文学や芸術はひとびとの好みを基準にしているのです。つまり、こころに問いかける文学や芸術に、優劣をつける基準などもともとないのです。それは、こころ自体が、固定された状態を保っているのではなく、不安定で一瞬一瞬変化しているからです。つまらないこころの状態である時は、客観的に素晴らしいと思われる文学作品でも、つまらないものに感じるし、その反対に、こころがウキウキしている時は、つまらない作品でも面白く感じてしまうわけです。箸が転げるだけで笑う年頃の娘達を主なるお客に、つまらない素人コントで商売をしている一部上場企業も実際にあるのです。
そのように基準などないことに基準を創ることにより、ひとびとは疑問を持ち、それが興味に替り、その文学なり芸術作品を読んで、或は見てみたい欲求が生じるわけです。つまり、自身の価値基準とその作品とが同等かを確認するための欲求が生じるわけです。
その格差が大きいと思われるほどにすることが、出版社の戦略なのです。つまり、有望新人を「神」の位に引上げることです。
その戦術とは、もうあなたにはお分りでしょう。賞の魔術の基本は、「大工のイエス」を「キリスト」に変身させることです。
アマチュア作家をブランド化させる戦術とは、ホトケとなった著名作家(父なる神)を感染元とし(多分その新人賞の名前は、超有名な故人となったひとの名前を冠としているでしょう。)、そして、その感染儀式において新人作家を神の座につけることです。その場合、洗礼者ヨハネの役割は、選考委員長となるわけです。
賞の魔術とは、無宗教知識人が軽蔑している宗教儀式と基本は同じなのです。つまり、賞の魔術とは、感染魔術を、近代的舞台装置の上で執り行うことが、その実体なのです。
ですから、公募と言えども、その出版社組織と宗旨が異なる作品は、儀式の運営途中で意識的に除外されることになります。
もしも、あなだが、賞の魔術によりブランド化を計ろうと考えているならば、その主催者や選考委員達の宗旨を調べておく必要があるでしょう。
いずれにしても、賞の魔術で、瞬間的に無名からブランド化に変身できることは、確かです。しかし、この魔術は、自分でコントロールできません。運、不運が紙一重の魔術です。変成の一度が、九十九度前と知ることが出来ないからです。
それでは、賞の魔術と同等の効果のある方法を、試してみるのもよいかもしれません。これなら、ある条件を満たせれば、多くのカメラマンが実行可能でしょう。
その方法とは、一流ブランドの雑誌のスペースを購入して、写真作品を掲載することです。そのためには、多額な資金を必要としますが、それなりの効果が期待できるでしょう。
物質を変えるには、触媒が必要です。心身を変成するにも触媒が必要です。その触媒は、ひとりひとり異なります。自分に合った触媒を探すことは、撮影技術を向上させることと同じように大切なことなのです。
そこで、次に自分に合った触媒を探す方法を考えてみましょう。
 
 
魔術から未来へ     
 
 
 
広告会社が、ブランドマーケティングなどと近代的な洒落た言葉を発明して、クライアントを惑わしたとしても、その実体は「感染魔術」であるわけです。ブランドマーケティングとは、「感染魔術」により、ひとびとのこころの中に任意のイメージを構築し、ものやサービスの販売を有利にする大昔からある技術のひとつであるわけです。その技術の元祖は、宗教の布教活動です。
カメラマン日影幽玄のブランド化のプロモーションも、突き詰めれば、「感染魔術」を使って、ひとびとのこころの中に、任意のイメージを構築することなのです。そのためには、ひとびとのこころの働きや、ものごとの見え方を知る必要があります。
こころの働きは、今だ謎の中ですが、ひとのものごとの見え方については、いろいろと解明されているようです。
例えば、あるひとが、丘の上に立って下界の風景をグルッと見渡したとすると、そのパノラマは、三百六十度の風景と知覚できるでしょう。しかし、ひとの視覚は、一度にその景色全体を見ることはできないで、三十五ミリカメラレンズで換算すれば約八十ミリレンズ相当の写角しか、網膜に焦点を合わすことができないのです。にもかかわらず、具象的で完全な全景は、常にそこにあるように感じられるのです。
それは、カメラの知識によるもので、ひとびとは自分の頭の中に外部の現実風景の写像が映っているのだという誤った「信念」を持っているからです。しかし、事実は違います。「情景」というものが外部世界に存在していることはなく、それは感覚器官によって中継され、脳内で一連の変換をうけたさまざまな振動数が、記憶されたイメージなどとミックスして、最後に「知覚として」外界に投影されたものにほかありません。このことを「信じた時、はじめて見る。」と言っていることです。知覚された情景は、こころの内部の気づきがなければ、「見ること」もできないのです。
その逆に、こころの内部に、外部の力により任意のイメージを構築されてしまえば、外界もそのように「見えてしまう」のです。
その魔術を応用して、政治的にひとびとをコントロールする技術のひとつが「思想」です。
1991年、ソビエット連邦という国が消滅してしまいました。その国は、マルクス主義の思想を基に建国されたのでした。
その思想によりますと、歴史には一定の方向があるということです。原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→現代資本制→未来の共産制へと、世界の歴史は未来に向かって段階を踏んで進み、共産制に辿り着くと、歴史は止まる、というアイデア(思想)です。(そのような流れのないアフリカの国々はどのように説明するのでしょうか。)
この「思想」は科学的唯物史観というプロモーションで、当時のインテリ学生に受け入れられました。インテリ学生達のこころの中に、その思想がイメージとして構築されしまった結果、資本主義は「悪」で、共産主義は「善」という短略思考に陥ってしまったわけです。(実は、資本主義も共産主義も同じ仲間が創作した思想なのです。)
それでは、そのような、世界の歴史は一定方向に段階を踏んで進化し、悪(資本主義)は善(共産主義)に破られ未来の輝く世界が出現する、という歴史観がどのようにして発明されたのでしょうか。
それは、十九世紀とブルジュア生まれのマルクスの生活環境にヒントがあるようです。
十九世紀のヨーロッパでは、ダーウィンの進化論が一世を風靡していました。それに、マルクスは「旧約聖書」の影響下のひとなのです。マルクス思想のアイデアは、ダーウィン思想を模倣した経済的進化論と、旧約聖書が模倣した古代ペルシャのゾロアスター教の「善悪二元論」を基に開発された「思想」であったわけです。
その「思想」に感染してしまったひとは、ソ連が消滅してしまった現在でも、未だに世界を、そのように見ているわけです。
一寸引いてその思想を観察すれば、その非現実的な空想的マルクス主義思想も、机上の空論である、と気づくことができたでしょうが、某有名大学教授のブランドマーケティングのプロモーションにより、インテリ学生達は折伏されてしまったのでしょう。
そのように思想が、ものの見方のフレームを決定してしまうのならば、その思想(考え方)を自分の都合の良いものに替えてしまえば、世界の見え方が変わる理屈になるわけです。
心身が変成するとは、ものの見方と考え方が、今までと替るということです。つまり、思考は、行動を支配するからです。ですから、目標に向かって今までと異なる行動を起そうとする前に遣ることは、思考回路を今までのものと替えることです。そのヒントは、今までに述べたつもりです。
更に、今まで他のひとたちから与えられた知識という「メガネ」を外してみるのも、ひとつの方法かもしれません。
それと、ものを見る立場を替えてみるのも、ひとつの方法かもしれません。その方法とは、ゾロアスター教のアイデアを取り入れた、ユダヤ・キリスト教の「善悪二元論」から脱却することです。脱却したら、今までとは異なる場所からものごとを見ることです。その立場とは、縄文のこころで、あらゆるものに神が宿っている、と言う考え方です。そのような非体制的立場では、二元論のレトリックの罠に陥ることはないでしょう。そのことにより、思考回路のフレームが今までより広がることでしょう。
未来が輝いているとか天国があるとかは、他のひとが決めることではありません。それは、あなた自身が決めることです。
あなたには、未来がどのように見えますか。その見えた未来が、あなたの行くべき目的の地なのです。
そこへ辿り着くヒントは、外部にあるのではなく、あなたのこころの中にあるのです。外部での物探しは止めて、あなたのこころの中を探してみましょう。
 
「求めよ、さらば与えられん。」と言う言葉は真実です。
 
 
 
 
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魔術篇完  自立篇へつづく