back

人と人との間に 千住真理子(ヴァイオリニスト)
 
 ”ストーカー”という言葉が盛んである。
 少し前は、日本になかった単語だが、今では誰でも知ってる言葉になってしまった。昔に比べて”ストーカー”が増えたのだろうか。いや、そうではなく、昔もそのような困った人物は存在していたが、別の名で呼ばれていた、ということらしい。
 ストーカーとは、ストーク=忍び寄る、という意味があるからである。多くの場合は好きなタレントやスターの後を知らぬ間に、いつのまにか忍び寄ってついて回ることであったが、今では”一般の人々”にも見知らぬ影が忍び寄る。
 かつては”ファンの度を越した状態”と考えられていた存在も、今ではその異常性に、医学的見地からの指摘も出てきている。
 もちろん、ストークしている本人には「私はストーカーだ」という意識はないわけだ。意識があればただの嫌がらせ、だ。
 自分だけの思いをぶつけ、すべてを自分流に解釈し、妄想と現実がごっちゃになり、相手が不快に思っていることには気がつかない、極めて利己的な存在、である。誰にも迷惑がかかっていないと信じ、いやむしろそのように忍び寄り、ついて回ることで、相手も喜んでいると思い込んでいる場合が多いらしい。
 これはしかし、特殊な世界の話ではない。”ストーカー”という種族は、現代社会のゆがんだ一面が生み出した産物であり、「他人の心が感じられない、他人の嫌がることがわからない」という意味ではそのまま”いじめ”に共通していえる点であるからだ。
 
 実は私も、ストーカーといわざるをえない人物の存在にたいへん迷惑しているところである。たとえその人物がこのエッセーを読んでいたとしても「これは自分のことではない」と思うのだろうが、
「これは、あなたのことだ!」。
 警察やボディーガードのかたがたや、マネージャーやスタッフの協力を得て、なんとか平穏な演奏会を続けてはいるものの、何事かが起こるかもしれない、という不安感と憤りはぬぐい去れないのだ。
 少し前、ある男優がストーカーに対して訴訟を起こして話題になった。公演や宿泊先に執拗につきまとい、彼は「恐怖心から舞台に集中できなくなったため、やむをえず訴えた」という。
 裁判は勝訴となり、ストーカーとなる女性は慰謝料五十万円の支払いを命じられたのに加え、周囲半径二百メートル以内への立ち入り禁止、となったのだ。
 もっともである、と憤慨すると同時に、男性である俳優が恐怖を感じるのであれば、女性にとっては、なおさら危険を身に感じざるを得ないのではないか、という考えを新たにしたものだ。
 ファンというのは微妙な存在である。
 最初のうちは心強い応援団の一人であったはずの人が、徐々に、あるいは一転して不気味な存在に変わることも珍しくはない。異性であれば、ある程度の主観がそこに混ざってしまうのもいたしかたないと思う。
 とはいえ、人間としての節度と自制心が”ファン”というデリケートな立場のバランスを保つのであって、それらがなくなればただのセクハラであり精神的痴漢行為、といわざるをえない。
 私がティーンエージのころからほぼ二十年、ずっと応援してくださっているファンのグループがある。彼ら、彼女らは私に何を求めてくるわけでもなく、ただ単に「頑張って」と言い続けてくださってる人たちである。
 彼らと私が非常にいい関係で長続きしているのは、彼ら一人一人が適度な”距離感”を知っているということなのだ。なので、私も安心して年に一回の会合を持ち、今でも交流を深めている。
 
 昔私が大学へ通っていたころ、小此木啓吾という医学博士の書いた本を読んだことがあった。その中で氏は”ヤマアラシジレンマ”という言葉を引用して、人間関係のあり方について語っていた。この言葉はL・ベラックというオーストリア生まれの医者が書いた本の中にあるもので、小此木氏が翻訳して紹介した考え方であった。
 以下、おおよそ次のようなことが書かれていたと記憶している。
 二匹のヤマアラシがいた。ヤマアラシどうしは、お互いに寒いために身を寄せ合おうとする。しかし近づくとそれぞれのとげで相手を傷つけてしまう。急いで離れるのだが、離れればまた寒い。なのでまた近づくので再びけがをする。何度かそのようなことを繰り返しているうちに、やがてヤマアラシは、互いに傷つけ合うことなく、しかも程よく近づいた”距離感”を知る。これは夫婦間においても当てはまることだ。更に友人との関係において、知人との関係で、社会人として、そして人間どうし全ての関係に、当てはまるのだ。
 このような話の中には社会人として持つべき距離感や、たとえ親しい夫婦や親子であっても(だからこそ)知らぬ間に傷つけ合っていること、そして”自分だけの尺度”で距離感を決めてしまってはいけない、という大切なエッセンスが含まれている。
 人と人との間には、何かが要る。それはなんだろう・・・。
 相手の気持ちを思いやる心、自分自身を時に抑える勇気と意志、言っていい言葉といけない言葉・・・。それらはきっと年齢の上下に関係なく、知人なのか親子なのかでもなく、”人間”という最小限の枠組みの中で、守られるべきルールなのではないだろうか。そしてきっと、それはとても大切なルールにちがいないのである。