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西部 邁 社会的正義 『なぜ日本売りは起きたか』
 神戸の事件から学ぶべきは応報説的な道徳論の必要だ
 
 解決しがたき葛藤におのれの心理が巻き込まれたとき、人はさまざまな形で自己を防衛しようとする。そのうちの一つがディスプレイメント(転移)である。つまり、関心の対象をほかに転移させることによって、当面の心理的苦痛から逃れんとするわけだ。
 神戸市須磨区に発生した、身の毛がよだつという表現がけっして大仰に聞こえないような、猟奇の気分をそそられる「生首事件」を前にして、大方の日本人は小さくない心理的葛藤を味わった。その十五歳の犯人にあって、生得的つまり遺伝的な性向はどうであったのか、家庭における両親の躾はいかなるものであったのか、有名中学への受験において失敗したことが彼にどんな衝撃を与えたのか、義務教育の実態が何であり、またそれが彼を餓鬼道に堕とすにあたって何らかの関係があったのか、ホラーものやセックスものヴィデオに親しんだこととその犯行のあいだに何らか際だった関係があったのか、などと考えていくと、どれが主因でどれが副因が、何が因で何が果か、推理が千々に乱れてくる。仮にうまく理屈を組み立てられたとしても、生首切断というグロテスクな事実はなまじっかな推測では手の届かぬところにあると感じずにはおれない。さらに、教育や消費をめぐる現代日本人の生活に話が及ぶのなら誰しも内心忸怩たる気持ちに追い込まれる。といったわけで、マスメディアの読者や視聴者は周章狼狽に陥った。いや、もっともあわてふためいたマスメディア自身であって、何をどう報道し解説してよいものやら、右往左往するばかりであった。
 
教育説が剥き出しの形で採用されている少年法
 そこに新潮社の写真週刊誌『フォーカス』がその少年の顔写真を掲載し、次いで、『週間新潮』が(眼の部分を黒く塗りつぶした上で)同じものを発表した。それを奇貨として、日本人の心理的防衛として、「転移」のメカニズムが発動されたのである。つまり、「少年法を守れ」との趣旨で、ありとあらゆる書店が両誌の販売を拒否するに至り、そして法務省人権擁護局および法務大臣が新潮社にそれらを回収するよう勧告したのであった。
 それにつれて世論は、ほんの暫しとはいえ、少年法をめぐる遵法精神と弱者保護の社会的正義に沸き立ったのである。その間、現代日本人の精神のいかなるグロッド(地下洞窟)からあのグロテスク(醜悪)な事件が発生したものかという厄介な問いかけから逃れることができるわけで、「社会的正義」はまことに便利な精神安定剤として機能したということができる。
 しかし、そんな愚行からもいくつか大事な論点が浮かび上がってしまったのだから、現代日本人に精神の安定など訪れようがない。両週刊誌は、少なくとも建前としては、法律を犯してでも道徳に訴える必要があると判断したのである。
 つまり、「他人に危害を加えたものにはそれ相応の報いがあって然るべきだ」といういわゆる応報説的な道徳感情が、人々のうちに、大いに弱まっているとはいえ、持続しているのであり、そうした感情を汲みとることのできない法律に逆らうのは、ときに今回のように異常の度合いが激しい場合に、むしろ正当な振る舞いだということである。
 犯罪者にたいしてどういう制裁を加えるか、それには犯罪者の更正にかんする教育的な配慮と被害者にたいする慰撫という応報的な配慮がある。実際には両者のあいだの平衡・総合として制裁の質量が定まるのであるが、少年法については教育説が剥き出しの形で採用されている。だから、この十五歳の殺人犯は二年の少年院暮らしのあとで社会に復帰ということにもなりかねないのである。
 教育説は現代法にとっての価値的な前提となっている人権思想の直接的な帰結だといってよい。人権主義は、性善説な人間観を暗に採用しつつ、人々の欲望を自由に解き放つことを是認する。もちろん人々の欲望は互いに衝突するのが普通であり、そこで動員されるのが「多数参加の下での多数決」という民主主義の原則である。