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中島一浩の「インクジェット・プリンタ論」【前編】(上)
日経バイト2004年5月号,71ページより
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小さなインクを高速かつ正確に打ち出すインクジェット・プリンタには高度な技術がいくつも詰めこまれている。その中でも主要な要素の一つが圧力発生機構だ。主な実現方法は2種類あるが実用化するにはどちらもさまざまな工夫が必要だった。筆者が開発に携わるサーマル方式にも,大きな三つの壁があった。
 
(本誌)
 
 2004年の正月,我が家に届いた年賀状の8〜9割はインクジェット・プリンタで作られていた。私はインクジェット・プリンタに携わって14年になるが,これだけ普及する日が来るとは正直言って想像できなかった。
 
図1●年賀状発行枚数の推移
インクジェット年賀ハガキは,2000年には6億3299万枚(15.0%),2001年には11億8746万枚(30.2%),2002年には14億枚(36.2%)と着々と増加している。2003年末は19億5000万枚(43.8%)とほぼ半数にも迫る勢いであった。日本郵政公社(旧郵政省)の報道発表資料を基に作成。
図2●インク滴の大きさ
空中を飛んでいる2ピコリットルのインク滴の直径は,日本人女性の平均的な髪の毛の1/5にすぎない。
 旧郵政省の数字によると,初めてインクジェット対応の官製年賀ハガキが発売されたのは1997年11月。発行枚数は2億枚で,年賀ハガキ総発行枚数のわずか4.8%であった。この年,発売後あっという間に売り切れてしまい,辛うじて入手したのをよく覚えている。その後,インクジェット年賀ハガキの割合は年々増えている(図1[拡大表示])。その伸びは驚くべきものだ。
 
 急速な普及の原動力となったのは,なんと言ってもインクジェット・プリンタ技術の進化であろう。今や,店頭で1万円から3万円程度で買えるプリンタでさえ,画質的には銀塩フィルムの同時プリントを十分に凌駕するほどである。4万円程度と少し値の張るプリンタなら,高級印画紙での印刷と遜色ない。
 
 これほどの高い印刷性能を達成するため,インクジェット・プリンタの小さな筐体の中には高度な技術の数々が詰めこまれている。しかし,残念ながらユーザーにはそれが実感しにくい。心臓部が機械の内部に隠れていて直接見られないからだ。またプリンタの場合,低価格なだけによけいにその技術の素晴らしさを分かってもらいにくいようにも思う。インクジェット技術の数々の進化とともに歩んできた技術者の一人として,是非この場を借りてその技術の真髄を感じていただきたいと思う。
 
液体のインクで絵を描く
 まず,インクジェット・プリンタの基本的な原理を改めて説明したい。インクジェット方式は,液体のインクを微細なノズルから一滴ずつ飛び出させて絵を描く。この方式は小型化しやすく,ランニング・コストが低いというメリットがある。
 
 インクジェット方式以外に,レーザー・プリンタやコピー機でおなじみの電子写真方式や,小型のデジタルカメラ専用プリンタなどで使われている熱転写方式などがある。電子写真方式は,感光体と呼ばれるドラムを用いて画像を作る。感光体は光が当たると電気抵抗が下がる性質がある。これにトナーと呼ばれる色の付いた直径数μmの粉を付着させ,それを紙の上に転写してさらに熱を加えて定着させる。普通紙にも鮮やかに印刷できることから,オフィスなどで広く用いられている。ただたくさんの部品を組み合わせなくてはならないため,小型化が難しい。また,粉には流動性はあるが,機械の中で自由自在に引き回すのは困難だ。これも小型化を阻む一因となっている。
 
 熱転写方式では,色の付いたフィルムと紙を重ね,熱を加えてフィルムの色材を溶かして紙に写す。熱の加え方によって色の濃さを調節できるため,細かな階調表現が可能である。ただ,ランニング・コストの面で効率的ではない。1ページにたった1個の点を印字するためだけにも,1ページぶんのフィルムを消費してしまうからだ。小型化にも限界がある。フィルムを送るために,送り側と巻き上げ側に二つのロールを配置しなければならない。
 
 この点インクジェットならインクは液体なので,ごく細い管で自由に機械の中を引き回せる。また,印字に必要な分のインクしか基本的に消費しない。
 
小さなインクを高速に打ち出す
 インクジェット・プリンタの中でも,特に技術の粋が集められているのがプリント・ヘッドである。インクを吹き出す部分のことだ。ヘッドには,数多くのノズルが設けられている。各ノズルの先端部分には,インクが飛び出す穴(吐出口)が開いている。ノズルの内部には,信号に応じてインクに圧力をかけて押し出すための機構(アクチュエータ)が配置されている。
 
 吐出口から飛び出すインク滴は,基本的に小さい方が望ましい。インク滴が細かいほどざらつきのない滑らかな階調表現ができ,高画質な画像を印刷できるからだ。このためインクジェット・プリンタのインク滴は,年を追うごとに小さくなっていった。最近のインクジェット・プリンタでは,わずか2ピコリットル以下にまでなっている。今から約10年前に発売された初めての本格的カラープリンタ(1994年2月発売の「BJC-600J」,当時は12万円もした)と比較すると,約20分の1にすぎない。
 
 ピコリットルとは10のマイナス12乗リットル,すなわち1兆分の1リットルのことである。これだけではピンとこないかもしれないが,1ピコリットルとは1辺が10μm(100分の1mm)の立方体の体積である。2ピコリットルのインク滴が空中を飛翔しているときの直径は16μm程度である。日本人女性の髪の毛の平均の太さが約80μmだそうであるから,その細かさがお分かりいただけると思う(図2)。
 
 ただ,インク滴が細かくなるとそのぶんたくさんのインク滴を紙に落とさなくてはならない。このため,単位時間に打ち出せるインク滴の個数を増やさなければならない。このための努力も平行して続けられている。例えばキヤノンの「PIXUS 990i」の場合,1秒間に最大1億個以上のインク滴を吐出させる能力がある*1。この能力によって,A4サイズの写真をほんの50秒ほどで印刷できる。
 
中島 一浩 Kazuhiro Nakajima
キヤノン インクジェット技術開発センター
1984年,東北大学大学院(生物物理学)修了後,大手事務機メーカーを経てキヤノンに入社。一貫して各種デジタルプリント技術の新規技術開発を担当し,1990年よりバブルジェットの技術開発・製品開発に従事。現在,インクジェットだけでなくプリント技術の総合的な技術解析に携わっている。 
 
 
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中島一浩の「インクジェット・プリンタ論」【前編】(中)
日経バイト2004年5月号,71ページより
この連載のほかの回を読む
超プロ級のコントロール性能
 単に速く打ち出すだけでは画質は良くならない。一つひとつのインク滴を適切な位置に落とさなければならない。A4サイズの平均的な写真の場合,紙の上に打ち込まれたインク滴の数は約10億ドットにものぼる。この10億ものドットの一つひとつの位置や大きさを完全にコントロールして初めて,写真印刷が可能となる。
 
 一般的なインクジェット・プリンタの場合,吐出口から紙までの距離は1〜1.5mm程度に設定されている*2。この距離を飛翔して紙に届いたインク滴の着弾位置の誤差は,わずか数μm以内であることが求められる。人間の目はいい加減なところもあるが,輝度の変化には極めて敏感に反応する特性を持っている。個々のドット位置の一つひとつのズレが見えるわけではないが,色にムラがあると画像の欠陥として敏感に認知してしまうのである。
 
 1.5mm飛んだ先で誤差が数μm以内という精度は,野球の投手に例えると,マウンドから捕手に向かって投げて,狙った位置からボール1個分以内に必ず的中させるコントロールに相当する。プロ野球選手といえどもこれだけのコントロールを持った投手はほとんどいないだろう。インクジェット・プリンタのヘッドには数千個に上るノズルが搭載されているので,超プロ級の投手を数千人抱えているようなものである。しかも,インクジェットの個々のノズルからはそれぞれ1秒間に何万個という数のインクが飛び出している。これほどの高い精度で大量のインク滴を打ち出せなければ,高速で美しい画像は実現できないのである。
 
強い力でインクを押し出す
図3●ピエゾ方式の仕組み
一つひとつのノズルに,圧電素子(ピエゾ素子)が配置されている。これに電圧をかけて変形させ,インクを押し出す。
図4●サーマル方式の仕組み
ヒーターでインクを加熱し,瞬間的に沸騰させる。急激な気化の衝撃によってインクを押し出す。
図5●方式によるノズルのサイズの違い
サーマル方式は高い圧力を発生させられるため,ピエゾ方式に比べてノズルを小型化できる。ピエゾ方式は,インク室からインクを引き入れる口(供給口)から吐出口までの長さがサーマル方式の数十倍もある。ノズル全体の容積では,1000倍以上の差となる。
 インクの着弾精度を上げるには,インク滴の飛翔速度を上げる必要がある。精度を妨げる要因の一つが空気抵抗だからだ。空気抵抗に十分に抗してインク滴が空気中を正確に直進するだけの運動量が必要となる。また一般的なプリンタの場合,ヘッドは紙の上を往復しながら絵を描いていく。このとき発生する風にも影響されない速度で飛ばなければならない。
 
 少し前のインクジェット・プリンタでは,インク滴のサイズが大きかったために,慣性力が強く働くので多少飛翔速度が遅くてもあまり問題にはならなかった。しかし現在のようにインク滴が小さくなると,空気抵抗の影響を無視できない。このため非常に高速に飛翔させており,インク滴が吐出口から飛び出して紙の表面に到達するのにわずか1万分の1秒程度しかかからない。
 
 インク滴の速度を上げるには,強い力ですばやく押し出す必要がある。その力の源となるのが,個々のノズル内に設けられた圧力発生機構である。物理現象として圧力を発生させる手段はいくつもあるが,インクジェットに適用できる現象は極めて限られる。微小なノズル内での液体の挙動は我々の普段感じている世界とは大きく異なっているからである。
 
 少し難しい話になるが,細い管の中を流れる液体にかかる粘性抵抗は管の断面積に反比例する。また,ノズル先端の吐出口に形成されている液面を動かすのに必要な力は吐出口の直径に反比例する。すなわちノズルのサイズが微小であればあるほど,ノズル内のインクはドロリとした液体のような挙動をし,表面張力があるのでゴム膜のフタをしたような状態になる。インクタンクに入っているインクを見ると,ほとんど普通の水と変わらないサラサラしたものだと感じられるが,それがノズルに入るとちょっとやそっとの力では押し出せなくなるのだ。
 
 このため圧力発生機構は,かなりの高圧力を発生できなければならない。またそれに加え,制御のしやすさ,応答性の良さなども兼ね備えている必要がある。制御しやすくなければインクを自由に操れないし,応答性が悪いとインクをすばやく打ち出せないからだ。これまでさまざまな圧力発生機構が発案されてきたが,こうした条件をすべて満たすのは難しく,多くが淘汰された。現在まで生き残っているものは,主に二つである。ピエゾ方式とサーマル方式だ。
 
電圧をかけて圧電素子を変形
 二つのうち,先に実用化されたのはピエゾ方式である。電圧を加えると変形する性質を持つ圧電素子(ピエゾ素子)を利用する(図3)。圧電素子は,インクジェットの圧力発生源として最初に考えられたものである。インクジェット以外にも,身近なところで広く使われている。
 
 圧電素子の中でも性能が良く,最も多用されているのがPZTである。これは鉛(Pb),ジルコニウム(Zr),チタン(Ti)の酸化物結晶である。1000℃以上で焼結して作られるいわゆるセラミックスの一種だ。現在,インクジェット用にもこの材料が使われている。
 
 圧電素子は,電圧をかけるとその電界強度に比例して変形する性質を持つ。このため電圧を変化させることで変形量を自由に制御できる。つまり,インクの動きを細かく操れる。
 
 しかし,ノズルを高密度に配列することが難しい。圧電素子の変形がそれほど大きくないからだ。変形量を稼ごうとして大きな電圧をかけ過ぎると,圧電素子が放電破壊してしまう。実用的な駆動範囲での圧電素子の変形量は,高性能なものでもわずか0.05%程度以下でしかない。インク滴を打ち出すのに十分な変形量を確保しようとすると,変形させる部分の面積を広くとる必要がある。つまり一つひとつのノズルのサイズが大きくなる。
 
 また,高い圧力を発生させることも難しい。圧電素子そのものは比較的大きな力を生み出せるが,ノズルの内壁を効率良く変形させようとすると,壁を薄い振動板で形成しなくてはならない。このためせっかくの圧力が逃げてしまう。
 
 つまりピエゾ方式では,わずかな変形量とあまり高くない圧力を効率よく生かして,インクを吐出することが求められる。この課題をクリアするため,ノズル形状に工夫が加えられてきた。また,加工しにくいセラミックスを高精度に安く作るための製造方法も模索され,実用化されてきた。
 
 ピエゾ方式は現在,セイコーエプソン,リコー,英Xaar社,米Spectra社などがそれぞれ独自の方式で実用化している。セイコーエプソンのカラリオシリーズは最も身近な製品だろう。このシリーズも,「PX-G900」,「PM-G800」などの上級機とそれ以外の普及機ではヘッドのタイプが異なる。いずれのタイプも画期的で洗練された製造方法により,それ以前のピエゾ方式に比べて飛躍的な高性能化と低コスト化を実現している。
 
インクを爆発的に気化させる
 一方,キヤノンや米Hewlett-Packard社,米Lexmark International社は現在サーマル方式を採用している。キヤノンは,この方式をバブルジェット方式と呼んでいる。この方式の歴史も長く,1970年代にキヤノンが初めて基本特許を出願して以来,各社で研究開発が続けられている。
 
 1970年代半ばのある日,実験中の技術者が机の上でハンダ付けをしていた。傍らにはインクを詰めた注射器が置かれていた。偶然ハンダごてが注射器の針に触れたとき,針の先端から小さなポンという音とともにインクが噴き出したのを技術者は見逃さなかった。これがサーマル方式の発明の逸話として現在まで語り継がれている。
 
 サーマル方式では,ノズルの中に作り込んだ小さなヒーターでインクを沸騰させてインクを飛ばす(図4)。ノズルの構造がシンプルなので,高密度に配置できる。ピエゾ方式と比較すると,一つのノズルの容積は1/1000程度で済む(図5[拡大表示])。
 
 ただ沸騰と言っても,我々が日常経験しているヤカンや鍋の中で起こっている沸騰現象とは全く異なるものである。日常的に見かける沸騰現象は,物理的には「核沸騰」と呼ばれる。水の場合大気圧下で100℃になると,蒸気圧が大気圧以上になるために泡が次々と生まれる。おなじみのぐつぐつ煮えたぎる状態である。この沸騰の場合は,きっかけさえあればどこからでも泡が発生する。また発生した泡は内部に1気圧の蒸気を含んでいるので,水面に浮き上がってはじけない限り消えることはない。昔懐かしい蒸気機関車などはこのような核沸騰で発生した蒸気の圧力を使って動力を得ていた。
 
 サーマル方式の沸騰は,これとは全く異なる仕組みである。高温に熱した鉄板の上に水滴を落とすと,水滴が激しくはじけ飛ぶのは誰しもご存知だと思う。このはじき飛ばす力がサーマルの原動力「膜沸騰」である。高温の壁に接した瞬間の水は全体が沸騰することはなく,壁に接したごく一部の水だけが瞬間的に気化する。こうした現象は100℃程度では起こらない。例えば水の場合は,約300℃以上が必要である。この温度を過熱限界温度と呼ぶ。
 
 膜沸騰現象で発生する圧力はきわめて大きい。水の場合では約100気圧にも達する。火山活動で時折「水蒸気爆発」という言葉を耳にすることがあるが,これもまた地下水がマグマに触れて起こった膜沸騰現象である。大きな山の形を変えるほどの高圧をノズルの中に閉じ込めて,小さなヒーターで正確に制御するのがサーマルの基本原理なのである。