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★31
第31回 なぜ「ベスト・チーム」が必ずしも成功しないのか(その2)
− 「設計」できない人間集団
┌────────────────────────────────────┐
専門的能力の組み合わせとしては
「理想的」で「ベスト」であるはずの組織が、実際には、うまく動かず、
その組織に「陰のリーダー」や「陰のチーム」が生まれてしまうことがあります。
なぜ、「ベスト・チーム」を編成したにもかかわらず、
「現場が動かない」という状況が生まれてしまうのでしょうか。
└────────────────────────────────────┘
■ 「人間通」のマネジャー
そのことを、もう少し深く考えてみるために、
一つのエピソードを紹介しましょう。
若手マネジャーの山本氏が上司の佐藤部長から
プロジェクト・チームの編成を指示されました。
最近、社長の決断によって発足することが決められた
全社横断的プロジェクトです。
山本マネジャーの所属する企画部と、開発部、営業部それぞれから
メンバーを一人ずつ選んでチームを編成する作業を指示されたのです。
そこで、山本マネジャーは数日間を費やして
プロジェクト・チームの候補メンバーを決め、
そのリストを佐藤部長のところに持っていきました。
しかし、その候補メンバーリストを一瞥した佐藤部長は、
即座にこう言ったのです。
「これでは、駄目だよ」
驚いた山本マネジャーは聞きました。
「どうしてですか。プロジェクト・メンバーは、
当部の石井君、開発部の上田君、そして営業部の岡田君ですよ。
いずれも、それぞれの部の若手のホープですよ」
それを聞いて、佐藤部長は、こう答えました。
「たしかに、君の言う通り、
うちの石井君も開発部の上田君も営業部の岡田君も、各部のエースだよ。
しかし、ただ優秀なメンバーを集めれば優れたプロジェクトが
できるわけではない。
開発部の上田君と営業部の岡田君、この二人が一つのプロジェクトでは、
このプロジェクトは動かないよ・・・」
このエピソードは、いったい何を物語っているのでしょうか。
■ 「ケミストリー」の暗黙知
これは、英語で言う「ケミストリー」の問題です。
人間同士の「相性」の問題と言ってもよいでしょう。
第4回において、
複雑系とは「複雑化すると新しい性質を獲得する」という特性を
持つと述べました。
また、第21回において、一人ひとりの「こころ」が示す性質と、
それらが集まって「こころの生態系」を形成するときに示す性質とは、
大きく違ったものになると述べました。
そうした意味において、人間には、
独りでいるときに示す性格と、
複数の人間が集まるときに現れる性格、
さらには、ある特定の人間と共にいるときに引き出される性格があるのです。
それゆえ、企業においては、職場のメンバー同士の「相性」や、
メンバーと職場文化との「相性」などが、しばしば問題となるのです。
この佐藤部長が瞬間的に判断したのは、
こうした人間同士の「相性」、
すなわち「ケミストリー」の問題です。
もとより、この佐藤部長は、
プロジェクト・メンバーの「能力」についても
瞬間的に判断を下しているのですが、
それについては、山本マネジャーの判断に反対しているわけではありません。
ここでは、あくまでも、
プロジェクト・メンバーの「性格」の問題、
それも「性格の相性」の問題を判断しているのです。
そして、佐藤部長がこうした判断を的確に下せるのは、
彼がいわゆる「人間通」だからです。
すなわち、彼は、どこで耳にしているのか、
当部の石井君はもとより、開発部の上田君、そして営業部の岡田君、
それぞれの「能力」や「実績」についての周囲の評価はもとより、
「性格」や「人物」についての評判もよく知っているのです。
そして、何よりも、佐藤部長は、
そうした評価や評判をもとに、人間の「適性」や「相性」を判断し、
その結果、プロジェクトや業務の遂行において
何が生じるかを「推察」することができるのです。
これは、極めて高度な人間的能力です。
たしかに、これらの佐藤部長の力のうち、
プロジェクト・メンバーの能力や実績を評価する力は、
人材技能データベースや人事評価データベースなどによっても、
ある程度代行することはできます。
しかし、メンバーの性格や人物を理解する力や、
仕事への適性やメンバーの相性を判断する力は、
こうしたデータベースによっては決して代行できない
極めて高度な人間的能力であり、
「人間通」の彼だからこそ発揮できる力なのです。
■「人間通」に関する誤解
このように、プロジェクト・チームのような小さな組織を創るときでさえ、
機械を設計するような発想で取り組むと、必ず失敗します。
最適の部品を集めて、性能の良い機械を組み立てるといった発想では、
必ず壁に突き当たってしまうのです。
なぜなら、組織とは様々な性格や感情を持った人間の集りだからです。
従って、優れた組織を創るために求められるのは、
組織のメンバーの持つ性格や感情を理解する力であり、
それらのメンバーの適性や相性を判断する力に他なりません。
そして、このような力は、
「人間通」と呼ばれる熟練のマネジャーの多くは、
永年の現場経験を通じて自然に身につけているものであり、
こうした力は、これからどれほど企業情報システムが普及しても、
人材技能データベースや人事評価データベースが発達しても、
それらでは決して代行することができない、
極めて高度な人間的能力であり、深い暗黙知なのです。
しかし、多くのマネジャーにとって問題となるのは、
それでは、こうした「人間通」とでも呼ばれる力を、
いかにすれば身につけることができるかということです。
しかし、この「人間通」と呼ばれる力については、
ある種の誤解が存在しています。
それは、「人間通」という力を、
誰かから「学ぶ」ことができるという誤解です。
★32
第32回 なぜ「ベスト・チーム」が必ずしも成功しないのか(その3)
− 「設計」できない人間集団
┌────────────────────────────────────┐
熟練のマネジャーが持つ「人間通」と呼ばれる力は、
これからどれほど企業情報システムが普及しても、
人材技能データベースや人事評価データベースが発達しても、
それらでは決して代行することができない、
極めて高度な人間的能力であり、深い暗黙知です。
しかし、この「人間通」と呼ばれる力については、
ある種の誤解が存在しています。
それは、「人間通」という力を、誰かから「学ぶ」ことができるという誤解です。
└────────────────────────────────────┘
■ 「人間学」の錯覚
その一つの例が、「赤提灯談義」の幻想です。
例えば、マネジャーが部下を連れて酒を飲みに行きます。
リラックスした場で、マネジャーは、
部下に対して、職場の人間関係について色々なことを話します。
また、違った部署のマネジャー同士が誘い合わせて飲みに行きます。
打ち解けた雰囲気の中で、社内の人間関係などについて、
問わず語りに情報交換が行われます。
そして、酒席が深まるにつれ、「ここだけの話だが」との前置きで、
人間や人間関係についての「本音」の議論に花が咲くのです。
それゆえ、マネジャーの中には、
こうした赤提灯談義での「耳学問」によって、
「人間通」としての力量を学ぶことができると考えている人々が
少なくありません。
また、もう一つの例が、「人間学」の錯覚です。
例えば、ある種のマネジャーが好む書籍に、
『人間学』や『人間通』と題したものがあります。
もとより、こうした書籍の著者は、
人生における深い体験や経営における修練を積んできた人々であり、
それらの書籍には間違ったことが書かれているわけではないのですが、
問題は、読む側にあるのです。
それらの書籍を読むことによって、
「人間学」を学び、
「人間通」の力を身につけることができると思ってしまうのです。
しかし、残念ながら、それは錯覚です。
なぜならば、こうした書籍において述べられていることを真に理解するためには、
実は、その著者と同じレベルの体験を持っていなければならないからです。
我々マネジャーは、そのことを理解していなければなりません。
そもそも「人間学」や「人間通」という世界は、
本来、深い暗黙知の世界であり、書籍によって語り得る世界ではないのです。
しかし、これらの書籍が、しばしば筆力のある著者によって書かれているため、
それなりに説得力もあり理解しやすいのですが、
そこに錯覚が生まれるのです。
俗に言う「頭で分かったつもりになる」という過ちです。
そして、この「頭で分かったつもりになる」ということが、
暗黙知の伝承において必ずと言ってよいほど生じる過ちなのです。
■ 人間との「格闘」
では、どうすればよいのでしょうか。
どうすれば、我々は、
「人間通」という力を身につけることができるのでしょうか。
おそらく、何度か述べてきたように、
「人間通」という力も、身につけようとして身につくものではなく、
人間というものを深く見つめながら、また、人生を永い年月かけて歩んだ結果、
気がつけば自然に身についているものなのでしょう。
従って、もし、結果として「人間通」という力が身につく方法があるとすれば、
それは、たった一つの方法しかありません。
人間と「格闘」することです。
その方法しかありません。
しかし、ここで言う「格闘」とは、
決して「闘い」や「争い」を意味しているわけではありません。
それは、生まれ持った個性も違い、置かれた状況も違う人間同士が、
相手を深く理解しようとして努力を尽くすことです。
理解することの難しさを分かったうえで、
それでも互いを理解しようと努力し続けることです。
そのための真剣なぶつかり合いこそが、ここで言う「格闘」に他なりません。
そして、この意味において、
ビジネスの現場で生身の人間と「格闘」することなく、
「人間通」という高度な力を身につけることはできないのです。
なぜならば、「人間通」の力とは、
何よりも個人の体験を通じて獲得された
個性的な人間理解のことに他ならないからです。
それは、一般的な「書物」を通じて獲得されるものでは、決してありません。
例えば、『人間学』や『人間通』と題する書籍においては、
著者がその深い経験から掴み取った「真実」が書かれています。
しかし、それらが「真実」であるのは、
それを語る著者の個性と力量においてだけなのです。
当然のことながら、語る人間の個性と力量が変われば、
その「真実」も変わるのです。
しばしば我々が錯覚するような、
誰にでも当てはまる普遍的な
「人間学」や「人間通」の智恵というものは存在しないのです。
例えば、かつてベンチャーの旗揚げにおいて、
社員仲間で「血判」によって誓いを立て、
社員の結束を固めて成功を収めた経営者の話があります。
これは、その経営者の個性と力量において「真実」であったのであり、
同じことを異なった個性と力量を持った経営者が行ったならば、
まず間違いなく失敗するでしょう。
このように、「人間通」の力とは、
ビジネスの現場において生身の人間と「格闘」するという体験を通じてのみ、
身につけることができるものです。
そうした、個人の厳しい体験を通じて獲得された個性的で深い人間理解こそが、
「人間通」の力の本質なのです。
我々は、それを書物によって学ぶことは、決してできません。
仮に、書物に書かれてある言葉が、
我々に深い共感を呼び起こす瞬間があるとすれば、
それは、書物から大切な「真実」を学んだ瞬間なのではなく、
「著者の真実」と「読者の真実」が共鳴した瞬間に他ならないのです。
「人間通」の力とは、
粘り強い「人間との格闘」によってしか身につくことはありません。
そのことを、我々マネジャーは、深く理解すべきでしょう。
そして、こうした格闘を通じて「人間通」の力を身につけたマネジャーだけが、
職場の「こころの生態系」に賢明に処することができ、
その人間集団の生命力を開花させていくことができるのです。
★33
第33回 なぜ「動かそう」とすると部下は動かないのか(その1)
− 見抜かれる「操作主義」
■ 「気配り」のマネジャー
皆さんは、職場において、
上司や部下への「気配り」で苦労されたことはないでしょうか。
その「気配り」について考えて頂くために、
一つのエピソードをお話したいと思います。
職場で、ときおり、こうした「気配り」のマネジャーを見かけます。
部下との人間関係や顧客との人間関係に、
大変な精神的エネルギーを使って気を配り続けるマネジャーです。
もちろん、人間関係において
「気配り」というものは、非常に大切なものなのですが、
本当に気配りの上手な人は、
その気配りを感じさせないという細やかさを持っています。
しかし、この「気配り」のマネジャーは、周囲から見ると気の毒なほど、
部下や顧客に気を配り、気を遣っているのです。
そして、なぜか、その「気配り」が、周りからよく見えるのです。
そのためか、この「気配り」のマネジャーは、
初対面の顧客や、つきあいの浅い部下からは、
「あの人は気配りができる」「あの人は人間関係が上手だ」との評価を得ており、
その姿は、文字通り「頭が下がる」ほどです。
しかし、不思議なことに、長い目で見ていると、
こうした「気配り」のマネジャーが、
必ずしも部下から信望を集め、
顧客から好印象で迎えられているとは限らないことに気づきます。
それは、なぜでしょうか。
その理由を深く考えてみると、
そのマネジャーのこころの世界の問題に突き当たります。
それは、どのような問題なのでしょうか。
そのマネジャーの「気配り」の奥に、
密やかな「計算」があるのです。
例えば、部下に対して気を配るこころの中に、
部下に気を遣い、部下との人間関係を良好に保つことによって、
自分の都合の良い方向に部下に動いてもらおうという、
密やかな「計算」が感じられるのです。
しかし、不思議なことに、
こうした「気配り」のマネジャーが期待するようには、
部下は動いてくれません。
なぜならば、我々マネジャーが思っている以上に、
部下からは上司のこころの深くが見えているからです。
見えていないと思っても、見えています。
そして、マネジャーのこころの深くにある「計算」を、
部下もまた、こころの深くで感じとっているのです。
そのため、部下に対してどれほど好意を示し、どれほどの気配りを示しても、
それが、「部下のため」にではなく、
「部下を動かすため」に行っていると感じられた瞬間に、
部下は「動かない」のです。
冒頭に挙げた「気配り」のマネジャーが、
部下から信望を得られない理由は、そこにあります。
その表面的な柔らかいスタイルとは対照的に、
そのこころの深層にある「部下を動かそう」との意識の強さがゆえに、
部下は動かないのです、
■ 「操作主義」という過ち
こうした「自己の意のままに他者を動かそう」という発想は、
「操作主義」と呼ばれるものです。
そして、この操作主義が、
現在のマネジメント論の多くが陥っている過ちでもあります。
第30回において、企業というものを「機械」のごとくみなし、
それを理想的に設計し、意図する通り管理していこうとする
無意識の過ちについて述べました。
これは「機械論的企業観」とでも呼ぶべき過ちですが、
この過ちと、ここで述べる「操作主義的人間観」とでも呼ぶべき過ちが、
現在のマネジメント論の水準を、甚だしく低下させているのです。
例えば、書店に足を運び、
マネジメント関連の書籍のコーナーを眺めると、
そのことが良く分かります。
棚に並ぶ書籍のタイトルには、
「部下を動かす技術」「上司を動かす秘訣」
「顧客に買わせるノウハウ」「相手を説得するテクニック」「人を操る心理学」
といった言葉が溢れています。
そして、それらの書籍の多くは、その行間から、
「こうすれば、部下はうまく動く」
「こう話せば、部下はあなたについてくる」
「こうやれば、部下をうまく操れる」といった、
著者の「操作主義的人間観」が、
そのまま伝わってくる内容のものが、決して少なくありません。
しかし、いつのまにか我々は、
肝心のことを忘れてしまっているのではないでしょうか。
人間は「道具」ではありません。「機械」でもありません。
誰といえども、
他の誰かの意志に従って「操られたい」とは思っていないのです。
しかし、それにもかかわらず、
現在のマネジメント関連の書籍には、
こうした操作主義に彩られたものが、あまりにも多いのです。
かつてアドルフ・アドラーという心理学者が、
人間の中にある「権力への意思」ということを語っています。
アドラーは、「自己の意のままに他者を動かしたい」という
「エゴ」(自我)の欲求は、
ときに、赤子が泣く行為から、女性が涙を流す行為にまで、
密やかに忍び込むということを喝破しています。
たしかに、ある意味で、赤子はその泣き声で親を動かし、
女性はその涙で男性を動かすことがあります。
もとより、人間心理と人間行動のすべてを
アドラー的に解釈することが正しいとは思いませんが、
そうした人間心理の深くに潜む「エゴ」の巧みさや狡猾さというものを、
マネジメントに携わるものは、
深く理解しておかなければならないでしょう。
★34
第33回 なぜ「動かそう」とすると部下は動かないのか(その2)
− 見抜かれる「操作主義」
┌────────────────────────────────────┐
人間は「道具」ではありません。「機械」でもありません。
誰といえども、
他の誰かの意志に従って「操られたい」とは思っていないのです。
しかし、それにもかかわらず、
現在のマネジメント関連の書籍には、
こうした操作主義に彩られたものが、あまりにも多いのです。
└────────────────────────────────────┘
■ 操作主義を映し出す「こころの生態系」
そもそも、もし自分の上司が
「どうすれば部下を動かせるか」
「部下を統率するための力をいかに身につけるか」
「人々が集まってくる人望を身につけるにはどうしたらよいか」
などと考えていたとするならば、
皆さんは、その上司についていくでしょうか。
そうしたマネジャーのもとで、部下が動くことはないでしょう。
なぜならば、こころの深くに「操作主義」が潜んでいるマネジャーの言動には、
部下のこころが共感しないからです。
しかし、こうした操作主義のマネジメントによっても、
「部下が動く」と感じられる場合があります。
それは、おそらく次に述べる三つの場合のいずれかでしょう。
第一は、部下がまだ若く、人間を見る目が浅いため、
マネジャーの表面的な気配りに幻惑されて動いてしまう場合です。
第二は、部下がマネジャーの人事権や決裁権などの権力を意識し、
それに従っている場合です。
そして、第三は、部下の側にも「計算」が成立している場合です。
こうした三つの場合には、
操作主義のマネジメントでも、当面、部下は動き、組織も動きます。
しかし、この人間集団が、徐々に弱体化していくことは明らかでしょう。
なぜならば、この操作主義のマネジメントの結果、
この組織で動く人材が、
精神的に未熟な人材か、権力に追随する人材か、
打算で動く人材だけになっていくからです。
いや、正確に言いましょう。
操作主義のマネジメントは、
その人間集団の持つ、
精神的に未熟な部分や、権力追随的な部分や、
打算的な部分を引き出してしまうのです。
なぜならば、マネジャーの「こころの世界」と、
組織のメンバーが創り出す「こころの生態系」とは、
あたかも「一対の鏡」となっていくからです。
そのため、マネジャーのこころの世界に潜む操作主義的な人間観は、
必ずその人間集団の「こころの生態系」に反映し、
それを、その貧困な人間観の水準にまで引き下げてしまうのです。
そうしたことの怖さを、我々マネジャーは、
深く理解しておかなければなりません。
そして、自分の持つこころの世界が、
自分がマネジメントする人間集団のこころの生態系の中から、
いかなる集合意識や組織文化を引き出してしまうのかを、
一度静かに考えてみる必要があります。
■ 「エゴ」が見えているということ
では、もし、「部下を動かす」という操作主義が過ちであるならば、
我々マネジャーは、その操作主義を「捨てる」ことができるのでしょうか。
ここで、問題をもう少し正確に扱っておきましょう。
アドラーのところで述べたように、
「自己の意のままに他者を動かしたい」という欲求は、
人間にとって本源的な欲求であり、
我々が静かに自らのこころの世界を見つめるならば、
誰しも何がしかの操作主義的な発想は抱いているものであり、
なにがしかの計算も働いているのです。
従って、ここで私が述べようとしているのは、
「いかなる操作主義や計算も持ってはならない」という
潔癖主義的なマネジメント論ではありません。
私が述べようとしているのは、
「自分の内面にある操作主義や計算が見えているか」という
内省的なマネジメント論なのです。
もとより、人間にとってこうした「エゴ」の問題は、
「永遠の問い」とでも呼ぶべき深遠な問いです。
それは、独りアドラーだけでなく、
釈尊やキリストを始めとして、
歴史を振り返るならば多くの宗教家や思想家が
生涯をかけて取り組んできた問題であり、
なお答えの見出せぬ問題なのです。
従って、ここで私が述べているのは、
「己のエゴを捨てよ」という
あまりに素朴かつ非現実的な議論ではありません。
私が述べているのは、
「己のエゴが見えているか」ということなのです。
率直に言えば、どれほど「無私」や「無我」を論じてみても、
我々が「エゴ」を捨てることは不可能です。
しかし、我々は「エゴ」を見つめることはできます。
そして、自分の内面にある「エゴ」を見つめ、
その動きが見えていることは、それだけで、
その「エゴ」が衝動的に活動することによってもたらされる破壊的な影響から、
我々を救ってくれるのです。
そうした意味で、マネジャーは、
自分のこころの世界にある操作主義の動きに
気づいていなければなりません。
★35
第35回 なぜ「動かそう」とすると部下は動かないのか(その3)
− 見抜かれる「操作主義」
┌────────────────────────────────────┐
率直に言えば、どれほど「無私」や「無我」を論じてみても、
我々が「エゴ」を捨てることは不可能です。
しかし、我々は「エゴ」を見つめることはできます。
そして、自分の内面にある「エゴ」を見つめ、
その動きが見えていることは、それだけで、
その「エゴ」が衝動的に活動することによってもたらされる破壊的な影響から、
我々を救ってくれるのです。
そうした意味で、マネジャーは、
自分のこころの世界にある操作主義の動きに
気づいていなければなりません。
└────────────────────────────────────┘
■ 部下が共感するとき
それでは、自分のこころの世界にある
操作主義の動きに気づいていたうえで、
我々マネジャーは、どのように部下に処すればよいのでしょうか。
ここで、大切なことは、やはり「共感」ということです。
マネジャーと部下との間に人間的な共感が生まれていることが大切でしょう。
しかし、ここでもまた我々のこころの中の操作主義が、
蛇の鎌首のように、ひっそりと頭をもたげるのです。
それは、まず、「いかにして部下の共感を得るか」との発想として現れます。
これもまた、密やかに忍び込む操作主義に他なりません。
ときおり、『感動を呼ぶ訓示』『共感を呼ぶ一言』などのタイトルの本に
目を通すマネジャーがいます。
しかし、人は「動かそう」としても決して動かないのと同様、
人は「感動させよう」としても決して感動するものではありません。
同じ意味で、「部下の共感を得よう」という発想によって、
部下との間に共感が生まれることはないのです。
では、マネジャーと部下との間に共感が生まれるときというのは、
いかなるときでしょうか。
マネジャーが、部下に共感したときです。
マネジャーが、部下の共感を得ようとしたときではなく、
マネジャーが、部下に共感したときです。
例えば、新入社員の部下が、
まだ仕事が何も分からずに不安のなかにいるとき、
自分の新入社員時代を思い出し、
思わずその気持ちに共感するときがあります。
また、仕事で失敗した部下が、ひどく落ち込んでいるとき、
かつて、自分が仕事で失敗したときの辛い気持ちを思い出し、
こころの中でエールを送るときがあります。
そのとき、我々マネジャーは、部下に共感しているのです。
もちろん、マネジャーが「部下の気持ちに共感する」ということは、
「部下の未熟さを甘やかす」ということを意味していません。
ときに、その新入社員に共感しながらも、
叱咤激励をすることがあるでしょう。
ときに、失敗した部下に共感しながらも、
厳しい人事評価を行うこともあるでしょう。
マネジメントとは、ある意味で、そうした厳しい世界を持っています。
こころの中でエールを送るということと、
現実に甘やかすということを混同しない厳しさと強さが、
我々マネジャーには求められるのです。
そして、現実の場面においては、
部下の成長を考えるならば、
厳しく処することが求められる瞬間も多いのです。
しかし、だからこそ、我々マネジャーは、
部下に深く共感する力を持たなければならないのです。
そして、部下に深く共感できなければならないのです。
そして、もし、マネジャーが部下に深く共感することができるならば、
部下もまた、マネジャーに共感してくれるときが、あるかもしれません。
しかし、ここでも間違ってはなりません。
「部下に共感する」ということは、
決して、「部下の共感を得る」ために行うものではありません。
もし、こころの深くにそのような計算があるならば、
それもまた、密やかに忍び込んだ「操作主義」に他ならないのです。
■ 「無条件」に共感すること
大切なことは、ただ無条件に、部下に共感することです。
そうした行為が、マネジャーには求められるのです。
それは、いかなる目的のために行う行為でも、
いかなる計算によって行う行為でもない、
あくまでも無条件の行為なのです。
では、いかにして、我々マネジャーは、
「無条件」に、部下に共感することができるのでしょうか。
例えば、部下の若手社員を見ていて思い出さないでしょうか。
かつて我々も、新入社員のとき、
前途に単なる希望だけでなく、深い不安を抱いて、
この企業社会での生活を始めたことを。
そして、ときに、企業社会の論理に流されそうになる自分を、
精一杯に支えながら歩んだことを。
しかし、その中で、自分の信念を持ち、
理想を求めて歩んだ先輩の後姿に、
暗闇における一条の光のような救いを感じたことを。
我々マネジャーのこころの中に、
部下に対する共感が生まれるときとは、
例えば、彼らの姿の中に、
かつての自分の姿を重ねあわせるときではないでしょうか。
そして、もし、我々マネジャーが、
そうした意味において、部下に共感することができるならば、
もう一つ、こころがけるべきことがあります。
それは、部下の声を「聞き届ける」ということです。
★36
第36回 なぜ「動かそう」とすると部下は動かないのか(その4)
− 見抜かれる「操作主義」
┌────────────────────────────────────┐
我々マネジャーのこころの中に、
部下に対する共感が生まれるときとは、
例えば、彼らの姿の中に、
かつての自分の姿を重ねあわせるときではないでしょうか。
そして、もし、我々マネジャーが、
そうした意味において、部下に共感することができるならば、
もう一つ、こころがけるべきことがあります。
それは、部下の声を「聞き届ける」ということです。
└────────────────────────────────────┘
■ 「聞き届け」という姿勢
ここで「部下の声を聞き届ける」と聞いて、
「ああ、部下の意見を聞くということだな」
と考えるマネジャーが多いかもしれません。
たしかに、「部下の意見を聞く」とは、
マネジメントにおいては最も基本的な方法とされています。
しかし、残念ながら、企業を見渡してみると、
「部下の意見を聞く」ことはよく行われているのですが、
「部下の意見を聞き届ける」ということはあまり行われていないのです。
例えば、職場に、このようなマネジャーはいないでしょうか。
しばしば、部下を飲みに連れて行くマネジャーです。
そして、飲んだ席でフランクに部下の意見を聞こうとするのです。
しかし、よく見ていると、
一応、部下の意見を聞くスタイルはとっているのですが、
実際には聞いていません。
このマネジャーが部下の意見を聞く姿勢から伝わってくるものは、
「この部下の考えは違う」
「この部下は分かっていない」などの無言の声です。
そして、こうしたマネジャーは、
部下の話に適当に相づちを打ち、
部下との表面的な人間関係には気を遣うのですが、
マネジャー同士の会話においては、
陰で「ガス抜き」などの言葉を使うのです。
すなわち、部下のフラストレーションを解消するのが
上司の務めだと思い込んでおり、
どこかに部下を見下した密やかな傲慢さを持っているマネジャーです。
実は、こうしたマネジャーは、決して少なくありません。
そして、こうしたマネジャーは、
「部下の意見を聞く」ことは一応行っているのですが、
「部下の声を聞き届ける」ということは決してできないマネジャーなのです。
■ 「正対」することの大切さ
では、「聞き届け」とは何でしょうか。
この言葉は、臨床心理学者の河合隼雄氏が用いている言葉ですが、
心理カウンセラーがクライアントの声を聞くときに、
この「聞き届け」という姿勢が大切であることを述べています。
それは、河合氏の言葉を借りれば、
「深い共感のこころを持って相手の話を聞く」という姿勢のことです。
従って、マネジメントにおける「聞き届け」の姿勢とは、
「深い共感のこころを持って部下の話を聞く」ということに他なりません。
そして、私のマネジメントのささやかな経験にもとづくならば、
この「聞き届け」の姿勢においてもう一つ大切なことは、
「部下の声を正対して受け止める」ということでしょう。
しかし、「聞き届け」の姿勢とは
「深い共感のこころを持って相手の話を聞く」ことであるとはいっても、
それは、必ずしも部下の意見に「賛同」することを意味していません。
マネジャーが部下に「共感」するあまり、
部下の意見のすべてに「賛同」していては、
マネジメントが成り立ちません。
では、「賛同」するのではないならば、どうするか?
「正対」することです。
マネジャーが、一人の人間として、
部下という一人の人間と正面から向き合うことです。
一人の人間に対する深い敬意を持って、正面から向き合うことです。
それが、「正対」するということの意味です。
そして、その「正対」ができているときは、
不思議なことに、部下とぶつかっても人間関係が壊れることはありません。
実は、人間関係が壊れるときというのは、
どちらかが、どちらかに対して「シニカル」な姿勢を持ったときです。
ここで「シニカル」という言葉は、
「皮肉な」という意味よりも、
「斜に構えた」という意味に近い言葉です。
すなわち、
「どうせ、彼は」「しょせん、あの人は」
との枕詞で相手を見る姿勢であり、
「正対」ということの対極にある姿勢と言えます。
我々は、このシニカルな姿勢に陥った瞬間に、
目の前にいる一人の人間の人生に対する「敬意」を失いはじめます。
そして、そのとき、人間関係もまた深いところで壊れはじめるのです。
すなわち、「正対」するとは、
シニカルな姿勢に陥ることなく、
相手の人生に深い敬意を持って接することに他なりません。
★37
第37回 なぜ「動かそう」とすると部下は動かないのか(その5)
− 見抜かれる「操作主義」
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マネジャーが、一人の人間として、
部下という一人の人間と正面から向き合う。
一人の人間に対する深い敬意を持って、正面から向き合う。
それが、「正対」するということの意味です。
そして、その「正対」ができているときは、
不思議なことに、部下とぶつかっても人間関係が壊れることはありません。
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■ 「人間」に対する姿勢
例えば、気の毒なほど部下に気を遣い、
部下とぶつかることを避けているにもかかわらず、
部下から信望を得ないマネジャーがいます。
こうした場合、部下は分かっているのです。
このマネジャーが大切にしているのは
「部下との人間関係」ではなく、
「自分の立場」であることを。
そして、彼が部下と「正対」していないことを。
これに対して、しばしば部下とぶつかり、
ときに怒鳴らんばかりの接し方をするにもかかわらず、
部下が信望を寄せてくれるマネジャーがいます。
彼が大切にしているものは、
「部下と自分の切磋琢磨による互いの成長」であり、
「成長の証としての良き仕事を残すこと」です。
彼は未熟な自分を知りつつ、精一杯に部下と「正対」しようとしているのです。
私のささやかな経験ですが、
高校時代にサッカー部に所属したとき、教えられたことがあります。
サッカーのボールの取り合いにおいて、
「ぶつかりそうになったら、腰を引かずに正面からぶつかれ」
とのアドバイスを受けました。
腰を引いたときほど怪我をしやすいと教えられたのです。
その言葉が、いまも心に残っています。
人間関係も、そうではないでしょうか。
互いに「正対」すること。
こころを込めて真剣にぶつかること。
そのとき、人間として大切なものを失うことは、
決してありません。
仮に、部下との表面的な人間関係が崩れたとしても、
十年の歳月を超えて互いに理解しあえるときが、必ず来る。
そうした深い信念と人間に対する姿勢が、
いま、我々マネジャーに求められているのではないでしょうか。
■ 「一途」という価値
いま、新しい時代が始まろうとしています。
その新しい時代を担う若い世代の感性は、瑞々しく豊かです。
我々マネジャーが、どれほど表面的な気配りを見せてみても、
こころの深くの密やかな操作主義は、
彼らに簡単に見透かされてしまいます。
そして、こころの深くで正対していない姿勢もまた、
彼らに容易に見抜かれてしまいます。
そうした時代において、マネジャーに求められるものは、
若い世代のこころと正対し、彼らの声を聞き届け、
彼らの思いに深く共感する感性に他なりません。
しかし、不思議なことに、
これからの新しい時代において我々マネジャーに求められるこうした資質は、
かつての古い時代の価値であることに気づきます。
「一途」であること。
「一徹」であること。
いかなる計算もなく、いかなる駆け引きもない、
一途さや、一徹さ。
そうしたことが、
マネジメントにおいて大切な価値とされる時代が
回帰してくるのではないでしょうか。
★38
第38回 なぜ「教育」しても部下が成長しないのか(その1)
− 「成長の場」が生まれるとき
■ 「教育熱心」なマネジャー
皆さんは、部下の教育に悩まれたことはないでしょうか。
その「部下の教育」について考えて頂くために、
また、一つのエピソードをお話しましょう。
職場で、しばしば、こうした「教育熱心」なマネジャーを見かけます。
部下に対して
様々な業務研修や各種の教育セミナーを受けることを奨励するマネジャーです。
こうしたマネジャーは、部下に対する直接指導にも熱心です。
業務に関する技術や知識についても、
文字通り「手取り足取り」といった風情で、懇切丁寧に教えます。
そのため、このマネジャーの下では、
若手社員も、急速に即戦力になっていきます。
従って、こうしたマネジャーは、
知識偏重教育で育てられ、
マニュアル志向の強い若手社員からも好評であり、
人事研修部などから見れば表彰したいほどのマネジャーなのですが、
一つ問題があります。
実は、こうした「教育熱心」なマネジャーの下で、
必ずしも優れた人材が育つとはかぎらないのです。
それは、なぜでしょうか。
誤解を恐れずに言いましょう。
「教育」に熱心すぎるからです。
すなわち、こうしたマネジャーは、
人材というものが
「教える」ということによって
「育てる」ことができると思い込んでいるからです。
業務に必要な技術や知識を教えれば、
一人前のビジネスマンを育てることができると考えているからです。
しかし、これからの時代においては、
実は、こうした「教える」という発想では、
望ましい人材は育ちません。
なぜならば、これからの時代は、
社会や市場や企業において、
予測できない変化が生まれ、
不連続な進化が起こり、
過去との断絶が生じる時代になっていくからです。
そして、こうした時代には、
過去の成功をもたらした技術や知識を新しい世代に伝えるだけでは、
新しい環境に適応していく能力を持った人材は育たないのです。
そして、そうした人材が育たないかぎり、
その企業の未来の発展もないのです。
最近、しばしば「成功のジレンマ」ということが言われます。
すなわち、これからの時代には、
過去に成功した体験が、未来の失敗の原因となってしまうという
「ジレンマ」に、我々は直面するのです。
従って、過去の成功体験だけに縛られていると、
未来の成功は約束されない時代なのであり、
過去に成功した人材像だけに縛られていると、
未来に成功する人材は育たないのです。
そうであるならば、こうした時代には、
部下の「教育」についても、
業務に必要な技術や知識を教えれば、
一人前のビジネスマンを育てることが出来るという考えは
捨てなければなりません。
これからの時代には、そもそも
「業務に必要な技術や知識」そのものが次々と新しくなっていくため、
そうした状況において途方に暮れることなく、
自ら積極的に新しい技術や知識を
生み出していくことのできる人材こそが求められているのです。
それでは、マネジャーは、
そうした人材を「育てる」ことができるのでしょうか。
■ 「育てる」から「育つ」への発想転換
答えは「否」です。
マネジャーは、そうした人材を「育てる」ことはできません。
なぜならば、これからの時代においては、人材とは、
人間が「育てる」ものではなく、
自然に「育つ」ものとなっていくからです。
もとより、こうした「人材観」は決して新しいものではありません。
それは、東洋思想においては、古くからあった人材観ですが、
これから、こうした人材観が、ますます大切になっていくでしょう。
なぜならば、これからの環境変化の激しい時代には、
「どのような人材が優れた人材であるか」という問いそのものが、
答えることが極めて難しい問いになっていくからです。
そのため、特定の理想像に合わせて人材を人為的に育てようとすることが、
ますます困難になってくるからです。
従って、マネジャーが為すべきこと、
そして、為し得ることは、
その時代の環境に合った人材が
自然に育つための条件を整えることです。
言葉を換えれば、
人材の成長を支援することが、マネジャーに求められるのです。
では、マネジャーは、
部下が自然に育つために、何を為すべきでしょうか。
部下の成長を支えるために何を為すべきでしょうか。
そのためにマネジャーが為すべきことが、三つあります。
★39
第39回 なぜ「教育」しても部下が成長しないのか(その2)
− 「成長の場」が生まれるとき
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マネジャーが為すべきこと、そして、為し得ることは、
その時代の環境に合った人材が自然に育つための条件を整えることです。
言葉を換えれば、人材の成長を支援することが、マネジャーに求められるのです。
では、マネジャーは、
部下が自然に育つために、何を為すべきでしょうか。
部下の成長を支えるために何を為すべきでしょうか。
そのためにマネジャーが為すべきことが、三つあります。
└────────────────────────────────────┘
■ 「成長の方法」ということ
第一は、「成長の方法」を伝えることです。
しかし、この「成長の方法」という言葉を聞いて
驚くマネジャーもいるのではないでしょうか。
そもそも、人間の成長には「方法」というものがある。
そのことを知っているマネジャーは、必ずしも多くありません。
では、「成長の方法」とは何か。
実は、それは、いかなるマニュアルでも、テクニックでもない、
「こころの姿勢」とでも呼ぶべきものです。
そのことを説明するために、一つのエピソードを紹介しましょう。
第26回において述べた、
学生時代にスキーの練習を積んでいた頃のことです。
その頃の私は、技術的に未熟なため、
急斜面をうまく滑ることができず、何度も転んでいました。
しかし、その練習をじっと見ていた年配の熟練コーチから言われた一言が、
いまも耳に残っています。
「君、何度転んでもいいから続けなさい。
君は転び方が良いから、きっと上達するよ」
この言葉には大きく励まされただけでなく、
深く教えられるものがありました。
失敗にも「良い失敗」があるということを学んだからです。
これと同様のことを、第20回において紹介したように、
プロ野球元監督の広岡達郎氏も述べています。
広岡氏は、ある選手のファインプレーを見て、
「あのファインプレーは、駄目だ」と厳しく批判する一方で、
ある選手のエラーを見て
「あのエラーは、良い」と誉めるのです。
これもまた、成功にも「悪い成功」があり、
失敗にも「良い失敗」があるということを言わんとしているのです。
そして、ここで言う「悪い成功」や「良い失敗」とは、
いずれも「基本の姿勢」や「こころの姿勢」のことを述べているのです。
このように、
もし「成長」というものに「方法」があるとするならば、
それは、何よりも「こころの姿勢」とでも呼ぶべきものに他なりません。
例えば、第28回において、
「営業の反省会」を行うマネジャーのことを紹介しましたが、
このマネジャーのように、
「営業の達人」と呼ばれながらも決して小成に安んじることなく、
自分の力量を冷静に見つめ、
それを磨き続けようとする「こころの姿勢」です。
従って、マネジャーが部下の成長を支えようとするならば、
まず最初に教えるべきは、こうした「こころの姿勢」です。
もとより、「成長の方法」としての「こころの姿勢」について論じるためには、
数冊の本を書くことが必要ですが、それは別の機会に譲るとして、
私がここで強調しておきたいことは、ただ一つです。
この「こころの姿勢」であるかぎり、
どれほど失敗を積み重ねようとも、必ず成長していける。
この「こころの姿勢」であるかぎり、
当面どれほどの成功がやってこようとも
必ず壁に突き当たる。
そうした世界が存在するということです。
従って、我々マネジャーが、
部下の成長を支えようと真剣に考えるならば、
そうした二つの世界が存在することの
素晴らしさと怖さの両方を分かっていなければなりません。
★40
第40回 なぜ「教育」しても部下が成長しないのか(その3)
− 「成長の場」が生まれるとき
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マネジャーが為すべきこと、そして、為し得ることは、
その時代の環境に合った人材が自然に育つための条件を整えることです。
言葉を換えれば、人材の成長を支援することが、マネジャーに求められるのです。
では、マネジャーは、
部下が自然に育つために、何を為すべきでしょうか。
部下の成長を支えるために何を為すべきでしょうか。
そのためにマネジャーが為すべきことが、三つあります。
第一は、「成長の方法」を伝えることでした。
└────────────────────────────────────┘
■ 「成長の目標」ということ
では、マネジャーが部下の成長を支えるために為すべき第二は、何でしょうか。
それは、「成長の目標」を持たせることです。
では、「成長の目標」とは何か。
しばしば、若いビジネスマン向けの啓蒙書などに
「明確な目標を掲げよ」
「目標達成度を確認せよ」などのアドバイスが書いてありますが、
ここで言う「成長の目標」とは、決してそうした意味ではありません。
ここで言う「成長の目標を持たせよ」ということの最も深い意味は、一つです。
「位取りを決めさせよ」ということです。
これまで一人のマネジャーとして多くの優秀な部下を預かり、
彼らを見ていて感じたことがあります。
それは、優秀な人材というものが、
「どこまでも成長していく人材」と
「小成に安んじてしまう人材」とに分かれてしまうことです。
そして、その原因を深く見つめると、
「位取り」の違いとでも呼ぶべきものが見えてくるのです。
言葉を換えれば、
「こころに抱いている目標」の違いとでも言えるでしょうか。
一人のプロフェッショナルとして、
「どこまでの高みを目指すのか」という目標の違いとも言えるでしょう。
そして、最初に抱いた「成長の目標」の違いが、
部下にとって、必ず大きな「成長の結果」の違いとなって現れてしまうのです。
そのことの怖さもまた、我々マネジャーは知っていなければなりません。
■ パリで画家が育つ理由
若き日に、私は、ある著名な画家に聞いたことがあります。
「なぜ、パリでは、あれほど多くの優れた若い画家が育つのですか」
この問いに対する答えとして、私が予想していたのは、
「パリには、優れた美術学校がたくさんあるからだよ」
といったものでした。
しかし、その画家から返ってきた答えは、私の予想外のものでした。
「パリには、本物の絵がたくさんあるからだよ」
それが、答えでした。
ある「高み」にまで達したものを、毎日のように、見る。
そして、知らず知らずに、
その「高み」を自分自身の目標に重ねあわせていく。
それが、「成長の目標」という言葉の最も深い意味に他なりません。
省みて、我々マネジャーは、
部下に、そうした意味での「本物の絵」をたくさん見せているでしょうか。
もとより、自分自身が、
その「本物の絵」となり得ていないことは仕方がありません。
我々マネジャーも、一人の未熟な人間であり、
まさに我々自身も「成長の途上」にあるのですから。
しかし、それならば、我々は、部下に
「本物のプロフェッショナル」の活躍する外の世界を見せているでしょうか。
裏返して言うならば、社内の身内だけで
「井の中の蛙」という世界を作ってしまっていないでしょうか。
さらに言えば
「マネジャーが到達した世界が、部下が仰ぎ見る最高の世界」
という過ちを犯していないでしょうか。
■ 新入社員教育の過ち
そうした目で見るならば、
例えば、企業においてしばしば見かける過ちが、
「新入社員教育」の過ちです。
皆さんは、こうした例を見かけないでしょうか。
新入社員が着任します。
彼の導入教育を行わなければなりません。
そこで、数年先輩の社員の中から教育担当者を決めます。
彼に新人への指導を行わせるのです。
そこで、選ばれた若い教育担当者は、その新入社員に対して、
マンツーマンで、部内のルールや書類の処理の仕方など、
仕事の基本を教えます。
企業においては、こうした例が多いのではないでしょうか。
もちろん、こうした方式は、同じ世代の教育担当者が教えるため、
新入社員の立場に立って教えてくれるというメリットがあります。
また、その教育担当者にとっても勉強になるという副次的効果もあります。
しかし、こうした方式には一つの落とし穴があることを忘れてはなりません。
それは、マネジャーの無意識に、
「新入社員なのだから、まず、この程度の教育をしておけばよい」
といった発想が忍び込んでくることです。
しかし、こうした発想は間違っています。
新入社員だからこそ、
最も「高み」にあるものを見せなければならないのです。
もちろん、それが新入社員の力量で理解できるとは限りません。
しかし、ビジネスマンとしてスタートした最も瑞々しい時期にこそ、
最も高みにある頂きを見上げるということをさせてあげるべきなのです。
そうした意味で、新入社員の教育は、
本来ならば、その組織で最も力量のある人間が行うことが望ましいのです。
それは、ときに経営トップ自らの教育であってもよいでしょう。
そして、もしそれが実務的多忙さゆえに不可能であっても、
マネジャーは、本来、教育とはそうであるべきことを、
深く理解していなければなりません。
これを登山に喩えて言いましょう。
登山を目指す初心者には、もちろん、
靴の履き方から、ザックの背負い方、地図の見方という
基本的なことを教えなければなりません。
しかし同時に、いつの日か登るであろうアルプスの名山や、
さらには、いつか登ってみたいと願うヒマラヤの最高峰を
仰ぎ見せなければならないのです。
そして、もし、その新入社員が、
アルプスの名山やヒマラヤの最高峰を、そのこころの深くに刻むならば、
彼にとっての「成長の目標」は定まります。
それは、彼がビジネスマンとして、
生涯かけて登っていくべき道を知るときに他なりません。
そして、それこそが、一人のビジネスマンの先輩であるマネジャーが、
これからの長き道を歩み始めた一人の後輩に伝えてあげられる、
最高の「何か」なのです。