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「言葉の影響を認識せよ」(1998.11.3 産経新聞投稿)
 
 指導者というからには、自分の発言がどういう影響を及ぼすのかということを常に認識していなければならない。逆にいうと、自らの発言によるさまざまな力というものを理解し、それを有効に作用させる能力があるものこそ、指導者になりうるのではないかと思う。というのも、つい最近、職場において、真意を疑うような指導者の発言があり、我々社員は動揺を抱かずにはいられなかった事例を身をもって体験したからだ。小生の属する会社は、東証一部に上場している一製造業である。例によって、不況の波は弊社にも大きなうねりとなって押し寄せ、かつてないリストラを断行せざるを得ない状況に追い込まれている。そうしたなか、会社側はいくつかのリストラ案を提示し、その柱として不採算部門の分社化が発表された。そして、その部門にいる人間は転籍ということも明らかにされた。現在このことに関して組合と協議中である。各案はあくまでも組合と協議のうえ成立するので、現時点ではすべて未決定である。当該部門に属する社員は、将来のことも含めてかなり神経過敏になっている。そのさなか、経営を代表する者が業界紙のインタビューにて、該当者の不安をいっそう煽るような発言をした。本人自身は、これらの施策を不退転の決意で臨む、ということをいい表したかったのかもしれないが、特別な環境下において、そのように前向きな解釈をしたものはほとんどいなかった。言葉は、そのおかれる状況によって意味合いが異なってくる。そして、場合によっては言葉は剣よりも強い「暴力」になりうる。発言もしくは言葉というものは、いい意味においても悪い意味においても、甚大なる影響を及ぼす。この乱世に立つ指導者とは、そういったことを強く認識した者ではないだろうか。