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2007年を斬る: 「働く」って何だっけ?
世界に誇るべき日本人の労働観、その誇りと自信を取り戻せ
2007年1月1日 月曜日 水野 博泰
  働き方  ホワイトカラー・エグゼンプション  労働法制  
 
 
 
 60年に1度と言われる労働法制の大改革は、労使対立のデッドロックに陥ってなかなか前に進めない。進化のための第3の軸は、日本人の心の奥底にある独特の労働観にこそあるのではないか──。「仕事の報酬は仕事」が持論であるソフィアバンク代表の田坂広志氏は、今こそ、働く者がその誇りと自信を取り戻す時だと提言する。(聞き手は、日経ビジネスオンライン副編集長=水野 博泰)
 
 
 
 
NBO 労働法制の大改正が進められようとしていますが、制度論のところになると労使が対立して前になかなか進めない。日本人の労働観、つまり「働く」ということに対する考え方を徹底的に議論することが前段にあるべきなのに、そこが抜け落ちているような気がします。
 
田坂 その通りですよね。「ホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間規制の適用除外制度)」を巡る議論ひとつ取っても、労使の対立軸の中で議論しているとどこまで行っても平行線で交わらない。「第3の軸」というか、何か違った角度から話を進めていかないと良い方には向かわないと思います。
 
 
働くことは喜びであり貢献である
 
 日本人の労働観の根底には、「働くとは傍(はた)を楽(らく)にすること」というものがあるんですね。たとえ言葉にしなくても、そんな雰囲気をどこかに持っている。「世のため、人のため」なんて、子供の頃からよく聞いた言葉でしょう。最近はちょっと聞かなくなりましたが…。「死ぬまで世の中のお役に立ちたい」という意識がどこかにある。2007年に団塊の世代が定年を迎えるようになると、この感覚が非常に強くなって再び出てくると思うんですね。
 
NBO 「生涯現役」なんていう言葉もありますね。
 
田坂 ええ。「アーリーリタイアメント」、つまり50歳ぐらいで早く引退して悠々自適にやりたいっていう人は意外にいないんですよね、日本人には。日本人は働くということを、単なる「生活のための手段」という感覚とは違う次元で見つめてきたと思うんです。
 
 欧米における労働観は、もちろん欧米がすべてそうだと言い切るつもりはないんですけど、働くということは「苦役」だという感覚がある。レイバー(labor)という言葉の語源は苦役に近い意味で、必要悪に近いとらえ方をする時があるわけですね。働き過ぎはいけないということで、キリスト教では安息日が設けられているわけです。
 
 ちょっと脱線しますが、西欧で社会主義が起こった時、マルクス主義なんかの根本には労働疎外という考え方があった。原始の時代から労働には喜びが伴っていたのにその喜びがなぜ消えてしまったのかということが論じられた。アレクサンドル・ソルジェニーツィンがノーベル賞を取った『イワン・デニーソヴィチの一日』なんかを読むと、スターリン時代の収容所でさえ働くことに喜びを感じる人間の本性が描かれている。労働の根本には喜びがあるというのは世界共通なんだと思うのです。
 
 
欧米とは明らかに違う日本の「報酬観」
 
 ただ、表層的な傾向で言えば、欧米の「報酬観」というのは、2つの報酬、「給料や年収」「役職や地位」を軸にとらえている。「ペイ、インカム」と「プロモーション、ポジション」です。特に米国でこの傾向が強い。シリコンバレーなんかの成功物語を聞いても年俸がいくらとかいう話ばかりでしょ。最近では、ゴールドマン・サックスのCEO(最高経営責任者)が63億円もらったとか。
 
NBO 平均でも7000万円とかいうやつですね。
 
田坂 CEOに駆け上がったとか、ゴールデンパラシュート(敵対的買収の防止策として、被買収企業の経営陣などに巨額の退職金や報酬を支払う契約を結んでおくこと)とかいった話にも事欠かない。
 
 では、日本人の報酬観はどうかと言うと、これらの2つはもちろんなのですが、これら以外の目に見えない「4つの報酬」を重視しているんです。第1に「働きがいのある仕事」。これは「仕事の報酬は仕事」という考え方に通じる。第2に「職業人としての能力」というもの。腕を磨くことそのものに喜びを感じるのです。日本人って何でも「道」にしちゃう人たちで、例えば“編集者道”というようなものがあるでしょうし、私は“シンクタンク道”なんて言っています。「求道、これ道なり」という名言があって、道を歩むことそのものが幸せな状態だと思っていたりするわけです。
 
 第3が「人間としての成長」。腕を磨くということは、イコール、己を磨くことにつながる。「人間成長」が報酬だと思っているんですよ。だから、定年退職の時に、「おかげさまでこの会社で成長させてもらった」なんてつぶやくんですね。そして第4が、「良き仲間との出会い」です。「縁」という思想です。
 
 これら4つが、日本人が働くことの喜び、つまり報酬になっている。そのことをしっかり見つめ直しておかないと、日本における労働論議というのは非常に浅いものになってしまう気がします。
 
NBO ホワイトカラー・エグゼンプションなどの議論がかみ合わないのは、欧米的な報酬観のところしか見ていないからなのかもしれませんね。
 
田坂 はい。労働者の方は労働時間が少なくてペイが高い方がいいと思っている。経営者は安いペイでたくさん働いてもらった方がいいと思っている、この本音をエグゼンプションという美しい言葉でくるんでいるだけだから、交わるわけがないんです。第3の軸を持ち込まないと不毛な議論のままで終わってしまう。
 
 松下幸之助さんは、「企業は本業を通じて社会貢献をする。利益とは社会に貢献したことの証しである。多くの利益を与えられたということは、その利益を使ってさらなる社会貢献をせよとの世の声だ」と言った。これこそが、日本型経営の利益観なんですよ。
 
 欧米の利益観はちょっと違っていて、免罪符の思想に近い。儲け過ぎたら一部を寄付するというのはそういうことです。利益を悪とは言わないにしても、少し後ろめたいものととらえる傾向がある。日本では、利益は社会に貢献したことの証しだと堂々としている。
 
 日本人の人材観も独特です。「一隅を照らす、これ国の宝なり」と最澄は言った。役職が上だから偉い、下だからダメという感覚が日本人には欧米よりも薄いですよね。日本の経営者が好む名言に「千人の頭となる人物は、千人に頭を垂れることができなければならぬ」というのがあるんです。こういう謙虚さが日本的経営の思想の根底にあったはずなんです。
 
 今、欧米的な労働観と日本的な労働観の狭間で混乱が生じています。給料、年収、役職、地位で報いるということはもっと徹底していくべきなんですが、それを突き詰めていったところに正解はないことに、本当は皆が薄々感づいているんじゃないんですか。社長に63億円なんてあり得ないわけですよ、日本では。今こそ、日本的経営と日本人的労働観をスケッチアウトすることが不可欠だと思います。
 
 
“成果主義”がもたらした「やる気のスイッチング」
 
NBO “成果主義”がうまく機能しないのは、どこかに「迷い」があるからなんでしょうね。
 
田坂 欧米的、特に米国的な方に向かおうとしているけれども徹底的にやれていないのは、そこなんですよ。日本人というのは、元々お金をもらえるから頑張るという文化ではなかったのに、無理やりに「報酬はお金だ」と叫んでいる。ところが、実際にはそれほどお金をもらえるわけじゃない。メリハリもつけず中途半端なまま。気がつくと、今まで自分たちを鼓舞していた日本的な労働の価値観を希薄化させただけだった。誰もが「このままではダメだ」と思っているのに、どうしたらいいか分からなくてもがいている。
 
 高橋伸夫さんが書いた『虚妄の成果主義』でも引用されている有名な社会心理学の話があります。ユダヤ人の床屋の話です。ドイツの子供たちが、床屋に来ては石を投げてガラスを割る。困った床屋が知恵を絞った。ガラスを割って逃げようとする子供たちに、「よくやった」と言ってお金をあげた。ガラスを割ってお金をもらえるんだから、子供たちはまたガラスを割る。何回か繰り返した後に床屋の主人はピタッとお金をやるのをやめた。すると子供たちは、お金がもらえないなら面白くないというのでガラスを割らなくなったというのです。モチベーションのスイッチングが起こったんです。
 
 このスイッチング効果ってものすごく大きい。今までメーカーの現場などでは、「カネのためにやってるんじゃないんだ」「俺はこの製品に命を懸けているんだ」と誇らしく言っていた社員が、成果主義が導入された途端に「こんなに安い給料でこき使われたんじゃ、やってられない」と言い出すという具合に、意識のスイッチングが起こっちゃったわけです。重大な落とし穴です。
 
 もちろん、日本の労働観が手放しで良かったかと言えば、そうではなくて、一歩間違えば、「傍を楽にする」のではなく「皆で楽になる」というぬるま湯文化に陥ってしまうことも少なくなかった。
 
NBO 当然、2面性を持っているわけですね。
 
田坂 はい。競争原理という点では弱いんです。日本の集団主義は、良い面と悪い面がちょうどコインの裏表のような関係にあった。集団として貢献することが喜びだったはずが、一つ間違えると無責任主義にひっくり返ってしまう。全員で責任を取るというのは誰の責任でもないことと同じです。腕を磨くとか、お客様を鏡として己を磨くみたいな意識がどんどん低下して、結果としてアマチュアリズムが蔓延していった。
 
 
蔓延するアマチュアリズム
 
 これは欧米の労働観の流入とは関係なく現実に起こったことです。だから逆に欧米労働観が入ってきたという面もある。結果として、生産性が低下し、私は好きな言葉ではないのですが個人の「商品価値」が低下したのです。企業全体の生産性が下がっているんですから、給料が上がるはずがない。結局、皆で低賃金に甘んじるという構造に向かって、落とし穴に見事にはまってしまった。
 
 誤解を恐れずに言うと、「プロフェッショナリズム」の復活ということを、きちっとやらなければならないと思います。欧米的な労働観の間違った解釈としてのプロフェッショナリズムではないですよ。自分の商品価値を上げるために腕を磨くというのは間違ったプロフェッショナリズムの考え方です。
 
 日本には職人魂とか商人魂というのがちゃんとあって、近江商人の心得「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よし」とか、住友家訓の「浮利を追わず」とか、お客様の笑顔を見るために努力するとか、すごいプロフェッショナリズムがあった。これを復活させることを同時にやらないと、非常に危うい状態に向かってしまう。
 
 
NBO 年の変わり目に、少し暗い気分になってきました(笑)。
 
田坂 いや、そう悲観することはないんですよ。私は、恐らく日本型資本主義の新しい思想がこれから生まれてくるんだと思っています。単なる復古的な意味ではなくて、原点回帰と未来進化が同時に起こってくる。
 
 
日本的経営はらせん階段を上るように進化する
 
 ヘーゲルの「弁証法」によれば、物事はらせん的に発展していきます。進歩、発展というのは右肩上がりに一直線ではなくて、らせん階段を上がっていくようなものなんです。横から見ていると上に上がっていくけれども、上から見ているとぐるっと回って元の場所に戻っていく。ただし、1段高い所に上がっているわけです。
 
 これから起こる出来事というのは、大半がこのらせん的発展になっていきます。懐かしいものが復活しているように見えるけど、実はちゃんと1段上がっている。日本型資本主義とか、日本的経営もそうです。昔に戻っているように見えて、効率化、合理化みたいなことはきちっと欧米に学んでアウフヘーベンされていくんです。例えば、これから徒弟制が復活するんですよ。
 
NBO 徒弟制ですか?
 
田坂 ええ、徒弟制です(笑)。昔の徒弟制はあまりに非効率でしたから、マニュアル化、システム化、ナレッジベース化ということをやってきたわけですよね。「知識」については、誰もが簡単に手に入れられるようになりました。例えば、ファストフード店などでは、高校生のアルバイトでもすぐに戦力になるようにマニュアル化が徹底されている。その結果、経験が少ない若手でも組織の中で即戦力になるんだという意識が社会的に強まったのです。若手は自信をつけました。多くの企業で、「若手をもっと活用しよう」「若手のやる気を引き出せ」ということが叫ばれるようになった。
 
NBO 若手の不満が溜まっているなんて話は、どこの企業でも聞きますね。
 
田坂 ところがですよ、世の中はらせん階段をぐるっと回って1段上がってしまった。知識を身につけているなんてことは当たり前になってしまったのです。マニュアル化なんて、もう競争にならないわけですよ、当たり前ですから。
 
 そうすると、どうなるか。例えばコンビニなら、もっと知恵と工夫を凝らしてお客様のニーズに応えた棚割ができるかとか、気持ちよく挨拶するといったマインドサービスができるかみたいな方に向かっているわけです。単なる知識を超えて、深い知恵とか言葉にすることが難しい間合いとか、経験を積むことでしか得られない何かの方に戻ってきた。
 
 メンターとかコーチングが流行る背景にはそういうことがある。私は、間もなく「師匠」という言葉が復活して、洗練された徒弟制が復活すると思いますね。若手にすれば、少しぐらい知識を身につけただけでは全然プロとして活躍できないと感じる時代になり、年輩から見れば若手を管理するのではなく、師匠として本当に高度な知恵を伝承できるかがマネジャーやリーダーとしての資質になってくるんです。
 
NBO 日本人の働き方は、らせん階段を1つ上がる瞬間にあるということですね。
 
田坂 何かが起こっています。ホワイトカラー・エグゼンプションの議論でぶつかり合いながら、労使双方に「俺たちはなぜ頑張って働くんだろうか」という共通の感覚がある。労働組合は単なる賃上げでは無理だと思っている。経営側もやっぱり成果主義だけではだめだと思っている。第3の軸を求めているんです。
 
 
「生き残れ」「勝ち残れ」なんて脅しや強迫では人は動かない
 
 お金という報酬はゼロサムゲームなんですよ。例えばボーナスの原資は決まっていますから、私と水野さんがいたとして、水野さんがたくさん取ったら私が少なくなる。水野さんが先に課長になったら、私はなれない。設備投資に回せば労働者には回らない。そういうゼロサムゲームなんですよ。
 
 ところが、働きがいとか、腕を磨くとかいうことはプラスサムなんです。水野さんが編集の腕を磨いたから私が編集の腕を落とすということはない。みんなでプロの編集者を目指そうと言って頑張ると、みんながプロの編集者になっていく。俗に言う商品価値をものすごく上げられるわけです。わずかばかりの退職金をもらうよりも、きちっと腕を磨かせてもらう方がよっぽどいい。報酬観を深いところでとらえ直すと全く違う世界が見えてくるはずです。
 
 企業が競争原理、成果主義を導入するのは当然としても、必ず合わせ技で、やる気が高揚するような手を打たないといけない。それがないから、職場の雰囲気が悪くなり、社会が荒廃してしまうのです。
 
 市場原理、競争原理というのは生産性を上げるということです。もっと働けということでもある。ではどうやって働かせるかというと、3つの言葉に走ってしまう。「生き残り」「勝ち残り」「サバイバル」です。頑張って働かないと生き残れないぞ、勝ち残れないぞ、サバイバルできないぞと強迫するわけです。
 
NBO 我々マスコミもこれでもかというほど使う言葉です(苦笑)。
 
田坂 その根本には、「人間は生存が危うくならないと頑張らない」という人間観がある。確かに人間には怠け者の側面もありますが、脅かされてばかりでは嫌になってしまう。働きがいとか生きがいといったポジティブな面を論じないと社会全体がおかしくなってしまいます。
 
暗闇の中に光を見つけることこそがリーダーの役割
 
 「2人の石切り職人」という寓話があります。旅人がある町を通りかかったら新しい教会が建設されているところだった。建設現場では2人の石切り職人が働いていた。旅人が1人の石切り職人に聞いた。「あなたは何をやっているんですか」。すると、「俺はこのいまいましい石を切るために悪戦苦闘しているんだよ」という答えが返ってきた。もう1人の石切り職人に同じことを聞くと、2人目の男は目を輝かせてこう言った。「私は人々の心の安らぎの場となる素晴らしい教会を作っているんです」。つまり同じ仕事をしていても、その彼方に何を見ているかが全然違うわけです。
 
 日本の構造改革は、このままでは生き残れないぞと尻を叩き、人々を悪戦苦闘させているだけなんじゃないでしょうか。働きがいというビジョンについて、誰も語っていない。
 
NBO 確かに、脅しの構造改革で前向きな気持ちになれるはずがありませんね。
 
田坂 日本は高齢化社会だから大変だ、お先真っ暗だって言うでしょ。逆なんですよ。世界一の健康長寿国で、世界第2位の経済大国で、科学技術が最先端で、高学歴社会で、こんな豊かな国は世界中どこを探してもほかにないんです。だから、世界のモデルケースになるような素晴らしい高齢化社会の模範を作ろうと言ってほしいんですよ。熟練人材と先端技術を駆使して、心配りの利いた最高の高齢者向けサービスを提供する。それを世に未来志向で示していこうよと語られたら、国民の気持ちだって変わってくるはずです。
 
 政治家でも官僚でも経営者でも、リーダーの究極の役割というのは、どんな厳しい状況でも光を見つけて、それを語るということなんじゃないですか。物事をポジティブにとらえられるかどうかです。高齢化社会の負の側面を軽視しているわけではありません。難題山積です。でも「2人の石切り職人」の寓話のように、とらえ方によって全く違う見え方になってくる。
 
 
「知識社会」とは単なる知識が価値を失う時代
 
 これからは「知識社会」だと言われますが、これは知識が価値を失う社会なのです。つまり、言葉で表せるような知識は誰でも手に入れられるようになる。インターネットで検索できる、電子辞書には100冊分もの辞書が入っている。知識がコモディティー化して、逆に価値を失ってしまうのです。これからは言葉にならない知恵、マインド、人間力という方向に進んでいきます。
 
 そういう意味では、賃金と引き換えに労働時間を提供するという労働観から卒業しなければならない。自分が「労働者」だと意識する人は少なくなるんじゃないですか。方向としてはもっと「プロフェッショナル」ということを重視していくべきだと思います。時代は個人カンパニーとかフリーエージェントに向かっていきます。お金ではなく、働きがいを求めて人々が移動していくような時代です。
 
 今、世界の資本主義はマネタリー経済とボランタリー経済の融合に向かっています。最近、『これから何が起こるのか』という本を書いた理由の1つは、そのことを伝えたかったからです。“Web2.0革命”が「衆知創発」「主客融合」「感性共有」という3つの革命を起こし始めているのです。別の言葉で言えば、デモクラシーが始まったんです。
 
NBO デモクラシーですか?
 
田坂 皆さん、「えっ」と驚かれるんですけど(笑)。デモクラシーなんてとっくの昔に広がっていると思われていますが、とんでもない。今までのデモクラシーって代議制でしょ。昔はギリシャの直接民主主義とかがありましたが、非効率だということで間接民主主義になって今の時代に至っている。
 
 ところが、デジタル技術がデモクラシーを直接民主主義に非常に近い形に引き戻すんです。民主主義といっても政治の問題だけじゃありません。経済のあり方、社会のあり方、働き方なんかを含めて、一人ひとりが主人公となる時代に向かっているんです。
 
 
2007年は“懐かしさ”に満ちた年になる
 
NBO らせん階段が1段上がる瞬間だったりするかもしれませんね。質が変わっていくと言うか。
 
田坂 その通りです。恐らく、2007年は「何だか懐かしいな」と感じることが増えると思いますよ。例えば、オークションというのは昔からあったけれども、ネットオークションという進化した形で大成長しましたよね。eラーニングというのは「寺子屋」の復活です。
 
NBO 電子メールの年賀状は、最初は味気ないと思っていましたが、最近は慣れてきて保存に便利だなと思ったり…。
 
田坂 女子高生は携帯メールを出す時に、仲のいい友達には例の絵文字を使うでしょう。でも本当に仲のいい友達には、手書きで書いた文字を写真に撮ってその画像を送るんです。やっぱり手書きがいいねと言って。ぐるっと回って、戻ってきて、ちゃんと1段上がっている。
 
NBO 2007年は、懐かしさみたいなものがキーワードになるかもしれないですね。私は、ほっと一息つけるかもしれないな(笑)。
 
田坂 面白い年になると思いますよ。
 
NBO 実は、田坂さんにはこのインタビューで「日本の労働者は甘えを絶て」というような強いメッセージを言ってもらおうかなと思っていたんですが、ちょっと狙いが間違っていたかもしれません。
 
田坂 私が「働く論」をずっとやっている理由は、我々は素晴らしいことをやっているんだという感覚をもっとしっかり持つべきだと思うからなんです。人は働く時、さっきの「2人目の石切り職人」みたいな世界を心の中に必ず持っているんです。それは金儲けとか生き残りのためではなくて、仕事に対するプロフェッショナリズムとか、誇りのところなんですよね。
 
 だから、「甘えるな」というのではなくて、私は「ご自身がやっているお仕事に、もっと誇りと自信を持たれたらどうですか」と言いたいのです。あなたは素晴らしい“教会”を作っているじゃないですか。腕を磨いて、人間を磨いて、仲間と一緒に頑張って。それこそが仕事の喜びであり、それこそが仕事の報酬なんじゃないですか。心底からそう思えた時、らせん階段を1つ上がった日本人の新しい働き方が見えてくるんだと思うのです。