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プロカメラマンになれる本(2)
魔術篇
 
 
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この本のテーマは、こころの奥の領域の不可思議な分野についてアプローチしようとすることです。その準備段階で、タイトルをどのように付けようかと悩みました。と言うのは、「魔術篇」というイメージが、ひとによって異なるからです。それは、善く解釈するひとと、そうでないひととの開きが無限大だからです。
しかし、色々考えた末、やはりこの本のテーマを表すには、「魔術」という言葉しか思い浮かばないのです。そこで、本題に入る前に、「魔術」についてのひとつの考え方を述べてみることにします。
この本を構想している時、ある夢を見ました。それは以下のようなストーリでした。
 
ある日、ある所で、二人が言い争っているのです。そのひとりは昼間の住人で、もうひとりは夜の住人です。よく見ると、二人とも一寸変わったメガネをしているのです。
そのメガネは、それぞれの世界の環境に適しているようで、昼の住人のメガネは、カメラレンズで言えば、F値32位で、そして、もう一方の夜の住人のメガネはF値0.1位です。
二人の言い争いとは、昼間の住人が、夜の住人に向かって、「夜の空にピカピカ光るものなどないではないか。ただの真っ暗な世界しか見えない。」と言うのです。それに対して、夜の住人が、昼の住人に向かって、「昼の空に、大きく輝く赤い球などないではないか。ただの真っ白な世界しか見えない。」と言うのです。そして、お互いに「嘘つき」と言い争っているのです。
 
その夢について考えてみました。その夢は何を言いたかったのか。そして、それらのメガネとは何を意味しているのか、と。
そのようにしているうちに、その夢が何を言いたかったのか、そして、メガネとは何かが閃いたのです。まず、そのメガネですが、昼の住人のメガネは「科学的思考」を、そして、夜の住人のメガネは「宗教的思考」を象徴し、その二人は、それぞれのメガネをかけたことにより、同じ地球に住みながら、違う世界に暮らすことになってしまったことです。
でも、その二人は同じ母から生まれた兄弟だったのです。その母とは、「魔術」です。
ひとがこの世で言葉を道具として、初めてイメージを創り上げた時、宇宙の秩序を解明するには、もう少しの時間が必要でした。しばらくして、知恵者が現われ、あらゆる自然現象は偉大な力により支配されている、と直感したのでしょう。
ひとは言葉により考え、そして記憶し、その記憶をイメージとして子孫に伝承することができます。
そのように自然現象を長期間観察し、そこにある秩序を見出、そのことを体系化した者が出現しました。それが「魔術師」です。魔術は畏怖の世界でした。その不可解な魔術世界に、さらなる知恵者が現われ、ひとは何処から来て、何所へ行くのかをわかり易く語る「宗教」を発明しました。しかし、その宗教世界における神の技に疑問を持った、言葉を道具としてあらゆる現象を客観的に分析する、科学者が出現しました。そして、現代の科学時代では、その独善的な思考の結果、色々な矛盾が排出してしまい、生活環境の悪化防止のための新しい発明(考え方)が切望されているわけです。
そのように歴史を遡れば、魔術が、宗教や科学の母であることが分るでしょう。
そうは言っても、義務教育で「魔術的思考」(暗闇の世界での出来事だけを考えること。)を封建的というスローガンで封印し、「科学的思考」(昼間の世界での出来事だけを考えること。)のメガネをかけさせられてしまっている、現代の大部分の人達は、魔術が、宗教や科学の母である、ということを理解できないかもしれません。
しかし、ひとのこころには、その流れが科学時代の今日まで連綿と続いていて、魔術のイメージをこころの奥深い所に留めているのです。そして、こころが不安定の時、こころの底から浮かび上がって、ひとの気持ちに色々不可思議なことを起すのです。
現代では、広告代理店等がその技術を応用して、スポンサーに都合のよいイメージを創造し、人々への販促ビジネスを展開しているのです。
現代科学医療の最先端のアロパシー医学(主に薬物により医療行為をすること。その対極に自然治癒に根ざすホメオパシー医学がある。)も歴史を遡れば、中世ヨーロッパの錬金術師のパラケルススにたどり着くのです。そのころの医療行為(英雄医学といわれていました。)は、ランセットで静脈を切り瀉血するのが主流で、パラケルススの医療技術は、異端で「魔術」と言われていたのです。
そこで、プロカメラマンとして、この科学時代の世界で自己実現する手段のひとつとして、その「魔術」を使えたらどうか、と考えたわけです。
魔術には、大きく分けて「白魔術」と「黒魔術」との二つに分けられるそうですが、この本における魔術の定義としては、「ひとのこころにある自動行動プログラムを操作する技術」と言う範囲にとどめることにします。
この技術を修得するために、三章に分けて述べることにしましょう。第一章は「内なる魔術」で、物事の見方・考え方について再考してみましょう。第二章は「魔術の舞台」で、この世の舞台裏を覗いてみましょう。そして最後の第三章は「外なる魔術」で、ブランドマーケティングの基本、いかにしたら有名もしくは一流のイメージが創れるのかを考えてみましょう。
あなたが魔術の世界に入るのは簡単です。「メガネ」を外せばよいのです。
 
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第一章 内なる魔術 
 
 
撮影者は誰か     
 
 
 
ここに素晴らしい写真があるとします。その写真は親鳥がヒナ達に餌を与えるため、巣の近くで飛翔している瞬間の状態を見事に捉えているものとします。
その写真作品の撮影の裏話として、高速で飛ぶ親鳥をブレないように撮影するために、高速ライトと赤外線自動撮影装置とにより、無人撮影できる機材を駆使して撮影したとします。そして、その機材はレンタルしたものとします。さらに、巣の近くにそれらの機材をセッティングしたのは、プロカメラマンの助手がしたものとします。そして、その撮影のフィルムから取材費、そして機材レンタル費まで、スポンサーである出版社が出費したものとします。その写真の企画はディレクターがしたものとします。有名プロカメラマンがしたことは、巣の近くで撮影機材をセットする場所を指差しただけとします。
さて、このようにして撮影された写真作品の撮影者は、いったい誰なのでしょうか。
出版社は、写真集を一冊でも多く売ることを考えます。そのためには、どのようにしたら売れるかを考えて写真集を企画するわけですが、どのカメラマンがその撮影者として相応しいかを考慮するわけです。
物理的に言えば、目的とする被写体を最高の状態で撮影することができる技術があれば、カメラマンの選定など問題外ですが、実際はそうではないのです。
同じ写真集であっても、無名カメラマンの名前が明記されたものと、あるイメージを持った(ブランドイメージと言うそうです。)カメラマンの名前が明記されたものとでは、その売れ行きに歴然とした差がでることは確かです。
このことは、あなたの身に付けている物でも説明できるでしょう。
あなたの腕にあるその高級時計のことを考えてみて下さい。その高価な腕時計をどのような意図あるいは基準で購入したのですか。
時を計るのであれば、千円のクオーツ時計のほうが、その全自動巻上げ式の時計より、精確でしょう。一週間に秒針の修正をしなくてはならない、その秒針の狂う高級時計を何故購入したのかは、基本的には、前述の写真集と同じ要因を持っているのです。
その基本とは、フラセボ反応(医学の世界では「プラセボ効果」として使用していますが。)のことです。
「プラセボ」という言葉は、「ひとを満足させる」と言う意味のラテン語だそうです。そのラテン語が、ローマン・カソリック教会で、特別な祈りを意味する言葉として英語圏に入ってきて、その意味が変性し、「おせいじ」「おべっか使い」となり、やがて医師の専門用語に定着したそうです。
1811年度版のある医学用語辞典には「患者を益することはなくても気休めになる薬の通称」とあるそうです。
そのように揶揄されているプラセボも、それを服用した患者の症状が改善されたり、時には消失してしまうことは、よく聞く話です。
そのように、ひとのこころの奥深くには、科学的理論では説明できない、プラセボ反応回路(自動行動プログラム回路)があるのです。
あるものを与える、あるいは示すことで、物理的には同じでも、心的に変性し、反応を示すことを「プラセボ反応」と言うわけです。この反応(自動行動プロクラムを作動させること)が、魔術の基本となるわけです。
しかし、その反応を起すには、技術が必要です。その技術とは、「セット」と「セッティング」です。
「セット」とは、簡単に言えば、刷り込みの技術のことです。刷り込みとは、別の表現では、学習のことです。
あなたが、秒針の狂う高価な全自動時計を購入してしまったのは、宣伝技術という「刷り込み」により、その時計が特別な物(時を計る目的以上に)であると、こころに「セット」されている前提があったからです。
「セッティング」とは、刷り込みされたことを実行に移すための「舞台装置を創造する」技術のことです。
あなたが、その高価な時計を購入した時を思い出してください。その時、多分特別な雰囲気になっていませんでしたか。その雰囲気創りがセッティングというわけです。そのために、広告宣伝の世界では、色々な記念日(クリスマスセールとかバレンタインセール等等) を発明してきています。
宣伝広告の基本的用語や考え方は、軍隊のマネージメント(ストラジティ[戦略]やタクティクス[戦術]などは広告会社のプレゼンテーションにはなくてはならない言葉です。)からの租借です。その軍隊のマネージメントも宗教組織のマネージメントからの租借なのです。その宗教組織のマネージメントも、もとを質せば「魔術」を起源としているわけです。ですから、ひとの自動行動プログラムを作動させる基本は「魔術」にあるということになるわけです。
写真機材の進歩は目覚しく、その未来を予測するのには勇気が必要です。そのような近未来を目指して、プロカメラマンとして生き残るには、撮影テクニック以外の技術を修得する必要があることが理解できたと思います。
それらの技術のひとつとして、ひとのこころをコントロールする技術は、一流プロカメラマンとしてアピールするための基本となるでしょう。なぜならば、ひとの行動の全ては、こころから起こるからです。
その技術を修得する基礎として、ひとがどのようにものごとを見ているのか、あるいは見させられているのかを、次に考えてみましょう。
 
 
写真はイメージの媒体     
 
 
 
ひとは本当に自分の意志や理性で、科学的および理論的に世間の物事を見て、そして考え、行動しているのでしょうか。もしそうだとしたら、世の中には思い込みや見間違えなどないはずです。しかし、実際はどうでしょうか。
プラセボ反応は、この思い込みや見間違えの要因のひとつです。それらはどのように反応するのかと言いますと、「型質が似ている物は、互いに影響がある」と「触れた物は、互いに影響がある」、であろうと思い込みをしてしまうことです。
たとえば前者では、全くの他人ですが、姿形が似ている人は、その性格も同じであろうという反応です。後者では、何かご利益があると言われている物に触ることにより、そのご利益が手に入るであろうと言う反応です。
それらの人々の反応を、実社会でうまく応用しているところがあります。
例えば、姿形を真似ることにより、こころも変身できるであろうと思い込む人々の欲求を満たすため、その要求するイメージを衣装として販売するファッション産業のモデルの使い方や、触れたものはその影響力が感染するであろうと思い込むことを利用して、選挙運動での新人議員が国会の有力議員と握手しているポスターなどを、広告代理店等が制作することなどです。
姿形を、モデルを真似ることにより、そのようなイメージが手に入るであろうと思い込み、世間の人達が一斉に行動を起すことを、一般的に「流行」と言っているわけです。
ポスターでは、有力議員と握手できるのであれば、それと同等とまではいかなくても、それなりの議員として実力があるのであろうと、イメージの感染に人々が反応することを見越して制作しているのです。
それらの反応は、誰のこころにも、自動行動プログラムに回路としてあるわけですから、「セット」と「セッティング」の技術の上手なひとにかかれば、簡単に起すことができるわけです。
前節で、撮影者が誰であるかが、その写真集の売れ行きを左右してしまうと言ったのは、その反応によるからです。ブックカバーにその写真集に相応しいイメージを持ったカメラマンの名前が印刷されているとすれば、その写真集はそのようなイメージの内容であろうと自動的に反応してしまい、内容も確かめずに購入してしまうわけです。ですから、無名カメラマンの場合、有名人の推薦文が腰巻に印刷されているのは、そういうわけです。
それでは、どのようにしてそのような反応を起してしまうのかは、科学的に説明できませんが、どうもひとは、ものごとを「在りのままに見ることができない」ことが、その原因のひとつと思われます。
それでは、ひとはどのようにして物事を見ているのでしょうか。
まず物体の方ですが、ひとが物体を見る時は、光を観測手段として用いているのであって、物体それ自体を見ているわけではありません。つまり、ひとは、物体をみているときは、その物体が反射している光(イメージ)を見ているのです。
しかし、その反射している光(スペクトル)を全て見ているわけではありません。眼は、可視スペクトルのうちの放射線電磁波エネルギーに対して応答するのです。しかし、電磁波スペクトルの全体エネルギー帯のわずかな隙間でしか、可視スペクトルは存在していないのです。全体のスペクトルは、一メートルの十億分の一から千メートル以上の範囲に及んでいるのですが、ひとの眼は、わずか四百から七百ミリミクロンの間しか、応答しないのです。その範囲のことを、可視光線と呼んでいるわけです。
さて、そのような反射光をみているひとのメカニズムを見てみましょう。
眼の構造を説明する時、一般的に「カメラ」を例にするようですが、ひとの眼は、そのように単純なものではないようです。
単眼の場合、網膜上の視細胞には、明るいところで働き光の波長を識別する「錐体」という細胞が約七百万個あり、そして、暗いところで働き波長の識別機能がない「カンタイ」という細胞が約一億三千万個あるそうです。つまり、網膜上には、光の受容器が約一億三千七百万個あるそうです。
しかし、ひとの大脳の視覚野につながっている神経繊維は約八十万本しかないそうです。
つまり、視覚情報は、網膜上で「なんらかの情報処理」が行なわれ、その選ばれたほんの少しの情報のみが、大脳の視覚野へ送られることになるわけです。
それでは、ひとが物体を認識するには、視覚情報が少なすぎて全体像が見えないのではないかと思われるでしょう。しかし、ひとの大脳の視覚野では、眼から入力され選別された視覚情報と、予め記憶された情報を保管してある脳の分野とを連動して、「モノ」を見ているのです。脳は、網膜上の全受容体の情報を処理できる能力はないのです。
つまり、ひとは、眼、視神経そして脳細胞を利用して、眼で見ている「モノ」を、予め「セット」されている情報と関連させて、「自己認識」しているわけです。このことを、一般的に、「物事を見ている」と言っているわけです。ひとには、物事を時間をかけたとしても、実物を在りのままに見る能力はないようなのです。
ですから、「モノ」の見え方は、「セット」つまり、学習と記憶に負うところが大ですから、そのひとの「モノの見方」のセットのされ方により、各々異なるわけです。つまり、学習能力と記憶能力とにより、個人の視覚が形成されるわけです。と言うことは、同一物を見ていても、皆が皆、同じ様に物を見れるわけではありません。
この見え方については、あるキッカケや他人から一寸したアドバイスを受けたことにより、今までと違った様に物事が見えることを、世間では「眼から鱗が落ちる」と表現しています。昔のひとは、「見え方」の科学的理屈などわからなくても、考え方(脳細胞に記憶されたイメージ)が変わることにより、物事の見え方が変化することを経験から知っていたのでしょう。
さらに、ひとが見る(自己認識すること)、というメカニズムの不可思議があります。
それは、視覚情報が眼から入り、脳の情報処理をして、物事を自己認識(見るということ)するには、十五分の一秒のタイムラグがあるということです。
このことは、写真を撮るあなたには理解できるでしょう。
例えば、映画です。映画を構成しているのは、静止画の連続体です。つまり、映画は静止している場面の連続を見ているのです。しかし、あなたは、その静止画の連続体を時が流れているように見ているでしょう。その様に見えても、実は、その静止画の連続体は、一秒に二十四駒で構成されているのです。
テレビの場合、毎秒三十駒で構成されているわけですから、写真を三十分の一秒以上の速いシャッタースピードで撮影すると、ブラウン管上の映像を撮ることができないことは、あなたにも経験で知っていることでしょう。
そのように、ひとは物事をリアルタイムで見てはいないのです。リアルタイムではない情報を、リアルタイムのように見えてしまう(脳の視覚情報処理による自己認識のこと)ことは、不思議なことです。
さらに、ひとの眼には、別の不可思議な能力もあるのです。
眼の網膜上の光を受容する細胞は、光子(フォトンと言うそうです。)一個を吸収すると一個の神経応答が発生すると言われています。その神経応答は、十分の一秒の光の刺激を与えると、光を受容する細胞がそれを認識するらしいのです。
しかし、この瞬時の光を認識する働きは、脳の視覚組織や視覚神経繊維とに繋がっていないことにより、ものごとを自己認識(見るということ)することとは別の経路に繋がっているらしいのです。
それはどうも、ひとの潜在意識(魔術の領域)と関係があるようなのです。
そこで、現在の魔術師のひとりである広告代理店のアドマンが、その十分の一秒の情報により、潜在意識に直接働きかける「サブリミナル」というコマーシャル技術を発明したのです。
それは、映画あるいはテレビ番組の流れのなかに、瞬時(駒と駒との隙間に情報を挿入できる時間)に、意図する情報を流すことにより、潜在意識に直接働きかけ、情報操作をする技術のことです。
だからと言って、この技術が万人に有効というわけではありません。これは、「セッティング」技術でしかないのです。この技術を生かすには、操作しようとする人達に、意図する情報を前もって「セット」しておく必要があるのです。つまり、学習のことです。
学習により洗脳(この言葉は宗教活動だけではなく、学校教育、あるいは宣伝広告などすべての情報伝達を含みます。)されてしまった人達には、この技術は脅威です。それは、防ぐ手段がないからです。
(このサブリミナルの「セッティング」技術は、民放テレビのこころないひと達により、ある組織の布教活動に利用され、実際に行なわれてしまった為、現在放送業界で禁止されています。)
そのように、人間の行動のひとつである「見る」ということだけでも、そのように不可思議なこと(魔術的に)があるのです。
このことを無意識に感じていた人達の潜在欲求が、物事を在りのままに見てみたいと思い、絵画の道具のひとつであった「カメラ・オブスキュラ」の暗箱と錬金術(魔術の一派と考えられていました。)から派生した化学との融合で、時間と空間とを切撮り、在りのままの像を保存できる「写真機」を発明させたのでしょう。
絵画に比べて安い費用で、且つ、真の映像を保存できる写真の始めの仕事は、肖像画家の仕事を奪い取ることでした。やがて、その潜在能力にきずいた人達は、軍事目的で、写真を利用しました。それは、敵側の情報を短時間で収集できること、そして、映像という情報を操作することにより自軍のプロパガンダ(この言葉は、プロテスタントが布教宣伝をすることをカソリック側が揶揄するために発明されたものだそうです。)に利用したのでした。
さらに、別の潜在能力にきずいた人達が、文字情報の伝達力を補う手段として利用し始めました。フォトジャーナリストの出現です。「これが真実だ」という写真をマスコミに発表することが正義となったのです。
写真がマスコミでの情報伝達の黄金時代を謳歌できたのは、テレビの出現前まででした。それは、写真はテレビ映像に比べてその情報量が限られるし、現像という処理作業があるためリアルタイムに情報を発信できないからです。さらに追い討ちをかけるように出現したのが、コンピュータグラフィックです。
写真は、物体の反射光がなければ、撮影することができません。しかし、コンピュータグラフィックは、反射光を必要としません。ということは、人工の映像を創作できるのです。それも、「写真」以上に写真らしい映像を創作できるのです。この技術を「写真」に応用してしまったことにより、映像の真実が疑いをもたれてしまったことにより、「写真の真実」の信仰は薄れてしまったのです。
現在では、その技術加工をしていない宣伝写真を探し出すには苦労するほどです。つまり、このままでは、写真は、映像の素材のひとつとなってしまいそうなのです。加工された写真は、イメージの媒体に成り下がってしまいそうなのが、現在の状況なのです。
過って写真は、撮影した時点で仕事が完結していました。しかし、現在ではそうではありません。それでは、プロカメラマンが写真を撮るとは、どういうことになっていくのか、次に考えてみましょう。
 
 
プロカメラマンに残されたことは     
 
 
 
ひとは、物事を在りのままには見れなくて、予め保持している情報を基礎材料として、脳で「視覚」していること、が理解できたと思います。
ですから、視野を広げるためには、脳内の情報を多く保持することが必要なわけです。そのためには、あらゆることを学習する必要があるでしょう。
学習とは、学ぶということです。その語源は「真似る」ということです。つまり、真似るということは、見ることが基本となるわけです。と言うことは、考えるための素材としての情報を手に入れるには、物事をよく見る必要があるわけです。
しかし、ひとはものごとを、眼と脳の機能上、在りのままに見ることができません。「ものごとを在りのまま見る」と言うことは、そんなに簡単なことではないのです。
ですから、一度セットされてしまった物の見方・考え方を変えることは、大変な作業となるのです。それは、ひとの物の見方・考え方は、生まれながらの素質と生活環境とにより、長い時間をかけて、ゆっくりとセットされてきたのですから。
このようなことを聞いたことがあるでしょう。「親を見れば子供が分る。子供を見れば親が分る。」
このことは、両親から、育児をとおして物の見方・考え方をセットされていることを、言い表しているのです。つまり、育児とは考え方・ものの見方の刷り込みなのです。子供の頃に刷り込まれたイメージは、日常の行動に影響を与えますから、親子の行動は似てしまうのです。(親を反面教師として全く似ていない子供も存在しますが。)
ですから、昨今の子供の問題行動の原因のひとつは、その両親にあるといっても過言ではないでしょう。
さて、ひとは、なんらかのコミニュケーション手段により、情報を伝達され、その情報を素材としてイメージを形成することにより、ものの見方・考え方を学習するわけです。
では、そのコミニュケーションの方法はどのようになされて来たのでしょうか。
このことは、次のように説明できるでしょう。
たとえば、あなたが見知らぬ国へ旅をしたとします。あなたはお腹が空いてきたので、食堂を探しています。そこへ現地の人が通りかかったとします。すると、あなたは、その人を呼び止めて、まず、お腹のあたりを手でなでて、それから、お箸でご飯を食べる「動作」をするでしょう。
しかし、その国での食生活の違いで相手が理解できないと感じたら、次に、あなたは、にわか勉強でうろ覚えの単語を「話す」でしょう。しかし、発音が悪いので相手は理解できません。すると、次に、あなたは、紙と鉛筆を取り出して、知ってる限りの単語で「文字を綴る」でしょう。しかし、スペルが正確ではないので相手に通じません。そこで、最後のコミニュケーション手段として、あなたは、食物を食べているイメージの「絵を描く」ことでしょう。その時点で、やっと相手は、あなたを食堂まで案内してくれることでしょう。
このように、「動作」、「言葉」、「文字」そして「絵」と続く一連のコミニュケーション手段の流れも、ひとがそれらの手段を学習するのに、何十万年もかかっているのです。
一般の人達が、絵を使ってのコミニュケーションなどは、人類の歴史においては、それほど昔まで遡れないのです。
狩猟時代では、アルタミラの洞窟壁画のように、絵は呪術の手段と解釈されているわけです。つまり、「姿形が似ているものは、互いに影響がある」というわけです。
絵は、他のコミニュケーション手段より、多くの情報を瞬時に与えることができると同時に、魔術的(潜在意識に直接働きかけられるという意味で)に利用できると知った知恵者が、宗教に「絵」を利用するのです。それが、西洋ではキリストを描いた「聖像画」(イコン)や、東洋では、「マンダラ」等です。
「絵」が技術的な未熟さで二次元的にしか表現できなくて、三次元の現実の世界を描けないと、現実とのギャップを埋めるために、そこに想像力が働くことにより、呪術的に利用できるわけです。呪術や魔術とかは、ひとの想像力(脳内におけるイメージの構築)の手助けがなければ完結することができないのです。
呪術的あるいは宗教的に利用された「絵」も、ルネッサンスを前後して、遠近法や染料と油を混ぜることにより油絵具が発明され、二次元のキャンバスに三次元の表現の世俗的「写実」描写が可能となると、下絵を描く暗箱「カメラ・オブスキュラ」が発明(十二世紀にアラビヤで発明されたという説もあります。)され、金持ち階級に対して、漆くい壁の飾りとしての風景画や財力を誇示するための肖像画の生産が始まるのです。
その様な「写実的」絵を描く技術が、やがて、金儲けの手段(技術料以上の料金を取るということ、あるいは投資という意味)となっていくわけです。つまり、アート(技術)から、芸術(アート)という概念が発明されるわけです。
芸術は希少価値が基本ですから、誰が描いたかの証明が必要です。そこが「技術者」が描く「カンバン画」と違うところです。ですから、芸術画の隅には、画家のサインが必要になってくるのです。(学校教育で西洋美術史の「セット」をされたひとのなかには、美術展で、まずサインを鑑賞してから絵を鑑賞するひとも実際いるのです。)
そのような時代に、「カメラ・オブスキュラ」と光に反応する板を組み合わせた、二人が現われるのです。ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスとルイ・ジャック・マンデ・ダゲールです。今からおよそ百数十年前のことです。そのダゲレオタイプの写真術は、高価で重いにもかかわらず、お金持ちによりたちまち売り切れとなったそうです。
時代が飛んで、絵を描く材料のひとつから派生した、真実を瞬時に写実する「写真」は、デジカメが活躍する電子映像時代では、コミニュケーション手段として、どのように評価されているのでしょうか。
写真が、限られた技術者だけのコミニュケーションの道具であった時代でしたら、物事を写実的に描く技術を持った画家のように、畏怖の目で見られることも可能でしょう。さらに、暗室での現像作業でのみ「写真」を創造出来なかった時代であるならば、薬品を調合して物質を変性させる錬金術師的イメージを引きずることも可能でしょう。
しかし、デジカメの出現で、自動露出、自動巻き上げそしてオートフォーカスの出現時とは異なるイメージを、「写真」に与えてしまいました。
銀塩写真における画像処理は、できないことはないけれども、その処理をされた写真を見抜くことは、誰でも可能です。修正墨でスポッティングの要領で、あるいは、エアーブラシで、最高の技術で処理したとしても、不自然さが残るからです。
ですから、電子映像以前の写真は、「証拠はこの写真です。」というセリフが使え、事実を保持できる媒体であったのです。
しかし、電子映像では、いとも簡単に、それも、誰にも見分けがつかないほどの画像処理が可能になってしまったのです。
つまり、二者は映像としては見分けがつかないけれども、以前の銀塩写真と電子映像(写真とはいえないので「光画」とでも言いましょうか。)とでは、その人々に与えるイメージも異なってしまっているのです。
真実を語っていると思われていた映像は、電子技術処理で簡単にコントロールできることが世間に知れてしまった結果、コミニュケーション手段としての写真映像のプロパガンダとしての威力は、薄れてしまっているのです。それでは、「写真」は「光画」に駆逐されてしまうのでしょうか。
時代の流れとしては、経済性と利便性とにより、技術としての映像は「光画」でしょう。しかし、芸術としての映像は「写真」でしょう。いずれにしても、それぞれの特性により、棲み分けて行くことでしょう。
それでは、ハードウェアとしての「写真機」はどうかと言えば、プロカメラマンとしての映像制作技術領域は、デジカメにしろ写真機にしろ、シャッターを押すだけのカメラを発明してしまったために、エレクトロニクス技術が肩代わりをしてしまっているのが現状です。
デジカメや電子映像機を駆使できれば、誰でも、プロ並の写真が撮れるし、ピンボケ・ブレそして色調補正などの撮影上のミスは、電子画像処理で簡単にリカバーできる時代なのです。
昔、プロカメラマンになるには、カメラ操作、感材のデータ情報を揃える、フィルターによる光源の補正処理のデータを揃える、現像薬品を調合して暗室ワークに熟練する、等等習得すべき技術が多々あったのです。それらの技術を習得できなければ、売れる写真が撮れなかったのです。
しかし、電子映像の時代では、数値とコンピュータとが、それらの技術を瞬時に解決してくれるのです。さらに、画像処理も、スポッティング技術やエアーブラシ技術以上のことが、コンピュータで、暗室などなくても簡単に、それも不自然さがなくできてしまうのです。
そのように、カメラのレンズ以降のことは、電子技術が「ひとの感」に代わって処理をしてくれるのです。
それでは、プロカメラマンに残されたものはないのでしょうか。
いくら電子技術が発達したといっても、レンズ以前のことは、エレクトロニクスにはできません。レンズ以前のこととは、煎じ詰れば、「ものの見方・考え方」です。このことは、いまの技術では、解決できません。
つまり、以前述べた、飛翔する鳥の写真を撮影する場所を指差すことが、プロカメラマンとしての残された領域なのです。
 
 
プロとして写真を撮るとは     
 
 
 
映像の電子技術処理が発達した現代では、写真を撮るといっても、そのクライアントが要求するところを、プロカメラマンは理解していないといけません。それは、技術(素材)としての写真か、それとも芸術(作品)としての写真か、ということです。
銀塩写真の時代でしたら、写真の後処理をするとしても、トリミングをするとか、印刷工程で毛抜き合わせで写真と他の写真とを繋ぎ合わせることぐらいでした。
しかし、電子映像時代の現代では、コンピュータを道具として、部品としての複数の写真を、繋目を不自然さなく合成することが可能です。ですから、初めから写真合成を考えて、撮影を依頼するクライアントもいるのです。特に、広告宣伝写真は、その方向で進んでいます。
それでは、作品としての写真はどうでしょうか。
作品としての写真は、部品としての素材写真と異なり、その写真自体で完結しています。ですから、撮影を依頼するにしても、写真作品を購入するにしても、その写真を後処理することはないのです。
作品としての写真を撮るということは、そのカメラマンの被写体に対する、見方・考え方を映像機材を媒介として、自己表現する行為です。
だからと言って、そのように撮影された写真作品は、ひとびとにその作品自体で客観的に評価されるわけではありません。その写真作家のイメージも、その写真作品に感染してしまうのです。前述しました魔術の、「触れたものは、影響を与える」ということです。
たとえば、全く同じような若い女性を被写体とした写真が二枚あるとします。それぞれの写真に撮影者を明示してみます。一枚は、痩せこけた正義派フォトジャーナリストのものとします。そしてもう一枚は、黒メガネの風俗カメラマンのものとします。それでは、世間はその二枚の写真に対して、同等の評価を与えるのでしょうか。
そのように、写真に付属情報を付けてみますと、同じ被写体の写真も、見る人達に多大な影響を与えてしまうのです。それは、前述しました、ひとのこころにあるプラセボ反応(魔術)によるのです。
このことは、これから撮影する写真作品にも当て嵌まるのです。
正義派フォトジャーナリストの肩書きのプロカメラマンの期待される写真作品は、それなりのイメージを期待されるし、また、黒メガネの風俗カメラマンは、それなりのイメージを鑑賞者に期待されてしまうのです。
つまり、ひとは、目の前の写真自体を客観的に鑑賞しているのではないのです。それは、あらかじめ、そのひとの脳内に期待されたイメージを、その写真を刺激材料として主観的に自己鑑賞(思い込むこと)しているのです。その前もって期待されたイメージと写真作品とが合っていれば、鑑賞者は喜ぶし、そうでない場合は失望してしまいます。
と言うことは、プロカメラマンは、写真を撮る前から、鑑賞者に自己鑑賞されてしまっているのです。ですから、この「こころで見る」というメカニズムを良く知っているプロカメラマンは、生き方、考え方、服装、髪型、そしてアクセサリー等を小道具に、ひとびとに期待されるイメージ創り、あるいはキャラクター創りに腐心しているのです。
このことは、次のようにも説明できるでしょう。たとえば、ここに三人がひそひそ話をしているとします。ひとりは歌手、もう一人は医者、そして最後はカメラマンです。さて、あなたは、それらの三人が何を話しているのかのイメージが浮かぶでしょう。
でも、それらの三人の個人情報をもう少し詳しくすると、そのイメージに変化を与えるでしょう。
ひとりはロックンローラで、もう一人は精神科医で最後は写真作家とします。すると、先ほどのあなたのイメージに変化が起きませんか。なにか怪しい話をしているイメージを与えませんか。
次に、違う情報を与えてみましょう。ひとりは童謡歌手、もうひとりは歯医者そして最後はTVカメラマンです。今度はどうですか。怪しいイメージのままですか。
このように、三人の人達の属性を変えることにより、イメージも変わってしまうのです。このことと同じように、写真のキャプションを操作することにより、写真の事実と全く正反対のイメージを与えることも可能なのです。映像は、こころにあるイメージを解釈する刺激のひとつだからです。ひとが真実を見ることは難しい、とはこのように付属情報を変えることにより、映像の情報も心的変化をしてしまうからです。
ですから、これからのプロカメラマンは、写真を撮る以上に、このイメージ創りにエネルギーを使うことになるでしょう。なぜならば、写真作品に付加価値(カメラマンに要求されるイメージ)を付けることなしには、芸術家プロカメラマンとして生き残れないからです。
さて、技術としての写真と芸術としての写真とは、どのような考え方で撮影に望めばよいのでしょうか。
写真を撮影するとは、見方・考え方の自己表現と言いました。それでは、その二つを分ける基準とは、どのようなものなのでしょうか。
その考えのひとつとして、客観と主観とがあります。客観とは、脳外の情報に比重を置くことで、主観とは、脳内のイメージに比重を置くことです。
この定義で、技術系写真撮影を考えてみますと、カメラマンは、自己の脳内にあるイメージを払拭し、クライアントの要求するところの情報を基に撮影することです。それに対して、芸術系写真撮影は、外の情報を無視して、自己の脳内にあるイメージを基に撮影することです。プロカメラマンとして、写真を撮るには、そこのところを考える必要があるでしょう。
依頼撮影の場合、プロカメラマンは素材としての写真を要求されているのか、あるいは、作品として写真を要求されているのかを、考える必要があることが理解できたと思います。
それでは、依頼ではなく、写真作家としての作品創りはどのような考えで撮影すればよいのでしょうか。
カメラ機材をハードウェアーと考えれば、映像の素材である被写体とは、データと考えることもできるでしょう。そのように考えますと、その被写体としてのデータから、自己のイメージに合う情報を抽出するためのソフトウェアーが必要になります。そのソフトウェアーとは、任意のデータを抽出するためのプログラム、つまりアイデアのことです。
写真の良いアイデアとは、自己のイメージに合わないデータを取除いて、必要とするイメージのデータを集め、それらを材料に脳内にあるイメージに合うように再構築するための考えのことです。そのように、集めたデータで、イメージを再構築するためには、それらを処理するためのプログラムが必要です。
そのプログラムを作るための基本は、家族写真のアルバムを何冊も見せられる苦痛に耐えられるほど、ひとは忍耐強くはないということです。
さて、プログラミングの基本が理解できましたら、次は、ひとびとに魅力あるデータとは何かを考えることにしましょう。
 
 
注目を引く被写体とは     
 
 
 
ダゲレオタイプで写真を撮影していた時代でしたら、ただ被写体を写しさえすれば、ひとびとを驚かせ、楽しませることができたことでしょう。しかし、誰でも写真を写せる現代では、プロカメラマンとしては、写す以前(レンズ前)の技術の研究と開発が必要でしょう。
それらは、プロの写真とは何か、ひとびとはどのような写真に興味をもつのかの研究と開発です。
それにはまず、写真作品を投影するスクリーンに付いて研究することです。ここで言うスクリーンとは、ひとの脳のことです。何故かと言えば、前述しましたように、ひとがものごとを見ているのは、眼球ではなくて、脳で見ている(視覚している)からです。
それでは、ひとが注目する被写体のことを、スライド映写を例として説明してみましょう。
スライドを写真作品とすれば、プロジェクターは眼球で、それを投射するスクリーンを脳とします。
スライドの数が少なく珍しい時代では、どのような内容のスライドでも、プロジェクターにかければ、脳のスクリーンに投影し、そのスライドは鑑賞されることでしょう。
しかし、スライドが日常に溢れ過剰な場合、脳はある基準を基に情報整理をするため、それらは取捨選択されるでしょう。さらに、プロジェクターにかけたとしても、脳のスクリーンは、そのスライドを映すかどうかわかりません。
その基準とは、興味があるかないかによります。スライド製作者の意図するものと、スクリーン所有者との嗜好が合わないとすれば、たとえ、そのスライドが投影されたとしても、スクリーン所持者は、その映像を意識することなしに無視することでしょう。つまり、興味のあるものは、興味のないものより、多く目に入るし、意識もされるわけです。
それではその意識とは何かと言えば、ひとの意識、とりわけ言葉により構築された思考(考え方)や意志(ひとの欲)とに結ばれた自我意識は、大脳の両半球を覆う薄い層である大脳皮質の活動に負うと考えられているようです。
その意識、つまり、「我思う故に我あり」という「考えたり判断したりする力」が、そのひとの全てをコントロールしているのであるならば、意識について研究すれば、どのようなスライドが好まれるか分ることにより、注目される被写体とはなにかを知ることができるでしょう。
しかし、ひとの無意識の行動(ものの見方や考え方)は、ある種の暗示や信念には確実に応答(プラセボ反応も含む)するけれども、大脳皮質の活動だけによる信念や意志の命令には応答しないようです。昔のひとは、このことを「(理性として)分っちゃいるけど(悪癖を)止められない」と表現しています。
大脳皮質の産物である意識的な思考とひとの真のこころ(潜在意識下にある霊的なもの)との間には、何らかの「関所」があって、直接には往き来できないようです。
その関所を通過するためのある種の暗示や信念を加工することが、魔術(宗教における秘儀等も含)の技であるわけです。
そこで、その魔術の技を習得する基礎知識として、ひとの脳について考えてみることにしましょう。
脳は大きく分ければ、大脳、小脳、間脳、そして延髄などで構成された細胞の塊です。そこで注目するのは大脳です。なぜならば、大脳は人間性としての情緒、欲望などの自我意識に関係しているからです。
大脳は、右半球と左半球とに分かれ、脳梁で連絡されています。それらの左右半球は、それぞれの働きをします。右半球は非線的非理論的(時系列や時空を無視すること)な「イメージ」の認知を、そして左半球は線的理論的な「知識」の認知を受け持っているようです。
それらの二つの半球で構成された大脳を機能別にみますと、前頭葉、頭頂葉、側頭葉そして後頭葉との四つのプロックに分けられるようです。
前頭葉は運動領で、文字を書くことや、言葉を喋ることや人間としての行動、そして創造や意志や感情の座と考えられているようです。
頭頂葉は第一次感覚領とよばれて皮膚感覚や味覚の中枢があるようです。
側頭葉は臭覚や聴覚の第一次中枢があるようです。
後頭葉は第一次視覚領で、実はここが前述した脳のスクリーンということです。ですから、もしもこの後頭葉が侵されれば、たとえ眼球が正常だとしても、眼がみえなくなる、つまり視覚できなくなってしまうのです。このことが、ひとは眼でものごとを見ているのではなく、脳(こころ)でものごとをみている、ということなのです。ですから、「信じた時、初めてものごとが見える」のです。
大脳生理学の発展は目覚しいもので、各脳のブロックがどのような機能をもっているかを解明してしまいましたが、それらの機能がどのようにしてではなく、何故働くのかは全て解明することはできていないようです。
科学時代の今だ、ひとのこころがどこにあるのかを特定できてはいないのです。そのこころに、思い悩み翻弄されているひとたちたが、今現在、多く存在しているのです。
そこで、心理学の知識が必要になるわけです。大脳生理学は、言わば、脳のハードウェアーの研究で、心理学は脳のソフトウェアーの研究とも言えるかもしれません。
たとえば、記憶について研究するには、脳の構造を知る必要がありますが、その構造を知っただけでは、その研究は完結しないでしょう。
なぜならば、その脳の記憶構造が解明されたとしても、どのようなメカニズムで、ではなく、「どうして」、そのように脳が働くのかを知ることができないからです。
たとえば、記憶に関しては、レミニセンス現象があります。レミニセンスとは、あることを覚えた時、その直後よりも一定時間後の方が、より多くの記憶内容を思い出せる現象です。
一夜漬けで覚えた内容が、テスト中に思い出せなかった答えが、テスト終了後しばらくたって突然思い出せることなどが、レミニセンス現象ということです。
これらのことは、眼の構造を知っていても、何故ひとが視覚するには十五分の一秒の時間を必要とするかを説明できないことと同じです。構造を知ることと、ものごとの因果関係を知ることには、もうひとつのステップが必要なのです。
それらの脳の不可思議な働きを推理するには、やはり心理学の知識が必要になるのです。
心理学的に脳の記憶についての働きをみますと、ひとが前途に生命の断絶を感じた時、脳の記憶についての働きは、過去に向かうと説明されているようです。
生命の断絶を感じる程でなくても、中年、老年と人生の旅路の終着点に近づいて行くほど、遠い昔の思い出が鮮明に浮かんでくることは、同窓会などでよく聞く話です。
それでは一体、ひとの記憶は何処まで遡れるのかは、生まれた時からという人もいますし、さらに遡って、この世に生物として出現した時から(輪廻転生のこと)と言う人もいるのです。
ひとの脳に保持された記憶は、生物学的に遥か遠くに遡れるのかもしれません。と言いますのは、受精した細胞が減数分裂を繰返し、胎児の形態に変化して行く過程で、魚類の特徴や両生類の特徴が現れることは、学校の生物で学習したでしょう。
記憶が何処まで遡れるのかは、学者に任せることにして、いずれにしても、ひとの脳には膨大な埋もれた記憶としての情報があるのはたしかです。
さて、ひとの性格(ものの見方や考え方を行動に表すこと)は、生まれながらの素質と環境とにより形成されることは前述しました。その性格を形成する要素のひとつの「生まれながらの素質」とは、先祖からの贈物としての記憶であるわけです。
ひとは、生後に感覚器から入力した情報(知識)と生まれながらの情報(知恵)を脳に記憶し、それらを素材として性格を構成しているわけです。
それらの情報をイメージとして加工し、記憶として保持しているものが、「視覚」をするための重要な素材であるならば、注目を引く被写体を知る方法のひとつは、生後の記憶はそのひとびとの環境によりそれぞれ異なるため難しいので、先祖からの記憶を分析することです。何故ならば、それらはひとびとに共通する記憶だからです。
そのあらゆるひとたちに共通する先祖からの贈物としての記憶の基本は、自己の生命を維持増進させるものでしょう。それらの記憶情報がプログラムとなって、生命の維持増進のための行動を起させるのです。
このことを赤ん坊の行動で考えてみましょう。
赤ん坊の行動要求は大きく分けるとすれば、四つでしょう。お腹が空いた時オッパイを飲むこと、排泄の世話をしてもらうこと、安心して眠れるようにしてもらうこと、そして温かい触れ合いを与えてもらうことです。
赤ん坊が、何かを欲求(意識して求めること)して泣き叫んだとしたら、それらの四つの内の幾つかを満たしてあげれば、泣き止む(欲求が満たされたこと)でしょう。
それでは、大人の欲求とはどのようなものでしょうか。
子育てが上手くいかなかった場合、外形的に大人となっても、こころの奥に潜在的に赤ん坊の四つの欲求を強く持っていることでしょう。ですから、そのようなひとには、上記の四つの情報を映像として加工し提供することで、興味を引く映像を提供できるでしょう。
上手くいった場合、自我としての意識(欲のひとつ)が目覚め、異性にたいする情報に興味を持ったり、或いは、哲学的(言葉による分析)な欲求が目覚め、ひとは何処から来て、何処へ行くのであろうか、そして、ひととは何者かとか、ひとが生きる目的は何か、などの情報に興味を持つようになるようです。
さて、ひとは何を求めて毎日を暮らしているのでしょうか。休日、わけもなく街をぶらつく若者達、目的もなく自動車を乗り回している人達、そして一日中面白いとも思われないテレビ番組を見続ける人達などは、いったい何を求めているのでしょうか。
恐らく、それらの人達は、潜在意識にある自動行動プログラムにより、何らかの刺激を求めてそのような行動をしているのでしょう。それらの求める刺激が何か、今は分らないけれども、こころがそのような行動をさせているのでしょう。そして、それらの欲求の基本は、見たい、聴きたい、触りたい、そして味わいたい、などです。
それらの刺激の欲求を「代用として満たす手段」として、映像の存在意義があるわけです。
ですから、ひとびとの注目する被写体を考える場合、潜在意識の中に埋もれている情報としてのイメージを映像化することです。つまり、原初的欲求を満たすことです。
 
 
原初的欲求を満たせ    
 
 
 
ひとびとの注目する被写体のひとつとして、原初的欲求を満たす情報であるとしても、それらを映像化して提供したとしても、万人が受け入れてくれるかどうかは分らないでしょう。
どのような情報でも、それを受け入れる土壌ができていなければ、なきに等しいものです。しかし、渇望されるものであるのならば、その情報は、砂漠の雨水のように吸収されることでしょう。
そのような観点から現在の人達を観察してみますと、情報に振り回されている人達と情報を拒否する人達が多く見受けられるのは、一体どうしてなのでしょうか。
それでは、情報に振り回されているひとについて考えてみましょう。
物質が豊かでなかった時代であったならば、眼に見えない情報などには、眼に見える物質ほどの興味を起さなかったことでしょう。しかし、物質が満ち溢れている現在では、ひとびとの関心がどのような流れにあるのかを予測する情報が渇望されるのです。
それは、ひとより一歩先に情報を手に入れれば、マスコミの経済情報記事の加工による「セット」により、莫大な利益を得ることができると信じきっているからです。それだからこそ、巷にリサーチ会社が繁盛し、街角でアンケートを取りまくっているわけです。
しかし、情報はあくまでも情報にすぎなく、その情報を基に未来を推測する技術(感働きのこと)がなければ、ただ思考を混乱させる「道具」に過ぎないことは、「アフリカの靴調査の話」を知っているひとには理解できるでしょう。
その話とは、ある靴のメーカーがアフリカの市場開拓を目指して、二つの調査会社にリサーチを依頼したのです。提出された二つの報告書は、調査情報の前提は同じでも、結論が異なっていました。ひとつは、「アフリカでは誰も靴を履いていません。ですから、靴の市場としては不適切です。」というものです。もうひとつのは、「アフリカでは誰も靴を履いていません。だからこそ靴の市場として有望です。」というものです。
情報とはそれ自体には価値はありません。それをどう理解し分析し行動を展開するかを考えることなしには、無価値どころか思考停止の凶器にもなってしまいかねません。
現在の情報に振り回されている人達の原因のひとつと考えられることは、誰が何を目的としていたのかは分りませんが、戦後教育の「民主主義」、「男女平等」、「自由平等」の三つの呪文(魔術)の「セット」が上手く機能しているからかもしれません。
それらの三つのメガネを掛けさせられ、他の無限にある思考基準を無視させられる魔術に掛かってしまいますと、行き着く先は、議論のぐるぐる回りの結果としての思考停止です。
「民主主義」の横暴につていの説明などはいらないでしょう。国会中継を見ればよいからです。51対49の数的多数は、問題解決の最良の方法となっているのでしょうか。
「男女平等」も時代に合わなくなりつつあるようです。女性の劣勢を挽回しようとしていたことが、苦しめる結果になりつつあるように感じられます。所詮、男には子供は生めないのです。さらに、テレビコマーシャルでの女性に迎合するような、男性の扱いには、ユーモアを通り過ぎ哀れさを感じさせるほど、現実は「男女平等」の思想を超えています。
「自由平等」は、イメージとして成立するように思えますが、これほど魔術的な言葉は見当たらないでしょう。「自由」とは、ある地点から拡散していく状態です。「平等」とは、あらゆる方向からある地点に収束していく状態です。ベクトルが全く逆なわけです。この全く異なる言葉を熟語として発明したひとは天才です。
思考基準を持つとは、フレームを設定するようなことです。つまり、井戸の底から世界を観るようなことです。あるいは、色の付いたメガネをかけるようなことです。
それらの呪文が発明され、日本に持ち込まれて来た時代には、それらの呪文は有効であったかもしれません。つまり、封建主義に対する「民主主義」、男尊女子に対する「男女平等」、そして国家権力管理体制(序列を重んじるイヌ型体制)に対する「自由平等」は、新しい日本を創る原動力となったことでしょう。
しかし、現在の日本には、そのメガネで駆逐しなければならない古い因習など欠片もないのです。ここに問題があるのです。
ひとびとの身体を外敵から守る機構として、免疫があります。その免疫機構により、外敵の侵入を阻止したり、無害化したりして、身体は守られているのです。
しかし、環境整備あるいは衛生管理体制が充実してしまった現在、外敵が殆どいなくなってしまった結果、少なからずの人達の免疫機構は、本来身体にはあまり害をもたらさないでいたチリや花粉などに過激に反応するアレルギーを誘発するようになってしまったり、原因は良く分っていませんが、自分の身体の一部を敵と見做し、免疫機構で攻撃してしまう膠原病など、本来の目的外のことをしてしまっているのです。
言葉の理論で構築された価値基準も、免疫機構に似た働きをします。外敵(時代に合わない因習)などかいる場合、それは有効に作用することでしょう。しかし、外敵がいなくなってしまった場合、それは守るべき対象を攻撃してしまいます。
それら三つのメガネのなかでも、「自由平等」から派生した「○○の勝ってでしょ。」の自己攻撃力は最強です。この「自由平等」の言葉自体が、「自己矛盾」しているため、理論的に説得できないからです。ですから、このメガネをかけてしまうと、他の人達の生も危うくなってしまうのです。
「自由平等」の呪文は、それを使うひとによっては、こころにおける「トロイの木馬」なのです。
生徒と教師との討論会で、生徒が「何故ひとを殺してはいけないのですか。」との問に、教師が理論的に説得できなかったため謝った、との新聞記事を読んだひとは沢山いることでしょう。
その生徒は真面目にその設問を考えていたのでしょう。しかし、自己矛盾の基盤に構築された理論展開による設問に答えなど出ないのです。
ですから、ものの見方・考え方を変えてみる、つまり、価値基準を変えてみても答えが見つからない場合、思考を停止してみることにより答えが見つかるかもしれません。頭で考えるのではなく、こころで考えてみることです。答えを出す方法には、「知識」の理論にたよらず、「知恵」のヒラメキや機知による「禅問答式」答え方もあることを忘れてはいけません。
こころにある「知恵」は、理論展開などなしに、直感で答えをだしてくれることでしょう。「否」と。
もしも、あなたが情報に振り回されしまっていると思われたなら、それらの三つの呪文の「セット」(刷り込みのこと)から解放される(メガネを外す)ことにより、解決の糸口を見つけられるかも知れません。
それでは、情報を拒否しているひとのことを考えてみましょう。
情報を拒否している人達は、行動となって現われ、年令も小は登園拒否から、大は出社拒否まで様々です。さらに、引き篭もりなど色々とあるようです。だからといって、それらのひとたちは知的レベルは低くなく、かえって高い人達が多いようです。しかし、生命欲の方は強くは感じられないようです。
そのような人達は、情報を拒否しているから考えることをしていないかと言えば、そうではなく、考え過ぎる程、考えているようです。
こころと身体がバランスがとれている状態が健康と言うならば、考え過ぎるということは、身体に悪影響を与えることでしょう。
では、バランスをとるために、考えなければよいではなかと思うでしょう。しかし、考えないことは、意外と難しいことなのです。それは、じっくり考えることは学校で学習させても、「何も考えない」ことの学習をさせていないから、どのような方法で考えない状態をつくるか分らないからです。
私事ですが、になにもかも空しくなり、半年ほどブラブラ(今でいう引き篭もりだったかもしれません。)していた時期がありました。頭の中は雑然として考える分けでもなく考えていたことを思い出します。昼夜逆転も飽きた頃、たまたま手にした本がシュルツの自立訓練法でした。しかし、暗示語をただ思い浮かべることほど難しいことはなかったのです。それは、雑念が思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消えするからです。
「ステップ2」で、自立訓練法を実施したひとには、このことは理解できるでしょう。
ではどうしたかと言いますと、中学生の頃、柔道を習っていたことを思い出したのです。
武道を嗜んだひとならば分ると思いますが、稽古の前、怪我をしないよう、雑念を払う目的で、黙想をするわけです。正座をし、肩の力を抜き、禅を組むのです。その時、眼は軽く半開きの状態を保つのです。そのようにしていると、眼前が白んできて、雑念が消え、こころが無の状態になるのです。そのようにして、日常の雑念を払った後、稽古にはいることにより、怪我を回避するわけです。
このなにも考えない方法を思い出してから、暗示語を思い浮かべることができ、身体がリラックスできたわけです。
だからといって、皆が皆、この方法が有効であるとは思えません。しかし、釈迦ではありませんが、考えないことは、大切なことであり、又、知恵を湧きだたせる前提条件でもあるわけです。
知恵は、身体を維持増進させる自動行動プログラムを保持しています。しかし、考えることの集積である「知識」は、その「知恵」と拮抗しています。ですから、それらがバランスを取れていれば問題はないのですが、考え過ぎて「知識」優位の状態となってしまった場合、「知恵」のパワーが減じてしまうことになってしまうわけです。その結果が、昼夜逆転や食欲不振、感情のコントロール不能等が現われてしまうことになるわけです。
そのような人達は、こころと身体のバランスをとるため、こころの底で何かを求めているのかもしれません。何故そのように言えるのかは、今のような状態は、不自然だからです。自然はバランスを求めるからです。
だとしたら、その求めるもののひとつは、昔からある状態に戻ることです。つまり、原初的欲求を満たすことです。
原初的欲求を満たす、ということは、本来そうあるべき状態にすることです。つまり、不安定な状態にある場合、バランスをとるということです。
バランスを回復させる方法は昔から考えられてきたようです。インドの伝承医療のアユルベーダで、温かくしたオリープ油を頭に垂れ流すことで、心身をリフレッシュさせることは、よく知られた療法です。
日本では、白隠禅師の「ナンソの法」が良く知られています。その方法とは、イメージで、卵と密のミックスした温かい液体が、頭から首肩背中を流れる様を想像することでリフレッシュすることです。
科学的理論では分りませんが、どうも身体をリフレッシュさせる「スイッチ」は、頭皮、後頭部、首筋、背骨そして尾骨のあたりにあるようです。ヨーガでは背骨にエネルギーを貯めるチャクラという場所を想定しているようです。
もし、あなたがリフレッシュしたいのであるならば、簡単な方法で、それらの擬似体験をできるかもしれません。その方法とは、禅を組み、摂氏40度ほどの温かいシャワーを後頭部に強すぎない状態で浴びることです。
こころと身体のバランスをとることは、現在では、癒し系と呼ばれるビジネスとして成立しています。
ここに映像としての情報の受け入れ先があるようです。つまり、癒しを目的とした映像情報を提供することです。
でも、世間の人達は、情報に振り回されたり、拒否したりしている人達だけではないでしょう。書店に行けば、それらの人達を対象としたコーナーは片隅にあり、メーンは時間潰しの情報を満載した雑誌に満ち溢れていることでしょう。
それらの男性雑誌の共通する提供情報を調べてみますと、三つのジャンルに集約できるようです。それらは、セックス、スポーツ、スクリーンのスリーエス(S)です。
 
 
スリーエスを狙え    
 
 
 
昔読んだ本の中に、「何かの理由で、何かに利用される目的で、何かの力で支援されて、情報は発信されている。」という文章があったのを思い出します。
写真という映像情報も、そのような範疇に入っているのでしょうか。
もし、それを企画したひとが、性善説の持主で、ひとびとの幸福を願って行なうのであれば、問題はないでしょう。しかし、そうでなかった場合、その映像情報の制作者であるカメラマンは、自らの意志とは関係なく、その邪悪な企てに参加させられていることになってしまうでしょう。
ですから、特にフォトジャーナリストを目指すプロカメラマンは、情報の発信のされかたや、マスコミについての見方・考え方を再考しておく必要があるでしょう。
現在の不況を克明に情報提供しているマスコミは、自らの過去のバブルを煽った責任を語らずに、政府の不況脱出政策を攻撃して、独善的な不況克服のための正論を述べているようです。しかし、マスコミにはその資格があるのでしょうか。バブル時代のマスコミ、特に新聞記事とテレビ番組を思い出してみてください。
しかし、マスコミにその罪を問うのは酷かもしれません。なぜならば、それらマスコミは、前述したような考えの基に、情報を発信していたかもしれないからです。
その文章をもう少し詳しく述べると、以下のようになります。
「現在の新聞の役割は、民衆の激情を煽ったり、セクト的な利己心をかきたてたりして、われわれの利益になっている。新聞はもともと空虚で、不公平で、嘘つきだが、民衆の大部分は、それが誰の支配下にあるかご存知ない。」
この文章は、的確にマスコミの別の面の本質を述べていますが、それがいつの時代の文章だと思いますか。それは、なんと約百年前のものなのです。それも外国のです。
バブル時代の経済・社会の情報記事と現在のとを見比べてみますと、全く同じマスコミが発信したのかを疑うほどの落差があるにもかかわらず、マスコミはしたり顔で、何かの目的で、情報を発信し続けているようです。
マスコミがある目的をもって、情報操作に利用された例としては、1973年の第一次オイルショックがあげられるでしょう。その年の新聞記事を見てください。世界的著名人や経済学者達が、声を揃えて「このまま石油を浪費していると、全世界の石油埋蔵量は後三十年で枯渇してしまう。」と捲くし立て、その魔術に掛かってしまった多くのひとたちは、哀れにも、トイレットペーパーを買い溜めしたものでした。同じパターンで、それから約二十年後、異常気象現象の結果、米が不作のため、外国から緊急輸入しなければならない、との情報操作により、米パニックが起こりました。
それら二つの情報操作されたパニックには、裏がありました。石油の方は、米ドルでしか中東石油を購入できなくしたこと、そして、米の方は、貿易摩擦を緩和させる目的で、外国の圧力による義理で外米を購入しなければならなかったことです。
勿論、両方とも十分過ぎるほどの量はあったのです。その時、マスコミ記者やカメラマンは何をしていたのでしょうか。当時の新聞記事を調べてください。
それでは、何故、皆はその魔術にかかってしまったのでしょうか。
それは、魔術の「セット」と「セッティング」が完璧だったからです。
「セット」の方は、ある目的を持ったグループが、著名経済学者や評論家を総動員して、企画意図に合うように、ひとびとを誘導したからです。それでは、それらの偉い人達は、企画マンとグルかと言いますと、そうではないのです。彼らもまた被害者なのです。
このことは、前の文章の続きを読めば理解できるでしょう。
「われわれが彼らに吹き込んだ科学の法則を信じ込ませて、疑わせないようにさせなくてはならない。このためにわれわれはマスコミを使い、理論に対する彼らの盲目的な信仰をたかめるのである。インテリは、その学識を誇りとし、理論的証明をしただけで、われわれのエージェントが集めておいたことにも気付かず、すべての学説を、われわれの必要とする方向に実行するだろう。」
経済学者達への「セット」は、ローマクラブというシンクタンクのレポートが行ないました。日本人は、七世紀以降、外国の情報を取り入れ、それを加工してきた民族です。それに、日本人は性善説のおしとよしなのです。その当時の確認されている石油の埋蔵量だけでも百年間賄えるほどあるにもかかわらず、誰もそのレポートの裏をとることもなかったのです。(確かな調査を行なっていれば、パニックなど起こらなかったでしょう。)
そのように操作情報を「セット」し、一流といわれる新聞紙上やテレビの経済特番などで、著名経済学者の「このままでは石油は後三十年しかもたない。」とのコメントを「セッテイング」されたとしたら、その魔術にかからないひとはいないでしょう。
現在の予言者のひとりである経済学者(或いは経済アナリスト)の、経済予測や為替予測での利用のされ方も、それと同じようなものです。
ある特殊な組織から情報を入手している学者以外の経済予測など当たったためしはないのです。それは、天気予想の確率よりも低いのです。そんなことはない、新聞の経済記事をよく読んでから、そのように言え、と言う人もいるかもしれませんが、世界経済には偶然などないのです。
それでは、何故世界的有名経済学者が、近未来を正確に予測できるかの「セッティング」の仕方をみてみましょう。
このことは、「弓矢の名人の話」を知っているひとには理解できるでしょう。
旅の行商人が、ある村を訪れました。その村の入口に、矢が真中に当たっている的が掲げてありました。次の年、再びその村を訪れますと、新しい的の真中に矢が刺さっています。また次の年、その村を訪れますと、また新しい的の真中に矢が刺さっています。旅の行商人は、不思議に思い、通りかかったじいさまに聞いてみました。「じいさま、この村には弓矢の名人がおるのかの。」するとじいさまが言いました。「名人などいねえべさ。」「そんでは、毎年新しい的の真中に矢を当てたんは誰ぞ。」「おれじゃ。」「うんじゃ。じいさまが弓矢の名人でねえべか。」「名人なんぞではないわい。それはな、まず板に矢を放って、後から的を書いたんじゃ。」
よく当たる経済学者も、じいさまと同じです。ただ情報の入手先の意図に気がついていないだけが別ですが。
海外情報、特に経済情報に関して同じような記事が複数のマスコミに同時に掲載されている時は、その記事を読む前に、「何かの理由で、何かに利用される目的で、何かの力で支援されて、その情報は発信されている。」と呪文を三回唱えてみましょう。そのことにより、仕掛けられた魔術から解放されることでしょう。
しかし、少し頭を働かせれば、石油ショック、米パニックそしてバブル消費の「セット」(刷り込みのこと)に染まることがないため、いくら巧みに「セッティング」したとしても、その魔術にかかることはなかったでしょう。ですから、そのように魔術が回避されないように、それらの人達は、ある政策を事前にするわけです。
「彼らの思索力を隷属化させることは、すでに視覚教育と称する方法ではじめられている。この視覚教育の主な狙いは、脳を働かせただけでは物が考えられず、絵を見なければ何も理解できない従順な動物にすることである。」
確かに、映像情報は、文字情報より、想像の力を必要としません。文字情報を理解するには、集中力、忍耐力そして推理力が必要です。映像情報だと、理解していなくても、分ったような錯覚をさせてしまいます。(保険会社のパソコンによるシュミレーションなどがそうです。)
更に、思考力低下をさせる目的を、以下のように述べています。
「大学は、われら以外の力を結集する第一の場所だから、これを廃止する。そのうえで新しい綱領にもとずく新大学を創設しよう。」
新大学とは、大学をレジャー化することです。そのレジャー化に、マスコミ、特にテレビ番組は、荷担していないといえるでしょうか。
更に、続きを読んでみましょう。
「彼らに事情をさとらせないために、われわれはさらにマス・レジャーを盛んにする。やがてわれわれの新聞で芸能、スポーツがもてはやされ、クイズも現われるだろう。これらの娯楽は、われわれと政治闘争をしなければならない人民の関心を、すっかり方向転換させてしまう。」
つまり、この文章はスリーエス政策のことを述べているのです。スリーエスとは、セックス、スポーツそしてスクリーン(芸能)のことです。これらに関する情報提供は、思考の根源である大脳新皮質を麻痺させ、眠っている情動を活性化させます。そのことにより、考える力が減退する結果となってしまうわけです。ひとは、思考と情動とを同時に行うことができないからです。
だからといって、思考が善で、スリーエスが悪といっているわけではありません。それらの情報は、無味乾燥の世界に潤いと熱い情動を喚起させます。
コインに表と裏があるように、ひとの人生にも表と裏があります。それらの流れに、表の文化に対して裏の風俗があります。人生において、そのバランスがとれていればよいのですが、現在の環境ではどうでしょうか。
一昔前、テレビは国民を総白痴化させてしまう、と述べた評論家もいましたが、現在の一部の番組を除けば、正に的確な予測でした。情動を活性化させる情報が巷に溢れ過ぎているようです。更に、一流新聞のスポーツ欄と国際情報欄のスペースを比べてください。現在のマスコミにおける情報提供が、文化より風俗に偏り過ぎているように思えるのは、わたしだけでしょうか。
「文化」とは、ひとの精神活動の産物で、高度な或いは洗練された技術を背景に持っています。それに対して、「風俗」は、風俗習慣などの熟語にされるように、在りのままのすがたを表したことです。着物で言えば、「文化」と「風俗」は、「よそゆ着」と「普段着」といえるかもしれません。
そこで、プロカメラマンとして、スリーエスを風俗としてではなく、文化として映像化することにより、道が拓けるかもしれません。
なぜならば、風俗としてのスリーエスの映像化は、誰にでもできるでしょう。ひとびとが要求する情報をストレートに在るがまま映像表現すればよいからです。
しかし、文化としてのスリーエスの映像表現は、誰にでもできることではないでしょう。それには、ひとの精神活動の高度な技術を必要とするからです。
では、ひとの精神活動をさせている脳とは何なのでしょうか。更に、それに依拠する、精神活動により生じる意識とは何なのでしょうか。
 
 
脳はマジックボックスだ    
 
 
 
今までの見方や考え方を一寸変えることで、報道における映像情報は、扱われ方により、魔術の道具にもなってしまうということが、理解できたと思います。
例えば、農協の空っぽの倉庫を幹部職員に指差させたところを撮影し、その写真のキャプションに、「今年の米は不作でした。」としたら、米は本当にないとの説得材料としては充分です。たとえ、裏の倉庫に米を隠していても、その情報の裏をとることもなく、一流新聞の証拠付き写真を掲載していれば、誰も権威ある組織からの情報だからと疑わないからです。
さらに、一昔前の、湾岸戦争での油に塗れた鵜の写真には、後で種明かしをされたとしても、笑えないものがあります。それは、他の所で撮影されたもののようです。それも、情報操作をその生業としている、現代の魔術集団であるパブリシティエージェンシーが、企画したものらしいのです。その企画意図(広告業界ではコンセプトと言うそうです。)は、「敵が油田を攻撃して、海を油で汚してしまった。」、と写真情報を操作して、ひとびとに魔術をかけることでした。これも、世界的権威あるニュース配信会社からの情報提供だったので、一流マスコミはその魔術にかかり、その情報を疑わず垂れ流した結果、世界の人達は、この魔術にまんまとひっかかってしまったわけです。(あなたもその写真を新聞で見たことでしょう。)
いずれにしても、フォトジャーナリストの扱う写真情報は、たとえその写真を善意から撮影したとしても、ある目的を持った人達に、一寸キャプションを操作されることにより、全く逆の情報提供となってしまうため、その写真情報が誰からのもので、ひとびとをどのように誘導したいのかを深読みし、前節での呪文を唱えながら見る必要があるのかもしれません。
さて、正義を告発する報道写真ではなく、スリーエスを文化的に映像表現したとしても、それがひとびとの嗜好に合わないとしたら、まったく見向きもされないことでしょう。
それでは、ひとびとのこころの働きの結果である意識としての、好き嫌いとは、どのような基準で区別されるのかを考えてみることにしましょう。
ひとのこころについては、昔からひとびとを悩ませていたようです。その悩みは大きく分ければ二つで、こころは何処にあるのか(脳か心臓か)、と言うことと、こころをコントロールするにはどのようにしたらよいのか、と言うことです。
そのような疑問を持ったひとたちは、二つの流れに行き着き、ひとりは、心理学者、哲学者そして精神医学者となり、もうひとりは、宗教家、ヨーガ修行者そして神秘学者となるようです。
その二つの流れは、こころの研究が進めば進むほど、理論理屈に偏狭性が侵入してしまうため、専門家気質が顕著となり、他の流れを認められなくなってしまうようです。それは丁度、前節で述べた、特殊なメガネをかけた二人の話のように。
ひとつの流れを科学的心理学とすれば、意識(こころの一部)と大脳との関係を解き明かす手段として、脳波電位記録者となり、頭皮上に出現する微小電位を測定し、それを意識の諸状態に関連させようと意図することでしょう。そのようなアプローチが成功すると、その心理学者は、それに適合しない症例を排除するようになるか、あるいはその測定器が検証できる症例についてのみ、研究するようになってしまうことでしょう。つまり、ものごとを数値や図表を道具として分析することにより、こころの問題解決を図る方法です。その研究の手段は理論です。
もう一方の流れを伝統的心理学者とすれば、あるグループによる特定の技法(一般に秘儀と呼ばれるものです。)が、こころの一定の状況によく機能することを直感により発見したとすると、その技法に適切でないこころの状況に対し無視することでしょう。さらに、その技法を広くひろめようと、大伽藍を造営したり、あるいは権威を高める目的で立派な法衣を着飾ることでしょう。(宗教の布教は、広告販促活動の原点なのです。)さらに、組織が拡大して行くと、他の技法を信奉する団体組織を攻撃することになってしまうようです。(軍隊マネージメントは、布教マネージメントの租借です。)初期の志と異なり、こころの調和を求めていたことが、結果として争いごとを創る原因ともなってしまうようです。つまり、こころの問題を理論ではなく(嘘も方便、だからこの探究者には矛盾は許容されるのです。)、イメージとして捉え解決を図ろうとする方法です。この探求の手段は瞑想です。
さて、以上のことは、誰のことを述べているのかと言いますと、それはあなたの脳の働きのことを述べたのです。あなたの脳には、問題を解決するための異なる二つの力が潜在しているのです。
脳の働きのひとつとして意識があります。しかし、「意識とは何か」との明確な答えが見出せないため、意識以外の脳の働きを、「潜在意識」の概念を発明して説明しているわけです。
それでは、意識とは何か、を簡単に説明しますと、「気づくことに気づく」ことです。その対極に、「気づくことに気づかない」潜在意識があるわけです。
このことを喩えれば、「怒っていない」と言っている本人の言葉の調子や態度が、実際は怒っているようなことです。「怒っていない」と意識してはいるけれども、言葉の調子や態度が怒っていることに、意識は「意識していない」わけです。
さて、両目を閉じ、「考えないように意識して」、以下のことを想念してみて下さい。
1.あなたの身体のどちら側が(右側か左側か)、より男性的ですか。
2.あなたの身体のどちら側が、より女性的ですか。
3.あなたの身体のどちら側が、より理論的ですか。
4.あなたの身体のどちら側が、より直感的ですか。
5.あなたの身体のどちら側が、より技術的ですか。
6.あなたの身体のどちら側が、より芸術的ですか。
もし、あなたが右利きであるならば、奇数の問いの答えは、右側となることでしょう。そして、偶数の答えは、左側となることでしょう。
情報収集器官としての身体と情報処理器官としての脳との連絡網が、交差していることを知っているあなたには、その説明の必要はないでしょう。
更に、あなたは、親しい友人を前にして、次の質問をして、相手の目の動きを観察してみて下さい。
質問1、一円玉の裏にある、枝のデザインにある葉っぱは何枚ですか。
質問2.日本のコインを全部足すと、合計で何円ですか。
もし、そのひとが右利きであるとしたら、質問1を考えている時の目の動きは、多分左上にあるはずです。質問2を考えている時は、多分右上でしょう。
イメージの情報処理は右脳で、計算処理は左脳で行なうからです。その情報入力器官は、交差しているわけですから、目の動きは逆となるわけです。
あなたは、テレビドラマで以下のシーンを見たことがあるでしょう。
そのシーンとは、俳優が切迫した状況下で誰かと電話をしているのです。感極まり、受話器を左耳にして話していたのを、右耳に移し、二三話し、話の状況を確かめると、受話器を置くのです。
左右の耳が、単に言葉を入力する器官であるならば、左の耳で話続けていればよいでしょう。しかし、ドラマ演出家は、知っているのです。左耳は、大雑把なイメージを処理するのに適していますが、理論的処理には適していないことを。理論処理は左脳の仕事です。ですから、その入力は、左耳より、右耳が適しているのです。(あなたはどちら側の耳で電話をしていますか。)
ひとは、何故目と耳が二つで、口がひとつであるのかは、ひとのすることや言うことをよく見そして聞くことで、あまり話さないように神様が創った、と思っているでしょう。
それもひとつの考え方です。しかし、二つの目や耳は形としては同じでも、その情報が行き着く先は異なるのです。
ひとの情報入力は二つあり、その情報処理の方法も二つあることが理解できたと思います。それでは、その異なる二つは、どのようにして調和しているのでしょうか。
右脳と左脳はそれぞれ単独で情報を処理しているわけではなく、脳梁という橋をとおして情報を交換しているようです。では、それを交換させているものは誰なのでしょうか。そこで発明されたものが「こころ」という概念かもしれません。
こころは、オーケストラでのコンダクターとも考えられるでしょう。その管轄下にあるものが意識と潜在意識です。(こころが病むことの原因のひとつとして、意識と潜在意識、あるいはこころと身体のバランスの崩れがあるのかもしれません。)
さて、意識の働きである好きと嫌いを、別の言葉で表現をするとすれば、「受け入れる」と「受け入れない」に言換えることもできるでしょう。
ひとが、ある物を見て、「好き」と言うことは、「受けいれる」ことができるということでしょう。でも、その受け入れる先がひとつであるのならば、問題はありません。しかし、情報処理の器官は二つあるのです。それも、異なる情報処理を行なうのです。その好き嫌いの処理の仕方は、ひとつは「理論」で、もうひとつが「イメージ」です。
言葉の情報が、発信先と受信基とが共通していれば、問題はないのですが、視覚と同じように言葉の情報も、受信者は予め構築されている、記憶としての「考え方」を基に、「思考」するわけです。つまり、入ってきた情報だけで、思い・考えているわけではないのです。
ですから、右脳をより使う「芸術家」と左脳をより使う「数学者」であったとすると、二人のコミニュケーションが上手くとれるかは疑問です。
ひとの、ものの見方や考え方には、二つの異なる系があります。ひとつは、ものごとをイメージとしてとらえ、直感により解決を図る方法です。それに対して、ものごとを言葉や数字で分析し、理論展開をすることにより解決を図る方法です。
この二つの考え方は、方法論が全く異なります。その思考方法の相違、そして結論の出し方も異なるため、それぞれを誤解させ、その結果、お互いの理解不能ということで仲違いをさせてしまうようです。このことを次のように説明できるでしょう。
太陽の光の下で研究している学者は、月の光では暗すぎて研究書物が読めないため、月の弱い光でしか読めない書物など存在していないと主張するようなことです。それに対し、月の光の下で研究している学者は、太陽の光では明るすぎて書物が読めないため、太陽の強い光でしか読めない書物など存在しないと主張しているようなことです。
しかし、何らかの都合で研究書物が読めないということが、研究課題が存在していない、ということの証明にはならないでしょう。
それでは、昼の学者の研究書は何かと言えば、それは歴史、技術、理性です。それに対して、夜の学者の研究書は、神話、魔術、秘儀です。それらふたりの研究は、合せ鏡のように対になっていることに、ふたりは気付いてはいないのです。
昼の学者と夜の学者の研究テーマは、同じ方向性を持っていても、そのアプローチの仕方が異なっているだけです。「歴史は神話」、「技術は魔術」、そして「理性は秘儀」と対になっているのです。
一般に、そのふたりの学者は、それぞれの弱点を指摘し合い、仲違いしているようですが、科学的理論や定理の発明は、アルキメデスの風呂のように、夜の学者の手法である「ヒラメキ」により達成されているのです。このことは、卓越した科学者の理論が妙に宗教ぽかったり、その反対に、卓越した宗教家の説法が妙に科学的であったりすることはよくあることです。
科学的思考の最先端の近代物理学などは、方向性としては、宗教の分野に入り込んでしまいそうな雰囲気です。
それは、物質は分子で構成され、その分子は原子で構成され、その原子は原子核というものに構成され、その原子核は陽子や中性子さらには素粒子などの新しいいくつかのオーガニックな場があると考えられているのです。そして最近では、素粒子レベルの物質としてのクオークというものを見つけ出そうとしているのです。そのクオークも科学的分析をしていくと、速度も位置もはっきりせず、残るのはただ振動の関係とパターンだけとなってしまうようです。
つまり、物質である肉体は、何で出来ているのかを科学的に分析すると、それは、「無」と「リズム」とから成立っている、と言うことになってしまうわけです。この説明は、般若心経の「色即是空」に似ていると思われませんか。科学も宗教も、もしかしたら行き着く先は同じなのかもしれません。
その理由は、あなたには理解できるでしょう。元々ふたりは、同じ母から生まれた兄弟なのですから。ただ、今は、余りにも一方向に進んでしまったため、互いに理解し合えなくなってしまっただけなのかもしれません。
そこで考えられるのは、そのふたりの学者を仲良くさせて共同研究できる状態を創りだせるとすれば、その両者の優れた能力が、相殺されるのではなく、相乗されることにより、問題解決がより良くできるであろうということです。そのようにして、ふたりの共同研究としての結果が「アイデア」ということです。
「アイデア」とは、「イメージ」とは異なり、理論展開ができ、そして実行可能な考え方のことです。
そのように、「昼の学者」と「夜の学者」との共同研究を創りだせる環境を整えることができるように、あなたがすること大切なことです。
何故ならば、そのふたりの協力なくしては、脳の潜在能力を開発できないからです。もし、ふたりが共同して問題解決に当たれば、あらゆること(創造主の領域以外)は、解決可能だからです。つまり、脳は、あらゆる答えを内蔵している、マジックボックスなのです。
脳のマジックボックスからの回答を得る方法としては、夜の学者のヒラメキを、昼の学者の理論で完成させることです。あるいは、昼の学者の理論が行き詰まってしまった場合、夜の学者に助けを求めることで、「啓示」という手段で解決できるかもしれません。
いままで述べてきたふたりの学者とは比喩で、昼の学者とは「左脳」で、夜の学者とは「右脳」のことです。
それら異なる働きをする左右半球を、同等に評価し訓練をしていればよいのですが、一般的に、右半球は左半球ほど、評価をされていませんし、訓練をしていないようです。(学校教育では、受験のために左半球を訓練し過ぎているようです。)
もし、あなたが、ものの見方や考え方に自信がもてないのならば、あるいは、問題解決の方法が分らないのであるならば、脳の右半球(右脳)を訓練することです。
 
 
右脳を訓練すること    
 
 
 
昔、写真学校で教員補助のアルバイトをしていた時、写真学生の作品の整理をしていたのを思い出します。それは確か、学生に撮影テーマを与え、撮影後それらにキャプションを付け、その写真作品を文章で説明するものだったと思います。
先生は、それらの写真作品を、四つの群に分けたように記憶しています。その分け方は、映像表現と説明文が劣る、映像表現は良いが説明文が劣る、映像表現は劣るが説明文が良い、そして映像表現と説明文が良いものの四群です。
その時は、何故そのように分類する目的が分らなかったのですが、今では分るような気がします。それは、写真学生の性格(思ったり、考えたりしたことを行動に現すこと。)を分けていたのではないか、ということです。つまり、映像表現は右脳の仕事です。そして、その映像を分析して文章で説明することは、左脳の仕事です。そのように写真表現と文章表現とを比較して、写真学生が、どちら側の脳で情報処理をしているかを調べることにより、その学生の潜在能力を引き出そうとしていたのかもしれません。
それでは、具体的にどのように指導していたのかは思い出せませんが、「これからのカメラマンは写真が撮れるだけではダメだ、文章が書けなければプロとして生きていけない。」、と教えていたことは覚えています。
さて、その教えは、今も通じています。現在、電子機材を駆使して写真を上手に撮影するプロカメラマンは沢山いますが、文章もそれと同等に上手いプロカメラマンは少ないようです。
職業分野の垣根が低くなっている、或いは、ない現在において、特殊技術者の数が少ないということは、需要が多いということに繋がりますから、映像を写すことしかできないよりも、写し且文章も書けるプロカメラマンの方が、仕事をする上で有利ということになります。
それでは、そのようなプロカメラマンになるにはどうしたら良いかといえば、右脳と左脳をバランスよく働かせられるようにすることです。その方法としては、次の物語にヒントがありそうです。
 
第一幕
 
ある日、旅の行商人が、ある村に行商に行きました。大きな納屋の前に行くと、年寄り達が探し物をしているのです。行商人は、年寄りのひとりに聞きました。「大勢で何をお探しか。」「ランプの芯を探しているのでごぜぇます。」それを聞いて、行商人も一緒になってランブの芯を探しました。あちこち探したのですが見つかりません。「じいさま、ランプの芯は確かにこの辺で落としなすったんか。」「納屋の中じゃで。」「そんなら、納屋の中を探さんと。なんで、外で探すんじゃ。」「だども、ここは明るいけんど、納屋の中は暗くて何も見えんからの。」
 
第二幕
 
「わしのランプを使えばよかろさ。」そういって行商人は、じいさまにランプを貸しました。そのランプは、じいさまの使っていたものよりも数百倍も明るいものです。納屋の前で行商人が聞きました、「ところで、この大きな納屋で何を飼っているんじゃ。」「像という生き物じゃ。」そうじいさまが言うと、側にいたじいさま達が、それぞれ自慢げに言うのです。「像というのはな、太い柱のような生きものじゃ。」「そうでねえべぇ。像はな、くねくねする太った筒のような生き物じゃぞ。」「いやいや、そうでねえべえょ。像は、でっけい扇のようなぱたぱたした生き物じゃぞ。」じいさま達はそれぞれ、納屋のなかで、線香のような光で見た、像の各部分を、像そのものと信じていたのです。
 
以上の喩え話は、第一幕は、あなたが、問題の答えを探そうとしている場所は、本当に正しいのでしょうか、ということと、第二幕は、あなたが今までに得た知識は、果たして正しかったのですか、ということです。
ひとは、何か問題を抱えると、先ず、身近な人に相談をするようです。身近な人で解決できないと、その問題を扱っている専門書籍や専門家というひとに相談するようです。その場合、昼の世界(言葉による理論で問題を解決する方法)で、答えを探そうとするようです。
例えば、国の成立ちを知りたがるひとは、「歴史書」で答えを見つけようとするようです。しかし、その様な書籍だけで「真実の歴史」は見つかるのでしょうか。
歴史とは、「時間の流れと空間の流れを、個人の体験できる範囲を越えたことを語る。」、ことだそうです。時間を一定不変に進行するものだと考えて、日、月、年を暦を作って、時間軸に沿って起こる事件を暦によって記述し、記録に留めるという技術は、高度に発達した技術(魔術)であって、自然発生したものではないようです。
ですから、その魔術の力を利用しようと企んだ人達が、あちこちの「古い史実」をつなぎ合わせ、自分達に都合の良いように勝手に作文を創作して、「これが真実の歴史だ。」、とそれぞれ自己主張しているのが現実のようです。(古い書物に書かれたことは真実であるという思い込み、或いは権威ある歴史学会や宗教組織が認めた情報書は、だれでもひっかかってしまう「魔術書」となるわけです。つい最近も、そのような歴史捏造事件があったような気がします。)古いところで、「旧約聖書」、「魏志倭人伝」、「日本書紀」などは、どうでしょうか。
あるいは、ひとのこころの不思議を知りたい左脳優位のひとは、哲学、心理学そして精神医学の門を叩くようです。しかし、言葉や科学的分析機器を駆使して、理論的にこころを分析したとしても、最新物理学的思考の結果のようにクオークなるものを探し出し、「空」にたどり着くのが関の山かもしれません。
何故かといえば、こころとは、物質である肉体以上の概念であるからです。例えば、交通事故で、不幸にも下肢をなくしてしまったひとが、ないはずの水虫の足を痒がるようなことを、それらの学問ではどのように説明するのでしょうか。
だからといって、「昼の学問」を否定しているわけではありません。それらの言葉を駆使する分析的思考方法は、ある問題の答えを出すには、都合がよいかもしれません。が、しかし、ひとの悩みの全てを解決できるかは疑問です。
それでは、どうすれば良いかと言えば、それらの「昼間の思考方法」で答えが見つからないのであれば、他の思考方法、つまり、「夜の学問」を考えてみることも、ひとつの方法でしょう。
しかし、「夜の学問」は、前述しましたように、各自の体験をもとに問題解決方法を考えだしているわけですから、ある部分としては正しいかもしれませんが、普遍的解決方法であるかは疑問です。そこが、「昼の学者」が、「夜の学問」を嘲笑するところのひとつのようです。
「昼の学問」は、科学的理論による裏付け(流行言葉ではエビデンスというそうです。)があると信じられていますから、問題解決方法を、言葉を理論的に展開して説明できます。しかし、「夜の学問」は、個人的な経験を基に問題解決を図る方法ですから、その解決方法を理論的に説明できません。
たとえば、夜の学問での手段のひとつである「直感」による解決方法など、どのようにしてそのような結論に達したのかを、理論的に説明できないでしょう。たとえ理屈を付けたとしても、それは「方便」の域をでないでしょう。
だからと言って、昼の学問(理論展開により問題解決する方法)が、夜の学問(直感や啓示により悟る方法)より優れている、或いは普遍であるとはいえないでしょう。たとえば、ニュートンの物理学は、アインシュタインの相対性理論という考え方が発明されたことにより、空間は曲がっているし、そしてある条件下では時間は一定ではないことを、言葉で理論的に証明されてしまっています。その相対性理論も恐らく、別の理論が発明されて更なる進展をすることでしょう。
しかし、科学的思考も時には、さらなる進展を妨げることにもなることがあります。アリストテレスが発明したと言われている、ひとの感覚を五つに分ける方法がそうです。ひとの情報入力方法は、五感以外は在りえないのでしょうか。
「胸騒ぎ」「予感」「既視」「直感」「啓示」「悟り」などの五感以外の情報入力方法のひとつやふたつは、あなたにも経験があることでしょう。だからと言って、それらの現象経験を理論的に説明をすることは困難でしょう。
それでは、五感で知る世界が本当で、それ以外は虚構なのでしょうか。
何が本当かということの境界は、科学的心理学が発達した今日では、かってほどはっきりしていないようです。それは、多くの研究者の指摘によると、「知覚」は純粋に客観的なものではなく、むしろ所属している社会のものの見方・考え方に大きく左右されるからです。そのものの見方・考え方は、幼児期からさまざまなかたちでこころに刷り込まれています。社会一般の「現実」というものは、ある程度までは慣習や社会風習によって決定されてきているといわれています。つまり、「現実」ということは、言葉の限界や構造そのものにより強い影響を受けているようです。
と言うことは、通常の言葉で言い表せない経験や知覚は、しばしば軽く見られたり、ときには意図的にもみ消されてしまうようです。
現実の世界を「知覚」するには、ものの見方・考え方に影響されるわけですから、ものの見方・考え方を替えることにより、「現実も変化する」のかもしれません。
そこで、あなたのプロカメラマンとしての問題解決の方法を考えてみることにしましょう。
その方法の基本は、前述しましたように、左脳と右脳のバランスをとることです。しかし、学校教育では、左脳重視の傾向があったため、右脳の働かせ方が分らないひとも多くいるようです。
ものごとの解決方法が分からない場合、その方法を先達に見出すことは賢いことです。「真似る」、つまり「学ぶ」ことです。
右脳と左脳のバランスをとる方法は、ふたつあります。左脳は充分に訓練されていると思われますから、右脳を訓練する方法がひとつです。もうひとつの方法は、左脳の働きを低める方法です。
前者の方法は、特殊な訓練と長期間の修行を要するかもしれません。しかし、後者の方法は、コツさえ掴めば誰でも簡単にできるかもしれません。
「学ぶ」対象は、右脳を駆使する「伝統的心理学者」です。それらの先生達の秘儀を、言葉で分析してみましょう。
左脳の働きを抑える手段のひとつとして「瞑想」があります。しかし、この瞑想に入る方法は、前述の物語第二幕のように、伝統的心理学各組織が、像の各部分を「像」だと主張しているようです。その伝統的心理学者達の、「像」を集約してみましょう。
瞑想のさまざまな修練は、理知を含まないし、通常の理論のみによっては理解されないでしょう。それらは、個人的な経験で、ある時のある一定の前後関係において、神経組織の機能のある様態を開拓されるために、考案された技術であるわけです。つまり、瞑想の概念は、別のタイプの心理学の産物で、知的知識よりも本人の個人的知識を意図している一連の技法に関係しているのです。
その技法とは、大きく分けると二つで、ある対象物に精神を集中することと、一定のリズムの中に精神を埋没させることです。
前者としては、呼気吸気に、マンダラに、あるいは理論的思考を超越している公案に精神を集中させることです。
後者としては、「あ」とか「う」とかの韻を含んだ呪文を繰り返す(お経や聖書朗読)、自然な繰り返す音(滝の音、波の音、)や人工的なリズムなどに精神を埋没させることです。
それらの技法を実践して経験してみれば、瞑想は確かに日常の世界から離脱することができることが分ると思います。
瞑想は、伝統的心理学の技法のうちでも、最も一般的な、そして最も高度に完成されたものに入るでしょう。しかし、それらの技法を伝授するという名目で、道場などで組織化されることにより、瞑想本来の目的から離れた行動、例えば集団で特異な衣装を纏ったり、特異な場所に特異な建物を作ったりすることにより、或いは知性からの退行を意識する行動をすることにより、科学的心理学者に嘲笑や誤解をされてしまっているようです。
瞑想は、個人的な世界に入るための技法で、特別な服装や特別な場にいなくてはできないものではありません。前述したように、あるものに精神を集中させるか、あるいは一定のリズムの中に精神を埋没させるコツを掴めば、誰にでもできることなのです。
その瞑想の技術を習得することが、右脳を活性化させる訓練となるわけです。
それは、瞑想が、昼の輝きを弱くするための技法のひとつだからです。そのような状態にすることにより、右脳に秘めたエネルギーの恒常的に存在する微かな源泉が、内に知覚されるようになることにより、右脳本来の力が活性化されるわけです。
つまり、昼の光が強すぎて読めなかった書物が、瞑想により光を減ずることにより、読めるようになるわけです。
瞑想は、暗闇と受容性の補足的様態に入るため、瞑想をしている間、自らを日常生活の流れから分離し、そのため通常の意識の能動的様態を停止させるのです。つまり、常識という魔術から解放されることにより、ものの見方・考え方が無限に広がる(イロメガネが外れる)わけです。
あなたは、プロカメラマンとして成功するために、この瞑想という技術(魔術)を研究する必要があるでしょう。
 
 
瞑想はイメージを広げる    
 
 
 
絵(写真)であれ音楽であれ文章であれ、それらを創りだす技術だけでは、ひとびとに感動を与える作品を創りだすことはできないでしょう。それらは、ひとびとのこころの琴線に触れることが必要なわけです。
それでは、どのようにしたら、ひとびとの琴線に触れる作品ができるのしょうか。
その問題の解決方法のヒントのひとつとして、波長、そして振動(パルス)があります。
物質としての身体は、それぞれ固有の振動をもっています。このことは、日常の無意識な会話の中で使用されています。それは、「あいつとは波長が合う。」などと表現されています。
この波長(振動)が合うということは、科学では同乗作用と呼んでいるようです。その作用とは、ふたつもしくはそれ以上の振動子が同じ場で、ほぼ同時に振動しているときには、かならず位相が一致する傾向があって、その結果まったく同時に振動するようになるようです。
この理由は次のように説明できるでしょう。
自然はもっとも効率のよいエネルギー状態を求めており、反対方向に振動するよりも、共振する方がエネルギーの放出が少なくてすむからです。
全宇宙の物質は、原子であれ、分子であれ、細胞であれ、各レベルでリズミカルに振動しています。ひとのような複雑な生物ともなると、それぞれ細胞間の振動数との相互作用は、複雑極まりないでしょう。ひとの体内組織のほとんどがリズミックな関係をもって動いているため、その構成要素の多くは同調する必要があるわけです。(問題行動を起す子供にリズム感が欠けていることを指摘している心理学者もいるようです。)
生物学的にもこのことは証明されているようです。それは、心臓細胞から取ったふたつの細胞を顕微鏡で観察すると、始め別々のリズムで振動していたものが、細胞が互いに近づくと、まだ接触していないにもかかわらず、突然リズムに変化が起こり、完全に同調するそうです。
体内リズムが同調し合うように、身体も外部世界とも同乗するようです。ひとの肉体的、あるいは精神的状況は、太陽の位置による季節的変化(木の芽時、満月夜のルナチックなど)、潮の干満(出産など)、昼夜のサイクル(腎臓の活性など)等により周期的に変化しているようです。これらの周期が、なんらかの原因で狂わされると、ひとびとは病気にかかり易くなったり、気分が落着かなくなったりするようです。
そのような不調に陥る、あるいは陥ってしまったひとたちが無意識に求めるものが、絵(写真)、音楽あるいは文章であるのかもしれません。
それらの優れた作品は、ひとびとの傷ついたこころを同調により和ませ、或いは奮起させる起爆剤ともなるのです。それらの作品から放出される、絵の具の色としての波長、或いはリズム音としての振動、あるいは文章としてのリズム(振動)は、ひとのこころのリズムの狂いを矯正、あるいは修復する「力」が潜在しているのかもしれません。
それでは、そのような作品を、実際に創造するにはどうしたらよいのでしょうか。
言葉を駆使して、物語を創造することを例にとって考えてみましょう。
漢字を多く知っているから、或いは手紙が書けるから、物語など書くことは簡単だ、と思っているひとは沢山いるようです。
物語は、事実を述べる事務的文章や学術的論文とは異なり、そこには事実を超えた想像力が必要です。ものごとを事実に基づいて記述するには、左脳の力が必要でしょう。しかし、左脳には、想像する力はありません。それは、右脳の仕事だからです。更に厄介なことに、左脳は記憶の繰返しにより訓練できますが、右脳は左脳のように訓練できません。
それでは、物語を創造する一般的な方法を簡単に述べてみましょう。
まずテーマを決めます。これは、市場調査をしてデータを集め分析することで解決できるでしょう。次に、物語の構成を考えます。これも先輩達の物語を参考に考え出すことができるでしょう。そして、その構成に合わせてストーリを考えます。ストーリが決まりましたら、その物語の出演者を考えます。その場合、個々のキャラクターを詳細に記述しておくことです。ここまでは、左脳の仕事量が右脳よりも多いでしょう。
ここまでは、誰にでもできることです。しかし、いざ原稿用紙、あるいはパソコンを前にして物語を書き綴って行こうとしても、事は上手く行かないかもしれません。
それでは物語は、どのようにして書かれていくのかといえば、作家は、ただ想像力で創作した出演者を観察して、その行動を観察したことを綴っているにすぎません。このことをある作家は、「自動書記のように、腕が勝手に物語を綴っている。」と言っています。それでは、その腕に書かせているのは誰かと言えば、それは右脳ということです。
作家は、テーマを決め、物語の構成を考え、その物語の出演者のキャラクターを考え、後は、そのキャラクターの動きを観察しているだけです。その観察期間がある作家は、一日だったり、またある作家は数十年だったりすることもあるのですが、いずれにしても、ペンを持って、あるいはキーポードを叩く前に、物語の主人公を観察していることが必要なわけです。
(カメラマンも作家と同じです。テーマや構成を創造せずに、やたらと撮影したとしても、ひとびとを感動させる作品が撮れるかは疑問です。)
その観察する方法のひとつとして、瞑想状態が考えられます。何故ならば、右脳が活性する瞑想状態は、日頃の常識という魔術から解放されるからです。つまり、瞑想はイメージを広げる状況を作れるのです。
それでは、そのイメージを広げる瞑想に入るにはどのようにしたらよいのでしょうか。
 
ひとりの青年が、金箔の上製本を閉じると、旅支度を始めました。そして、目指したのがヒマラヤの山奥です。何ヶ月もかかりヒッチハイクのようにして、やっとみすぼらしい寺院にたどり着きました。「尊師のご本に感動しました。わたくしに瞑想の極意をご伝授下さい。」そう青年が言うと、朽ちた壁の紙魚を蓮華座法で凝視している髪ぼうぼうの痩せこけたひとが、微動だにすることもなく言いました。「よかろう。」「ありがとうございます。それでは、ご伝授お願いいたします。」「只座」尊師は一言いうだけでした。青年は、尊師の真似をして、蓮華座法で、只座の意味を考え続けました。しかし、意味がよく理解できないため、「瞑想の極意が、只座ということが理解できません。もっと分り易くお教え下さい。」すると尊師は、「只座、只座」と二回言いました。暫くすると、又青年が言いました。「只座とは、ただ座っているだけのことですか。よく理解できないのですが。」すると尊師は語気を強めて、「只座、只座、只座」と三回言いました。
 
伝統的心理学における技法は、個人的な経験や体験に基づいていることが多いため、科学的論文のように理論では、伝授できないでしょう。それには、実践が必要です。だからと言って、一般的な人が、特殊な組織に加入するには勇気が必要です。
しかし、この本を読んでいるひとは、瞑想の基礎を体験しているのです。それは、ステップ2での、リラックスの仕方を訓練しているからです。自律訓練法は、瞑想に似た状態を作り出します。自律訓練法で身体がリラックスすることは、実はこころもリラックスしているのです。こころと身体は同調しているからです。
そのように訓練しているひとは、前節での伝統的心理学者の技法を応用することで、さらに簡単に瞑想状態に入ることができるでしょう。
その方法とは、自律訓練法を実施する環境を、精神を集中するものを用意するか、精神を埋没させる一定のリズムを聞くことです。精神を集中するものとしては、ろうそくの光、あるいは花瓶、宗教ぽいのが好きなひとはそれなりのグッズなどもよいかもしれません。リズミックなものとしては、メトロノーム、あるいは波の環境CDなどが考えられます。いずれにしても、あなたのやり易いグッズを試してみることです。
自律訓練法は、禅やヨーガに通じるものがあるのかもしれません。それは、呼吸を調整することで、意識を超えて知覚の扉を浄化することができるからです。そこで、イメージの幅を広げる手段のひとつとして、自律訓練法を復習してみましょう。
その概略は、暗示その一「腕、足が重たい」、その二「腕、足が温かい」、その三「心臓が静かに脈打っている」、その四「呼吸が楽だ」、その五「胃の辺りが温かい」の五つの暗示語を、その順に従って、さりげなく思い浮かべて行くことでしたね。そのようにしていれば、やがて心身がリラックスして行くわです。
そのようにしてリラックス状態に、あなたがなることは、丁度禅やヨーガなどの瞑想中の状態に似ているのです。そのような状態では、意識は、日常と異なる状態にいるわけですから、その時に、イメージを広げる訓練をすることは、利に叶っているわけです。
そのような状態になりましたら、イメージ訓練の初段階に入ります。
イメージを広げる初段階としては、色の「知覚」(こころで感じること)をマスターすることです。その方法は、映像を構成している光の三原色、ブルー(B)、グリーン(G)、レッド(R)を、イメージにより「知覚」する訓練をすることです。BGRを一度に「知覚」することは、難しいと思われるひとは、イメージし易い色から始めることです。その方法は、簡単です。前述の暗示語の次に、次の暗示をするのです。
暗示その六「ブルー(BGR)の世界が見える」
この場合、暗示のかけ方を思い出して下さい。努力してそのブルーの世界を見ようとすればするほど見ることは難しくなることは、あなたには理解できますね。
それでは、どのようにすれば良いかと言えば、さりげなくその暗示語を思い浮かべていればよいのです。そのように、あせらず、さりげなく、結果を急がず訓練していけば、ある日突然その世界を「知覚」できることでしょう。
BGRを「知覚」できるようになりましたら、次に進みます。
一般的に、ひとびとの共通興味を惹きつける映像被写体とは、スリーエスのセックス、スポーツそしてスクリーンでしたね。そして、それらの映像情報に潜在的に求める基本的イメージとは、「富」「健康」「調和」でしょう。ですから、それらスリーエスを映像の被写体としても、それらの映像から「富」「健康」「調和」のイメージ情報が溢れ出ていないと、ひとびとの興味を惹く映像作品とはならないかもしれません。ですから、スリーエスの被写体を素材として、プロカメラマンとしては、「富」「健康」「調和」のイメージ創りの演出能力が必要なわけです。
演出能力の開発は、日常的な努力をしたとしても、簡単にはできないかもしれません。それは、常識という意識が、イメージの広がりを制限するからです。
演出能力とは、別の表現では、センスの問題です。つまり、左脳を使う理性ではなく、右脳を使う感性の問題なのです。
プロカメラマンとして成功するには、レンズ以前の技術が必要ということは、このことなのです。つまり、自己の世界にどのようなイメージを持っているか、そして、その世界を被写体を素材としてどのようにして、映像として表現するか、ということです。
そのために、自律訓練法により、心身のバランスをとり、執着心が脱却し、常識からの呪縛を解き、「富、健康、調和」を瞑想によりイメージすることです。しかし、それらのイメージを独自に創り出したとしても、それらは内なる世界でのイメージであるわけですから、その内なるイメージ世界を直接映像として撮影することは、今の技術ではできないでしょう。
ですから、それらの内なるイメージ世界は、外なる世界(現実の世界)の材料である被写体を使って翻訳されなければ、実際の映像として表現できないわけです。
そこで、イメージを映像として表現する方法を考える必要があるわけです。
 
 
気づきは、ピンチと三昧の時   
 
 
 
現在の義務教育の基本は、言語的・分析的方法を最重視しているため、それらの方法から外れる見方・考え方によるアプローチを無視するか蔑視する傾向があるようです。しかし、それらのアプローチ(夜の学問・伝統的心理学)は、知識では回答できない諸問題を解決するための、補足あるいはヒントを与えてくれることもあるのです。
知識だけでは回答できない諸問題としては、「人生の意味とはなにか」「人間とは何か」「意識の性質とはどのようなものか」「こころとはどこにあるのか」等数え挙げれば、まだまだ色々あるでしょう。しかし、そのような問題は、厳密な理論的実証主義者の人達には、科学的機器や記録機器により実験的に検証することは困難ですから、解答できる可能性はないでしょう。つまり、「そんな問題は存在しないと無視」するかもしれません。
そこで、それらの諸問題に対し、真剣に解答しようと試みる人達が、伝統的心理学の道を志すわけです。その伝統的心理学の修練および技法とは、科学ならびに倫理学的研究からとり残された諸問題に解答しようとする試み、すなわち昼の学問の手法である「理論」よりは、むしろ夜の学問の手法である「直感」により個人的に達成しようとするわけです。
しかし、そのような伝統的心理学の手法も、普遍的ではなく個人的な経験のため、学術論文を書くことができないため、科学的心理学者を納得させることは困難なわけです。
そこで、この節では、夜の学問研究を昼に読めるようにする簡単な方法を考えてみることにしましょう。
夜の学問の手段のひとつとして、瞑想があります。瞑想とは、言葉を道具として理論展開してものごとを分析して解決を求めるのではなく、感性の世界に埋没して悟り、感じることです。つまり、「なんにも考えないこと」が瞑想の基本であるわけです。
そもそも、夜の学問と昼の学問とは、その手段が全く異なるわけですから、瞑想で悟ったこと、或いは感じたことを、言葉を道具とし理論的に説明することは困難を生じることでしょう。
それでは、永遠に両者を融合することはできないのではないか、と思ってしまうかもしれませんが、しかし、「アルキメデスの風呂」のように、瞑想と覚醒とが一瞬オーバーラップすることがあるのです。一般的に、「閃き」というその瞬間とは、三昧の時(リラックス状態)と、ピンチ状態(緊張状態)の時とです。
三昧とは、瞑想の本質として意識をある一定時間、刺激の単一の変化しない源泉に限定しようとするこころみにおいて、このことが首尾よく感就することです。別の表現では、好きなことをしていて自我(悩みの根本原因である欲のこと)を忘れてしまい、そのことに同化してしまっている状態、或いは考えがそのことだけに集中している状態のことです、つまり、壷に嵌っている状態のことです。
ピンチ状態とは、ある状態を前にして考えが固定化してしまい、そのことによりその状態の問題解決の行動がとれない方向で考えが固定化している状態のことです。つまり、考えがマイナスの状態で集中し固定化している状態のことです。
と言うことは、三昧とピンチ状態とは、意識の方向性は逆向きでも、意識を一点に集中し固定化していることについては、同じなのです。
そのように意識を一定時間、ある問題に限定していると、条件が整えば、一瞬、意識の世界から無意識の世界に入ることができるようです。
クリエイティブ業界では、アイデアを出そうとして、常識世界から遊離し、したい放題のことをするのは、三昧の世界に入ろうとしてそのようにしているわけです。或いは、自分の能力以上と思われる仕事量を引き受けたり、無理な製作日数で引き受けたりして、自らをピンチ状態に追い込み、優れた仕事を創造しようとするわけは、このためなのです。
優れた作品は、三昧の時かピンチの時に創造されることは事実です。それは、そのような状態の時、一瞬、意識が混乱し、潜在意識(知恵)が活性化するからです。
ですから、もし、あなたがひとびとを感動させる映像作品を創造したいと思うなら、そのような状態を大切にすることです。三昧の世界にいるのならその状態を、ピンチの状態にいるのなら、その状態から逃れようとするのではなく、後先の事など言葉を道具として考えずに、目を閉じただ瞑想することです。そのことにより、「ある閃き」を悟り、感じることができるでしょう。
しかし、そのようにして得た閃きも、ただの「設計図」(アイデア)にすぎません。夢(アイデア)を現実にするには、その閃きを、昼の学者に手渡し、昼の世界で実現する必要があるのです。
映像作品の設計図であるイメージは、実世界での材料である被写体をカメラを道具として写すことにより具体化するわけですから、そのイメージに合う素材を見つけるか、あるいは創りだすことは、ひとびとを感動させる映像作品を撮るための絶対必要条件であるわけです。
ですから、プロカメラマンは、ものごとの見方・考え方を研究すると同時に、常にどこにどのような被写体があるかを知っておくことが必要であるわけです。
ものごとの見方・考え方が変わると、昼の世界も今までとは異なるように見えてくるでしょう。そのようになるためには、「固定観念」から脱却することです。それには、まず日常生活における習慣的行動を点検する必要があるでしょう。
 
 
日常生活からの脱却   
 
 
 
もし、ひとが日常のあらゆるものごとに対して、意識し、気づくことができるとしたら、それらの情報処理のために、脳細胞は過剰動作をすることによりパニック状態になることでしょう。そのようにならないために、視覚の皮質における細胞ならびに網膜は、入力における諸変化を検出し、見慣れた恒常的なものは無視するように特殊化されているようです。
この恒常的なものを無視する特殊化は、視覚だけではなく、考えることにも当て嵌まるようです。たとえば、「欲求」という言葉を百回繰返し言い続けるとすると、その言葉の意味は、やがて「あやふやなもの」となり、ついには意味を失い、もはや本来の意味を感じられなくなることでしょう。つまり、ある刺激の単純な反復は、意識にある変化を喚起するのです。
このことは次のように説明できるでしょう。ひとの中枢神経組織をさかのぼっていけば、大脳の体制化のより高次の諸水準(潜在意識)が、日常環境のいっそう複雑な恒常的なものに対して、自動的に「無意識に」応答(自動行動プログラムを作動)するようにしているのでしょう。
ひとは、日常のさまざまな恒常性に素早く適応するのです。ですから、そのようにならないため、ひとは絶えず「新しい刺激」を求めているわけです。
あなたのカメラケースを覗いて見てください。そこには、いろいろなカメラ、レンズそして備品に満ち溢れていることでしょう。「新製品」を手に入れ、暫くそれらを弄んでいるうちに、やがて飽きてきた(日常の恒常性に陥ること)頃、新製品の発売となり、新製品にとって替わりその旧製品は棚の中に仕舞われ、やがて意識外のものとなり、その繰返しで、棚のコレクションは増え続けるわけです。
もし、意識せず日常を生活しているとすれば、それらの日常生活において、同じ見方や考え方で「知覚」しているわけです。しかし、マイナーチェンジの新製品のように、日常の環境が少し異なると、新しい世界を再認識できるわけです。
その手段のひとつが「旅」です。「旅」における環境は、見慣れたものではないものが多いため、あらゆるものが新鮮に見えるわけです。
この方法は、「固定観念」からの脱却に応用できるでしょう。暇とお金があるとしたら、「旅」にでることができるでしょう。しかし、そのようにできなくても、一寸した工夫で同等のことができるでしょう。
その方法とは、まずあなたの日常における環境と動作を再点検することです。
部屋のレイアウト変更、衣服の趣味を替えてみる等から、靴下を右から履くひとは、左からとか、右足から歩き始めるひとは、左足からとかの日常の恒常動作を替えてみることです。
日常動作或いは環境を変えることで、今までとは異なる感覚を知ることができることでしょう。そのようにしたら次に、常識という概念を疑ってみるのです。つまり、恒常的思考法を替えてみるのです。
ひとは、社会生活が滞りなく、他の人達とのコミニュケーションが上手く行くようにとの目的に、小さな頃より、「色々な常識事」を学習させられてきていることでしょう。そのような常識の恒常的思考法が、現在の生活に何の不都合もないのであれば、今のままの行動で暮らして行けばよいでしょう。しかし、何らかの不都合を感じるひとは、恒常的思考法を替えてみるのも、生き方を替えるひとつの方法かもしれません。
その方法のひとつとして、この章で、「メガネ」を外してものごとを見たり、考えたりすることを提案しました。常識というメガネは、時として「考えることを省略」させて結論を出してしまうからです。
時代を少し遡ってみれば、科学的専門家の言うことが、全面的に信用できるかを疑わざろうえないことが分るでしょう。たとえば、重力という概念を発明したことにより、空気より重い物体は空を飛ぶことが出来ない、と理論整然とした時計じかけのような定式化により証明した時代もあったのです。そのように時代を遡らなくても、現在の新聞での一流経済学者の経済予測を、時系列的に眺めてみれば、その予測の「いいかげんさ」を理解できることでしょう。
そのような目で、科学的思考の流れを遡れば、「科学的迷信」の例を探すのは容易いことでしょう。
魔術の言葉に、「外なるこどく、また内も」と言われるように、ひとは宇宙と連動(同乗)しているようです。その宇宙は、エントロピーの場に対してたえず増大していく複雑さ、それに対する秩序を内蔵しているようです。そして、小宇宙であるひとの文化や社会その基礎となるひとの意識もまた宇宙と同乗して進化していくようです。
科学者達の傲慢さは、ある任意時刻の全事象を知ることができれば、未来全体が明らかになる、と考えていることにあるようです。しかし、新しい情報がたえず入り続けている以上、最新のコンピュータを駆使したとしても、未来の状態を完全に記述できるだけの情報を内包することは、決してできないでしょう。つまり、現瞬間には、常にまったく新しい情報が生まれることにより、幾ら科学的に現在の現象を分析したところで、未来を完全に予想することなどできるはずはないのです。
ではどうするか、と言えば、科学的思考法で解決できない問題が生じたら、そのメガネを外してみることです。
そのことにより、新しい世界が見えてくることでしょう。