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★41
第41回 なぜ「教育」しても部下が成長しないのか(その4)
     − 「成長の場」が生まれるとき
 
┌────────────────────────────────────┐
 マネジャーが為すべきこと、そして、為し得ることは、
 その時代の環境に合った人材が自然に育つための条件を整えることです。
 言葉を換えれば、人材の成長を支援することが、マネジャーに求められるのです。
 
 では、マネジャーは、
 部下が自然に育つために、何を為すべきでしょうか。
 部下の成長を支えるために、何を為すべきでしょうか。
 そのためにマネジャーが為すべきことが、三つあります。
 
 第一は、「成長の方法」を伝えること
 第二は、「成長の目標」を持たせることでした。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「成長の場」ということ
 
 では、マネジャーが部下の成長を支えるために為すべき第三は、何でしょうか。
 
 それは、「成長の場」を創ることです。
 
 では、「成長の場」とは何か。
 これも、ビジネス書や経営書において、
 ビジネスマンが成長する場を生み出すための条件として、
 様々なことが述べられています。
 そのうち、特に多いのが、
 「自由競争原理」や「自己責任原則」
 そして「実力主義評価」や「実績主義評価」が実現された場を
 創る必要があるとの意見です。
 たしかに、ビジネスマンが成長し、
 真のプロフェッショナルが生まれてくるためには、
 こうした「制度」という条件は、決して無視することはできません。
 
 また、「切磋琢磨の場」を生み出すことが必要だ
 との意見も多くあります。
 たしかに、組織のメンバー全員が、
 互いの技量について率直なコメントを交わし、
 互いに「切磋琢磨」をする雰囲気のある職場は、
 ビジネスマンが成長する場であると言えるでしょう。
 これは「文化」という条件と言えるかもしれません。
 
 しかし、「成長の場」ということを考えるとき、
 マネジャーが絶対に忘れてはならない条件があるのです。
 
 それは、「空気」という条件です。
 
 組織には、「メンバーを成長させる空気」というものがあるのです。
 そして、我々マネジャーが、部下の成長を支えたいと願うならば、
 職場に、その「空気」を生み出すことができるかが問われるのです。
 では、その「空気」とは、どのようにすれば生まれるのでしょうか。
 その方法は、たった一つしかありません。
 
 マネジャー自身が、成長すること。
 マネジャー自身が、成長し続けること。
 マネジャー自身が、成長したいと願い続けること。
 
 そのことしかありません。
 
 もし、組織の中心に立つ人間が、
 メンバーの誰よりも強い「成長への意欲」を持っているならば、
 その組織には、黙っていても「メンバーを成長させる空気」が生まれてきます。
 
 そして、そこにこそ、最高の「成長の場」が生まれてくるのです。
 
 ■ 悪戦苦闘する姿が伝えるもの
 
 そのことを理解するならば、
 マネジャーは、「部下が育たない」と嘆く前に、
 「自分が成長しているか」をこそ問わなければなりません。
 そして、もし、我々マネジャーが成長し続けているならば、
 そこには必ず、メンバーを成長させる「空気」が生まれてきます。
 そして、その「空気」こそが「成長の場」が生まれるための、
 最も大切な条件なのです。
 
 しかし、そのためには、マネジャーは、
 自らの「成長の目標」を誰よりも明確に抱いていなければなりません。
 そして、その目標を「夢」として部下に語らなければなりません。
 
 マネジャーが部下を前にして無邪気に語る「夢」というものが、
 若木に注ぐ太陽の光のように、その成長を促すときがあります。
 そのことの大切さを、我々マネジャーは、知る必要があるでしょう。
 
 それゆえ、マネジャーに求められるものは、
 一人の上司として部下に「何を教えるか」ではありません。
 マネジャーに求められるものは、
 一人のビジネスマンとして自分が「何を学ぼうとしているか」です。
 
 部下は、その姿をこそ、見ているのです。
 
 だから、マネジャーは、
 何かを学ぼうと悪戦苦闘する自分自身の姿を通じて、
 「こころの姿勢」の大切さを、部下に伝えなければならないのです。
 
 もとより、我々マネジャーもまた、未熟な一人の人間です。
 その未熟な人間が、部下に対して
 「こころの姿勢」を教えられるかとの迷いは、あります。
 
 しかし、「こころの姿勢」とは、「終わりなき道」です。
 
 いかに優れたマネジャーといえども、
 「それを身につけた」との資格において、
 それを部下に語るべきものではありません。
 そうではありません。
 「それを身につけたい」との祈りを込めて、
 それを部下に伝えるべきものなのでしょう。
 
 そして、もし、我々マネジャーが、
 自分の未熟さを知ったうえで、
 その未熟な自分をいつの日か部下が超えてくれることを祈りつつ、
 それを部下に語るならば、
 その祈りは、必ず伝わるのではないでしょうか。
 
 
 
★42
第42回 なぜ「優秀な上司」の下で部下が育たないのか(その1)
     − 部下の成長を妨げる「無意識」
 
 ■ 部下が育たない優秀な上司
 
 皆さんは、企業において、
 不思議な「逆説」を目にすることはないでしょうか。
 
 「優秀な上司の下で、部下が育たない」
 という逆説です。
 
 例えば、衆目の認める優秀なビジネスマンがいます。
 若手社員の頃から力を発揮し、早くから社内でも目立つ存在でした。
 当然のことながら、同期のなかでも真っ先にマネジャーに昇格。
 マネジャーとしても、仕事の切れ味は良く、
 経営幹部からの評価は相変わらず高い。
 そして、部下は彼の指示のもと、
 組織だって良く動き、良い業績を出している。
 しかし、なぜか、
 彼の次を襲うような優秀な部下が育っていないのです。
 
 こうした
 「優秀なマネジャーの下で、なぜか部下が育たない」
 という不思議な現象は、
 企業において、しばしば生じます。
 では、どうして、このようなことが生じるのでしょうか。
 それには、次の三つの理由のいずれかが考えられます。
 
 第一の理由は、
 このマネジャーが「名監督ならず」だからです。
 
 「名選手、名監督ならず」という言葉は、しばしば使われる言葉です。
 ある分野で一流のプロフェッショナルであった人物が、
 次世代の一流のプロフェッショナルを育てることについて、
 必ずしも優れているとは限らないのです。
 なぜならば、
 一流のプロフェッショナルのスキルやノウハウというものは、
 分野を問わず極めて深い暗黙知であり、
 その暗黙知を
 「自分自身が体得する能力」と
 「他人に体得させる能力」とは、
 実は似て非なる能力だからです。
 
 例えば、第26回において述べたスキーの熟練コーチの言葉、
 「斜面を怖がらず、思い切って斜面に飛び込め」とのアドバイスは、
 暗黙知を他人に体得させるための優れた能力を象徴しています。
 この熟練コーチの能力は、
 個別の技術をマニュアル的に教えるだけの若手コーチの能力に比べれば、
 格段に優れた能力です。
 しかし、いずれのコーチも、
 そのスキー技術は見事な領域に達しており、
 暗黙知を自分自身が体得することにおいては、
 どちらも優れた能力を持っているのです。
 
 これと同様に、ビジネスの世界においても、
 一流のビジネスマンが、必ずしも一流の教育者ではないということは、
 往々にして生じることなのです。
 
 
 
★43
 第43回 なぜ「優秀な上司」の下で部下が育たないのか(その2)
     − 部下の成長を妨げる「無意識」
 
┌────────────────────────────────────┐
 企業においては、しばしば
 「優秀なマネジャーの下で、なぜか部下が育たない」
 という不思議な現象が生じます。
 では、どうして、このようなことが生じるのでしょうか。
 
 第一の理由は、このマネジャーが「名監督ならず」だからです。
 ある分野で一流のプロフェッショナルであった人物が、
 次世代の一流のプロフェッショナルを育てることについて、
 必ずしも優れているとは限らないのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 第二の理由は、妙な言い方になりますが、
 このマネジャーが「優秀すぎる」からです。
 
 このマネジャーがあまりにも優秀すぎる場合には、
 特に、人間的にも尊敬される人物である場合には、
 かえって部下は育たないのです。
 
 なぜならば、部下の心理の中に
 強い「依存心」が生まれてしまうからです。
 
 しばしば、人格的にも優れたマネジャーの下にいる部下が、
 そのマネジャーを尊敬するあまり、
 「あの人には絶対にかなわない」などとつぶやくときがあります。
 こうした発言は、その部下の謙虚さの表れでもあり、
 また、そのマネジャーに対する尊敬の念の表れでもあるのですが、
 そのこころの深くに本人も気がつかぬ形で
 「この人についてゆけば」との依存心理を形成してしまっているのです。
 
 それは、臨床心理学で言えば「転移」と呼ばれる心理状態であり、
 宗教心理学で言えば「権威」に依存している心理状態でもあります。
 そして、残念ながら、
 こうした依存心理を抱いている人材の中からは、
 真のリーダーシップを発揮する
 新しい世代の優れたマネジャーは生まれてこないのです。
 
 なぜならば、これらの人々は、そのこころの深くで、
 「優秀なマネジャー」になることよりも、
 「優秀なマネジャーの部下」であることを望んでいるからです。
 
 かつて、社会心理学者エーリッヒ・フロムが、
 その著書『自由からの逃走』の中で、
 ファシズムがなぜ成立したかを論じています。
 この著書の中で、フロムは、
 ファシズムが成立した原因は、
 ファシズムの側にあるのではなく、
 大衆の側にあったことを指摘したのです。
 すなわち、あの時代には、
 多くの人々のこころの中に
 「自由にともなう責任から逃れたい」との深層心理があり、
 それが「強力なリーダーシップ」を求める大衆心理を生み出していったのです。
 
 そして、こうしたフロムの洞察は、
 現代の企業社会においても、決して無縁のことではありません。
 実は、優秀すぎるマネジャーの下では、
 次の世代の優れたマネジャーが育たないという逆説は、
 一つには、こうした心理的基盤によって生じるのです。
 すなわち、
 「自由にともなう責任から逃れたい」というメンバーの無意識が、
 「優秀なマネジャー」になることよりも、
 「優秀なマネジャーの部下」であることを望ませるのです。
 
 すなわち、彼らは、無意識に
 「自立」を求めず、
 「依存」を求めてしまうのです。
 
 しかし、いかなる場合にも、
 新しい世代のリーダーは、
 旧い世代のリーダーとの心理的葛藤を経ることによってしか生まれてきません。
 だが、それは決して
 「猿山の猿」のごときリーダー間の争いを意味しているわけではありません。
 それは、心理学的な意味における「対決」を、
 それも痛苦な「対決」を経なければ生まれてこないということを
 意味しているのです。
 
 それは、あたかも子供が親から自立していくプロセスに似ています。
 子供が闘っているのは、
 実は「親」と闘っているのではありません。
 自分のこころの中にある「親への依存心」と闘っているのです。
 
 そして、それは、企業のマネジメントにおける、
 次世代のマネジャーの自立のプロセスにおいても同様でしょう。
 
 それゆえ、こうした人間のこころの機微は、
 我々マネジャーが、深く理解しておかなければならないことなのです。
 
 ■ 部下を殺す無意識
 
 第三の理由は、
 このマネジャーが「部下の成長」を望んでいないからです。
 
 こう言うと奇異に感じられるかもしれませんが、
 このマネジャーは、その表面的な部下育成への情熱とは裏腹に、
 部下の成長を本当には望んでいないのです。
 
 しかし、それは当のマネジャー自身も気がついていない、
 彼のこころの深くに存在している無意識の世界に他なりません。
 
 不思議なことに、
 優秀なマネジャーの下で部下が成長しない原因を深く探っていくと、
 そのマネジャーの無意識の世界に突き当たるときがあります。
 すなわち、このマネジャーは、無意識の世界において、
 部下が成長して自分自身が「凌駕」されることを恐れているのです。
 そのため、こころの深くでは、
 優秀な部下を「ライバル」にしてしまっているのです。
 言葉を換えれば、このマネジャーは、
 部下に対して自分の「優秀な部下」であることは望んでいますが、
 自分を凌駕するような「優秀なマネジャー」になることを望んでいないのです。
 
 そして、こうしたマネジャーのこころの深くにある無意識の世界は、
 本人も気がつかない形で部下を抑圧し、
 目に見えない形で部下を殺してしまいます。
 
 なぜならば、マネジャーのこころの深くに、
 部下の成長を望まない無意識が存在するだけで、
 そのことを部下の無意識もまた感じ取ってしまうからです。
 それは、部下のこころの深くで、
 やはり無意識の自己規制を生み出すため、
 結果として彼の成長は妨げられてしまうのです。
 
 企業組織の中に生まれる「こころの生態系」とは、
 こうした表層意識と深層意識が織り成す複雑な様相を示すのであり、
 隠れたこころの動きにも極めて敏感に影響を受ける
 繊細さを持っているのです。
 
 そのことを、我々マネジャーは、理解しておかなければなりません。
 
 
★44
第44回 なぜ「優秀な上司」の下で部下が育たないのか(その3)
     − 部下の成長を妨げる「無意識」
 
┌────────────────────────────────────┐
 企業においては、しばしば
 「優秀なマネジャーの下で、なぜか部下が育たない」
 という不思議な現象が生じます。
 では、どうして、このようなことが生じるのでしょうか。
 
 第一の理由は、このマネジャーが「名監督ならず」だからです。
 第二の理由は、このマネジャーが「優秀すぎる」からです。
 第三の理由は、このマネジャーが「部下の成長」を望んでいないからです。
 
 マネジャーのこころの深くにある無意識の世界は、
 本人も気がつかない形で部下を抑圧し、
 目に見えない形で部下を殺してしまうのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「エゴ」に光を当てること
 
 では、どうすればよいのでしょうか。
 もし自分が、この「部下を殺してしまうマネジャー」であったならば、
 どうすればよいのでしょうか。
 おそらく、方法は一つしかありません。
 
 自分のこころの深くにある「エゴ」を見つめることです。
 他人より劣っている自分を認めたくない「劣等感」や、
 他人によって自分が傷つけられることを恐れる「恐怖感」を見つめることです。
 
 もし、それらを静かに見つめることができるならば、
 何かが救われるでしょう。
 すでに述べたように、人間の「エゴ」を消し去ることはできません。
 こころの中の劣等感や恐怖感は、
 それらを拭い去ろうとしたり、それらを抑圧しても、
 しばらくは表層から沈んで消え去るのですが、
 必ず、こころの深層でさらに大きくなって自らに報復してくるのです。
 
 それゆえ、我々が為すべきことは、
 無理に「エゴ」を消し去ろうとするのではなく、
 ただ静かに「エゴ」を見つめることなのです。
 
 例えば、部下の言動に苛立ちを感じる瞬間があるとします。
 その瞬間に、その苛立ちの感情に流される前に、
 「なぜ、自分はこれほど苛立ちを感じているのか」
 を静かに問うてみればよいでしょう。
 そこには、部下の言動によって刺激された自身の劣等感や恐怖感、
 すなわち自分の「エゴ」のうごめきがあるかもしれません。
 そして、もし、そうしたことに気づくならば、
 それに気づいているだけで救われる世界があるのです。
 そのことは、確かな真実です。
 
 自分の「エゴ」が見えているだけで、
 救われる世界があるのです。
 
 そして、不思議なことに、
 無意識の中にある劣等感や恐怖感は、
 それを意識の世界に浮かび上がらせ、静かに光を当てるだけで、
 その力を弱めていくのです。
 
 最も高度なマネジメントにおいて、マネジャーは、
 こうした自身の「エゴ」の問題と
 直面しなければならないときを迎えます。
 そして、マネジャーは、
 自らのこころの深くにある劣等感や恐怖感を、
 静かに見つめなければならないときを迎えるのです。
 
 ■ 「セラピー」としてのマネジメント
 
 ここにおいて、ようやく我々は、
 マネジメントにおける最も深いテーマにたどり着くのです。
 
 我々は、「部下の成長」ということを考えるとき、
 部下と自分自身の中にある
 「劣等感」や「恐怖感」を見つめなければならなくなるからです。
 もとより、「部下の成長」とは「人間の成長」に他ならず、
 「人間の成長」とは「こころの成長」に他なりません。
 そして、「こころの成長」にとっての最も大きな課題の一つが、
 自分の中にある「劣等感」や「恐怖感」を
 乗り越えることができているかという課題なのです。
 
 しばしば
 「本来持っている力を発揮できていない」
 「力が萎縮してしまってうまく出てこない」
 などと評される人材がいます。
 こうした人材にとっての課題は、
 個別の技術であったり、個別の知識であるわけではありません。
 彼にとっての真の課題は、
 力の発揮を妨げている心理的問題を
 いかにして解決することができるかなのです。
 そして、その心理的課題の多くが、
 こころの深くにある「劣等感」や「恐怖感」の問題なのです。
 
 現代の企業において「部下の成長」を考えるとき、
 実は、こうした心理的問題によって力の発揮が妨げられている事例は、
 極めて多いのです。
 それゆえ、これからの時代の企業において、
 マネジャーに求められる役割は、
 メンバーの抱えているこうした心理的問題を解決することであり、
 そのことを通じて、
 メンバーの「こころの成長」を支えることに他ならないのです。
 
 それは、おそらく、マネジメントの役割が、
 これまでの役割から大きく脱皮し、
 「セラピー」としてのマネジメントへと
 進化を遂げていくことを意味しているのでしょう。
 
 しかし、もし、これからのマネジメントの役割が、
 「セラピー」としてのマネジメントへと進化し、
 部下の「こころの成長」を支える役割になっていくのであるならば、
 我々マネジャーは、大切なことを理解しておかなければなりません。
 
 自ら成長の道を歩む者だけが、
 他者の成長を支えることができる。
 
 その真実です。
 
 
 そして、その真実を理解するならば、
 我々マネジャーは、最後に、深く問わなければなりません。
 
 
 我々は、自らのこころの成長の道を歩んでいるだろうか。
 
 
 その問いを、深く問わなければなりません。
 
 
★45
第45回 なぜマネジメントは「アート」になっていくのか(その1)
     − 「こころの生態系」のマネジメント
 
 ■ マネジメントという世界の深み
 
 マネジメントとは、これまで一般に論じられてきたよりも、
 よほど深い世界なのではないか。
 
 私は、未熟な一人のマネジャーとして、
 そんな思いを抱きながらマネジメントに携わってきました。
 そして、経営の現場で、日々悪戦苦闘を続ければ続けるほど、
 その思いはますます強くなるばかりです。
 そんな思いから、マネジメントというものの
 「深み」の世界を語ってみたいと考え、
 この連続講義を行いました。
 
 しかし、私の未熟な力量で、
 そのマネジメントの「深み」を語り得たとは思いません。
 
 世を見渡せば、若輩の私など、
 恥じて仰ぎ見るほどの高きに達している経営者がいます。
 また、浅学の私など、
 ただ黙して耳を傾けるべき深みをもって経営を語る識者もいます。
 
 もとより、決してその数は多くはないのですが、
 そうした優れた方々は、たしかにいます。
 しかし、残念ながら、優れた経営者の方々は、
 自らに課せられた「使命」とでも呼ぶべき仕事に専念するあまり、
 そのマネジメントの高みを言葉にして語ろうとはしませんでした。
 
 また、優れた識者の方々は、
 その経営の思想がしばしば東洋思想の神髄にいたるものであるため、
 その思想の深みを分かりやすい言葉で語ろうとはしませんでした。
 しかし、これらの経営者の方々が言葉によって語ることをしなかった理由、
 識者の方々が誰にも理解できる言葉で語ることをしなかった理由は、
 実は、さらに深いところにあります。
 
 それは、これらの経営者や識者の方々が身につけている智恵は、
 言葉によって表すことができない「暗黙知」だからです。
 そのため、これらの方々は、
 その深い智恵を、
 誰にも理解できる言葉にして表すことができなかったのです。
 
 たしかに、その通りなのです。
 「暗黙知」というものを言葉によって表すことはできません。
 
 しかし、実は、「暗黙知」には、
 古くから、それを伝達するための方法が存在したのです。
 
 ■ 暗黙知を伝達する「三つの方法」
 
 例えば、東洋思想の一つの極点でもあり、
 我が国が誇るべき「禅」の世界において、
 大切な精神が語られています。
 
 「不立文字(ふりゅうもんじ)」という精神です。
 
 これは、
 「文字を用いるな」「言葉で語るな」との教えであり、
 禅の世界における智恵というものが、
 書物などで伝えられるものではない、
 極めて高度な「暗黙知」であることを述べたものです。
 
 しかし一方、不思議なことに、
 この禅の世界ほど様々な書物が溢れている世界も他に類を見ないのです。
 例えば、道元の著した『正法眼蔵』などは、
 我が国でも有数の膨大な著作です。
 
 では、なぜ、こうした「矛盾」が生じるのでしょうか。
 そのことの理由は、
 この連続講義のなかで、すでに話しましたので、
 敢えて繰り返すことはしません。
 しかし、いずれにしても、禅の世界は、
 こうした様々な教えや書物や修業によって、
 「暗黙知」を伝えるための方法を生み出してきたのです。
 
 私は、その方法について、
 『生命論パラダイムの時代』(ダイヤモンド社)
 という本においても述べていますが、
 ここでは、その要点だけを述べておきましょう。
 
 そもそも、言葉によって表すことのできない「暗黙知」を伝えるには、
 古来、三つの方法しかないと言われています。
 「否定法」「隠喩法」「指示法」の三つの方法です。
 
 では、この三つの方法とは、どのような方法なのでしょうか。
 
 ■ 禅の公案と「否定法」
 
 まず第一の「否定法」とは、
 言語を否定することにより暗黙知を伝達する方法です。
 
 これは、要するに、第二講において述べた、
 科学哲学者ヴィトゲンシュタインの次の言葉に象徴される方法です。
 
 「我々は、言葉にて語り得るものを語り尽くしたとき、
  言葉にて語り得ぬものを知ることがあるだろう」
 
 すなわち、この「否定法」とは、
 言葉では表し得ないものを言葉で表すための極限の努力を行い、
 これを次々と否定することにより、暗黙知を伝達する方法です。
 
 例えば、禅の世界においては「公案」という方法が、
 この否定法の代表です。
 良く知られる有名な公案に、
 「如何なるかな、これ隻手の声」
 というものがあります。
 
 「片手の人間が拍手をした。さて、その音はどのようなものか」
 といった意味の、矛盾に満ちた質問です。
 禅においては師が弟子に対して、
 こうした「論理」や「言葉」を超えた世界を突きつけ、
 それに対する弟子の答えを次々と否定することによって、
 「言葉」にならない暗黙知を掴ませようとするのです。
 
 これをマネジメントの世界における方法として述べるならば、
 容易に答えの出ない「問題」を突きつけ、
 経営における深い「矛盾」を突きつけることによって、
 暗黙知を伝達する方法と言えるでしょう。
 
 昔から、優れた経営者の語る言葉が、
 「あの人の言葉は、禅問答のようで難しい」
 と言われたり、
 「あの人の言っていることは、矛盾だらけだ」
 と言われたりする一つの理由は、
 まさに、そこにあります。
 
 
★46
第46回 なぜマネジメントは「アート」になっていくのか(その2)
     − 「こころの生態系」のマネジメント
 
┌────────────────────────────────────┐
 優れた経営者や識者の方々が身につけている智恵は、
 言葉によって表すことができない「暗黙知」です。
 
 この「暗黙知」を伝えるには、
 古来、三つの方法しかないと言われています。
 「否定法」「隠喩法」「指示法」の三つの方法です。
 
 前回は、第一の「否定法」について語りました。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 禅の十牛図と「隠喩法」
 
 さて、第二の「隠喩法」とは、
 含蓄のある隠喩を語ることによって、
 想像力を喚起し、暗黙知を伝達する方法です。
 
 禅の世界においては、
 例えば「十牛図」という方法が、この隠喩法の代表です。
 
 これは、「悟り」を得るまでのプロセスを
 「逃げた牛を探しに出かけ、連れて帰るまでの十の段階」
 という隠喩として示した水墨画のような十枚の絵であり、
 想像力を喚起する「物語」として語られるものです。
 
 そして、これらの図の最後に示される
 「探していた牛そのものが消えてしまう」
 という隠喩が、
 禅における大切な暗黙知を伝えているのです。
 
 また、例えば、山岡鉄舟の歌、
 「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、
  もとの姿はかわらざりけり」にも、
 こうした隠喩法による暗黙知の伝達が意図されています。
 言うまでもなく、この歌は富士の景色を歌ったものではなく、
 人生における大切な真実を伝えようとしたものです。
 
 従って、これをマネジメントの世界における方法として述べるならば、
 聞く人々の想像力を刺激し、
 様々な解釈の可能性を持つ「物語」を語ることにより、
 暗黙知を伝達する方法と言えるでしょう。
 例えば、経営者やマネジャーが部下に対して語るビジョンとは、
 本来、そうした「隠喩」に富んだ「物語」であるべきでしょう。
 そうした意味では、
 「論理的思考」を重視するビジネススクールにおいてさえも、
 優れたケーススタディは、
 やはり「隠喩」に富んだ豊かな「物語性」を持っています。
 
 ■ 禅の只管打坐と「指示法」
 
 そして、第三の「指示法」とは、
 暗黙知の「内容」そのものを直接伝えようとせず、
 どのような「体験」をすればその暗黙知を獲得することができるかを教え、
 その「体験の方法」を指示することによって、
 暗黙知を伝達する方法です。
 
 禅の世界においては、例えば
 「只管打坐」(ただ座禅せよ)
 ということが言われますが、
 この道元の教えなどは、指示法の代表です。
 ただひたすら座禅に徹することによって、
 黙っていても「大切な何か」を掴み取ることができるという教えです。
 
 これをマネジメントの世界における方法として述べるならば、
 「どのようなビジネスの現場において、
  いかなる心構えで仕事を体験すれば、
  大切なことを掴むことができるか」
 を教えることにより、
 暗黙知を伝達する方法と言えるでしょう。
 
 しばしば企業の現場において、
 「仕事は体で覚えろ」
 「営業の呼吸をつかめ」などの言葉が飛び交う理由は、
 まさにそこにあります。
 
 ■ 暗黙知を伝える書物とは何か
 
 このように、言葉や論理によって表すことができない
 暗黙知を伝えるには、
 古くから、これら三つの方法を用いるべきであるとされています。
 「否定法」「隠喩法」「指示法」という三つの方法です。
 
 従って、もし我々が、書物というものを通じて、
 何らかの暗黙知を読者に伝えたいと思うならば、
 この三つの方法を自覚して書物を著す必要があります。
 そして、そうした目でビジネス書や経営書の世界を眺めるならば、
 暗黙知の世界を、
 その深みや機微を失わずに伝えることに成功している書物は、
 その大半が、意識的と無意識的を問わず、
 この三つの方法のいずれかを用いていることに気がつきます。
 
 例えば、皆さんは、マネジメントにおける問題に直面し、
 その解決の糸口を真剣に書物に求めたとき、
 次のような疑問に突き当たらなかったでしょうか。
 
 なぜ、「問題」を解決するための安易な「解答」を述べた本よりも、
 むしろ、読者にさらに深い「矛盾」を突きつけ、
 さらに難しい「問題」を突きつけてくる書に、
 学ぶべきものが多いのか。
 
 なぜ、「問題」を解明するための安直な「理論」を述べた本よりも、
 むしろ、読者の想像力を喚起する豊かな「物語」を述べた書に、
 学ぶべきものが多いのか。
 
 なぜ、「問題」を解釈するための雑多な「知識」を述べた本よりも、
 むしろ、読者が智恵を身につけるための
 「体験」や「体験の方法」を伝えようとする書に、
 学ぶべきものが多いのか。
 
 ひとたびマネジメントについての深い問いを抱き、
 その答えを真剣に書物に求めたとき、
 我々は、必ず、
 このような疑問を抱くことになるのではないでしょうか。
 
 いま、街角の書店にはビジネス書や経営書が溢れています。
 そして、様々な時代のキーワードとともに、
 次々とブームがやってきます。
 しかし、こうして繰り返しやってくるブームに乗せられて、
 それらの本を読んでも、
 必ずしも深い智恵は身につかず、
 真にマネジメントの役には立ちません。
 
 なぜならば、真にマネジメントの役に立つ書物とは、
 我々に、深い「矛盾」を突きつける書であり、
 豊かな「物語」を語る書であり、
 「体験」の方法を教える書に他ならないからです。
 そして、そうしたことを通じて、
 我々に、深い暗黙知を伝えてくれる書物だからです。
 
 
★47
第47回 なぜマネジメントは「アート」になっていくのか(その3)
     − 「こころの生態系」のマネジメント
 
┌────────────────────────────────────┐
 いま、街角の書店にはビジネス書や経営書が溢れています。
 そして、様々な時代のキーワードとともに、
 次々とブームがやってきます。
 しかし、こうして繰り返しやってくるブームに乗せられて、
 それらの本を読んでも、
 必ずしも深い智恵は身につかず、
 真にマネジメントの役には立ちません。
 
 なぜならば、真にマネジメントの役に立つ書物とは、
 我々に、深い「矛盾」を突きつける書であり、
 豊かな「物語」を語る書であり、
 「体験」の方法を教える書に他ならないからです。
 そして、そうしたことを通じて、
 我々に、深い暗黙知を伝えてくれる書物だからです。
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 ■ 情報化時代に求められる暗黙知
 
 この連続講義の背景には、
 「暗黙知を伝える方法」というものに対する、
 こうした考えがあります。
 しかし、この拙い講義が、そうした意味において、
 マネジメントにおける暗黙知の世界を伝えるものとなっているか否かは、
 何よりも、皆さんの厳しい批判に委ねるべきでしょう。
 もし、この講義によって、
 皆さんが、この暗黙知の世界の深みの一端を理解され、
 それによって、マネジメントにおいて直面する様々な壁について、
 それを乗り越えていくための示唆が得られるならば、
 この講義の目的は達しています。
 
 さて、この連続講義を聞かれて、
 皆さんの多くが、
 暗黙知というものと東洋思想の結びつきについて、
 認識を新たにされたのではないでしょうか。
 たしかに、直観力、洞察力、大局観、
 中庸、中道、空気、こころの姿勢、などの言葉は、
 まさに東洋思想と深く結びついているものです。
 
 しかし、不思議なことに、
 これら東洋思想と深く結びつく暗黙知は、
 西洋科学の発達によって到来した情報化時代において、
 実は、ますます重要になっていくのです。
 その理由は、すでに述べました。
 
 情報革命によって、
 企業や市場や社会が「複雑系」としての性質を強めていくからです。
 
 「自己組織化」の研究でノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンが、
 次のような洞察を述べています。
 
 「システムにおいて情報が共有されると、
  情報の共鳴が起こりやすくなり、
  自己組織化が生じやすくなる」
 
 すなわち、このプリゴジンの洞察にもとづくならば、
 情報革命によって、企業や市場や社会は、
 それらの内部での情報共有が進み、
 情報共鳴が起こりやすくなり、
 創発性や自己組織性を強めていきます。
 言葉を換えれば、情報革命によって、
 企業や市場や社会は、「複雑系」としての性質を強め、
 まさに「生きたシステム」としての性質を示すようになっていくのです。
 そして、このような「生きたシステム」としての「複雑系」に処するためには、
 我々に、何よりも「暗黙知」と呼ぶべき深い智恵が求められるのです。
 
 ■ 複雑系の七つの性質と七つの知
 
 では、「生きたシステム」としての「複雑系」は、
 いかなる性質を示すのでしょうか。
 それは、次の「七つの性質」です。
 
 (1) 分析によって理解することができない    / 分析不能性
 (2) 人為的に管理することができない      / 管理不能性
 (3) 情報に極めて敏感である          / 情報敏感性
 (4) 小さな変化が大きな変動をもたらす     / 摂動敏感性
 (5) 一部分だけを独立して変えることができない / 分割不能性
 (6) 法則そのものが変わってしまう       / 法則無効性
 (7) 未来の挙動を予測することができない    / 予測不能性
 
 そして、情報化時代の企業や市場や社会は、
 いずれもこうした「複雑系」としての性質を強めていくため、
 それらに対処するためには、
 「複雑系の知」とでも呼ぶべき深い智恵が求められるのです。
 
 この「複雑系の知」については、
 私の著書『複雑系の経営』(東洋経済新報社)や
 『複雑系の知』(講談社)において詳しく述べたので、
 興味のある方々は、それを参照して頂きたいと思いますが、
 その要点を述べるならば、
 次の短いメッセージに表される「七つの知」です。
 
 (1) 個別の分析をするな、全体を洞察せよ      / 全体性の知
 (2) 設計・管理をするな、自己組織化を促せ     / 創発性の知
 (3) 情報共有ではない、情報共鳴を生み出せ     / 共鳴場の知
 (4) 組織の総合力ではない、個人の共鳴力を発揮せよ / 共鳴力の知
 (5) 部分治療ではない、全体治癒を実現せよ     / 共進化の知
 (6) 法則は不変ではない、法則を変えよ       / 超進化の知
 (7) 未来を予測するな、未来を創造せよ       / 一回性の知
 
 そして、これら「複雑系の知」とは、
 いずれも、言葉によっては表すことができない「暗黙知」であり、
 五感の全体によってしか掴み取れない「身体知」であり、
 体験を通じてしか身につけることができない「体験知」なのです。
 
 
★48
第48回 なぜマネジメントは「アート」になっていくのか(その4)
     − 「こころの生態系」のマネジメント
 
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 情報革命によって、企業や市場や社会は、
 それらの内部での情報共有が進み、
 情報共鳴が起こりやすくなり、
 創発性や自己組織性を強めていきます。
 
 言葉を換えれば、情報革命によって、
 企業や市場や社会は、「複雑系」としての性質を強め、
 まさに「生きたシステム」としての性質を示すようになっていくのです。
 そして、このような「生きたシステム」としての「複雑系」に処するためには、
 我々に、何よりも「暗黙知」と呼ぶべき深い智恵が求められるのです。
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 ■ 「こころの生態系」のマネジメント
 
 このように、これからの情報化時代においては、
 企業や市場や社会が「複雑系」としての性質を強めていくため、
 マネジメントにおいては、
 「複雑系の知」とでも呼ぶべき深い暗黙知が、
 ますます求められるようになっていきます。
 しかし、これからの企業において、
 マネジャーに深い暗黙知が求められるようになる最も大きな理由は、
 企業の中に、極めて高度な複雑系が出現してくるからです。
 では、その「極めて高度な複雑系」とは何でしょうか。
 
 「こころの生態系」です。
 
 人間の「こころ」が集まる場所に生まれてくる「こころの生態系」。
 そういう意味では、昔から、
 企業というものは、「こころ」を持った人間が集まった場所であり、
 ある種の「こころの生態系」であると言えます。
 しかし、情報化時代の企業においては、
 この「こころの生態系」の性質が大きく変わっていくのです。
 なぜでしょうか。
 
 情報化によって「コミュニケーション」が豊かになるからです。
 
 例えば、いま、多くの職場に一人一台パソコンが導入され、
 職場のメンバーの多くは電子メールを使い、
 社内外でのコミュニケーションを活発に行っています。
 もとより、それは、
 業務の効率化や合理化ということを目的としたものではあったのですが、
 一方で、それは、
 職場のメンバーのコミュニケーションを、
 豊かで、細やかな、そして、深みあるものにしているのです。
 
 例えば、業務連絡のメールの追伸を使って行われる、
 何気ない気配りのメッセージ。
 業務報告に対する返信メールで伝えられる、
 心のこもった感謝のメッセージ。
 
 同じ職場でありながら、
 これまでは話をすることのなかったメンバーとの、メッセージの交換。
 忙しいなかでもかけられる、メールの一声。
 これまでは会議で同席することさえなかった、
 社内他部門のメンバーとのメーリング・リストを使ったディスカッション。
 そのディスカッションを通じて伝わるメンバーの人柄。
 緊張や摩擦を生み出しながらも少しづつ深まっていく相手への理解。
 会社の外の空気を送り込んでくれる、社外メンバーからのメール。
 互いに智恵を借りあう社外のメーリング・リスト。
 タウン・ウォッチングにも劣らぬほど新しい発見のある、ウェブサイトめぐり。
 色々な人々や考えと巡り会える、ネット・コミュニティ。
 
 いま、こうした形で、企業情報化が、
 職場のメンバーのコミュニケーションを、
 大きく変えようとしています。
 それは、これまでの企業の職場における、
 飲み会やパーティ、
 運動会や親睦旅行といったコミュニケーションの限界を超え、
 新たなコミュニケーションの文化とスタイルを生み出しつつあるとも言えます。
 
 そして、こうした形で、
 職場のメンバーのコミュニケーションが変わっていくにつれ、
 その職場の「こころの生態系」もまた、
 豊かで、細やかな、深みあるものへと変わっていくのです。
 しかし、そのことは、もう一つ大切なことを意味しています。
 
 それは、マネジメントにも、
 豊かで、細やかな、深みあるスタイルを求めるのです。
 
 そのことを、我々マネジャーは、理解しておかなければなりません。
 
 ■ 「アート」へと進化するマネジメント
 
 なぜなら、我々マネジャーが、
 この職場の「こころの生態系」にどのように処するかによって、
 その職場の雰囲気も、空気も、文化も、
 敏感に変化するからです。
 そして、その「こころの生態系」の状態が、
 その職場のメンバーの協働性や創造性に、
 大きな影響を与えてしまうのです。
 
 すなわち、これからの情報化時代において、
 我々マネジャーは、
 企業や市場という「高度な複雑系」に処する智恵とともに、
 職場の「こころの生態系」という「極めて高度な複雑系」に処するための智恵を、
 身につけなければならないのです。
 そして、その智恵とは、本講義で述べた、
 豊かで、細やかな、そして深みある
 「暗黙知」に他ならないのです。
 
 それは、おそらく、
 「暗黙知のマネジメント」とでも呼ぶべき新しいマネジメント・スタイルを、
 そして、「暗黙知の経営」とでも呼ぶべき新しい経営思想を、
 我々マネジャーや経営者に求めるのでしょう。
 
 そして、もしそうであるならば、
 それは、マネジメントというものが、
 これから大きく進化していくことを意味しています。
 それは、どのような進化でしょうか。
 
 それは、
 「テクニック」(技術)から、
 「アート」(芸術)への進化です。
 
 これからの新しい時代、
 マネジメントは、
 企業を合理的に運営するための
 単なる「テクニック」ではなく、
 「生きたシステム」としての市場や企業や職場に処するための
 高度な「アート」になっていきます。
 
 そのことを、我々マネジャーは、理解しておくべきでしょう。
 
 しかし、そのことは、決して、
 マネジメントに携わる人々にとって、
 「新たな困難」がやってくることを意味しているわけではありません。
 
 それは、「素晴らしい時代」がやってくることを意味しているのです。
 
 それは、マネジメントという役割が、
 ますます「やり甲斐」のある、
 素晴らしい役割になっていくことを意味しているのです。
 
 そのことを、我々マネジャーは、深く確信すべきでしょう。
 
 そして、もし、マネジメントというものが
 「アート」へと進化していくものであるならば、
 我々マネジャーは、
 その「アート」が残す「作品」に
 思いを馳せなければなりません。
 
 その「作品」とは、一人のマネジャーが、
 深い縁あって巡り会った「部下」と名のつく人々と、
 こころを結び、力を合わせ、魂を込めて残していく
 「仕事」という名の作品に他ならないのです。
 
 
 二十一世紀、
 マネジメントは、
 人間にとって最高の「アート」になっていく。
 
 
 その予感が、
 未熟と非力を省みず、
 私に、この連続講義を行わせました。
 
 
 最後まで聴いて頂き、有難うございました。