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 第11回 なぜ「原因究明」によって問題を解決できないのか(その2)
     - 問題群の「循環構造」
 
┌────────────────────────────────────┐
 今回からは、企業においてしばしば遭遇する、
 「責任転嫁ゲーム」と「犯人探し」の問題について、
 少し深く考えてみましょう。
 この問題を考えることによって、
 なぜ、我々マネジャーには「大局観」が求められるのか、
 そのことが理解できるからです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「問題解決法」によって解決しない問題
 
 最初に、一つの問題を考えてみましょう。
 まず、なぜ、現代の企業においては、あの言葉が好まれるのでしょうか。
 
 「問題解決」という言葉です。
 
 この言葉は、特に、経営者やマネジャーに好まれる言葉です。
 そのため、情報システム・ベンダーは
 「ソリューション」(解決)という言葉をキャッチフレーズに用います。
 また、経営コンサルタントは
 「プロブレム・ソルバー」(問題解決者)という言葉をアピールします。
 いずれも、企業における経営者やマネジャーが、
 こうした「問題解決」という言葉を好むからですが、
 その根底にあるのは、
 「問題を分析し、その原因を究明し、原因を除去し、問題を解決したい」
 という願望です。
 
 しかし、実は、
 この「問題分析」→「原因究明」→「原因除去」→「問題解決」という
 直線的な思考こそが、現代の企業における「問題解決」を妨げているのです。
 なぜでしょうか。
 
 企業における問題は、実は、
 「直線構造」ではなく「循環構造」をしているからです。
 
 そのことを、「高度な複雑系としての企業」という視点から説明しましょう。
 そもそも、「複雑系」とは、
 単に様々な要素が複雑に集まったシステムを指すわけではありません。
 例えば、機械のスクラップ置き場のような、
 ただ雑然と様々なものが集まった場所を「複雑系」と呼ぶわけではありません。
 「複雑系」とは、単なる「複雑さ」だけでなく、
 二つの特徴を持つシステムのことです。
 
 第一の特徴は、「循環構造」(フィードバック・ループ)を持つことです。
 すなわち、様々な要素が互いに「循環的」に影響を与えあい、
 全体として変化していく構造を持っていることです。
 第二の特徴は、「自己加速性」(ポジティブ・フィードバック)を示すことです。
 すなわち、この「循環構造」において、
 そこで生まれた好循環や悪循環が、
 自然に加速されるという性質を持っていることです。
 
 これらを少し専門的な用語で言えば、
 「自己加速性を持つ循環構造」が複雑系の特徴なのです。
 
 分かりやすい言葉で言えば、
 
 「ひとたび起こったことが、ますます起こりやすくなる仕組みを持つシステム」
 
 それが、「複雑系」に他ならないのです。
 
 例えば、「企業」という複雑系をこうした観点から見てみましょう。
 企業とは、一般に、
 「販売収益」→「開発投資」→「商品開発」→「販売収益」という
 ビジネスプロセスの循環構造を持っています。
 そして、この循環構造が良い方向に回転しはじめると、
 「販売収益が上がる」→「開発投資ができる」→
 「良い商品が生まれる」→「販売収益が上がる」といった
 「好循環」を生み出します。
 
 しかし、もし、これが悪い方向に回転しはじめると、
 「収益が上がらない」→「開発投資ができない」→
 「良い商品が生まれない」→「収益が上がらない」といった
 「悪循環」を生み出すことになるわけです。
 
 こうした好循環と悪循環は、別な言葉で言えば
 「天使のサイクル」と「悪魔のサイクル」と呼ばれるものですが、
 これらの好循環や悪循環は、
 ひとたび、どちらかの方向に向かって循環し始めると、
 その方向への循環がますます起こりやすくなり、
 急速に全体がその方向に勢いづいていくという性質を持っています。
 
 これが「自己加速性」です。
 
 そして、複雑系としての企業は、こうした自己加速性を持つため、
 経営者やマネジャーは、一つの難しい問題に直面するのです。
 
 それが、「摂動敏感性」と呼ばれる性質です。
 
 すなわち、わずかな経営環境の変化や小さな経営方針の変更が、
 こうした好循環や悪循環を通じて急激に拡大され、
 短期間に企業の状況を大きく変えてしまうということが起こるのです。
 これが、私が『複雑系の経営』(東洋経済新報社)で述べた、
 「小さな揺らぎ(摂動)が大きな変動を生み出す」という
 「摂動敏感性」と呼ばれる性質ですが、
 これについて詳しく述べるのは、別な機会に譲りましょう。
 いずれにしても、こうしたことは、
 経験豊かな経営者やマネジャーは、
 実感として理解していることではないでしょうか。
 
 さて、企業において経営者やマネジャーが直面する問題の多くが、
 こうした「循環構造」と「自己加速性」という性質によって生み出される
 「循環的問題」であることを理解するならば、
 これを「直線的思考」によって
 解決しようとすることの限界も見えてくるでしょう。
 すなわち、こうした循環的問題に対して、
 「問題分析」→「原因究明」→
 「原因除去」→「問題解決」といった直線的思考で対処し、
 「原因」を究明することによって解決するという発想には、限界があるのです。
 
 なぜならば、複雑系としての企業においては、
 問題が生じたとき、多くの場合、
 「病根」のごとき
 「究極の原因」といったものは存在しないからです。
 
 むしろ、「体質疾患」のごとく
 「全体が病む」とでも呼ぶべき状況が生まれるのです。
 
 
★12
 第12回 なぜ「原因究明」によって問題を解決できないのか(その3)
     − 問題群の「循環構造」
 
┌────────────────────────────────────┐
 複雑系としての企業においては、
 問題が生じたとき、多くの場合、
 「病根」のごとき
 「究極の原因」といったものは存在しません。
 むしろ、「体質疾患」のごとく
 「全体が病む」とでも呼ぶべき状況が生まれるのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 病むときは「全体」が病む
 
 このことを別な事例によって考えてみましょう。
 
 最近、子供たちの登校拒否が深刻な問題になっています。
 こうした不登校の問題は、
 これまでは個別の子供に対するカウンセリングを行うことによって、
 それなりに解決することができました。
 しかし、最近では、
 こうした個別のカウンセリングだけでは解決できない事例が増えているのです。
 
 例えば、個別のカウンセリングによって少し治ったと考えられる子供も、
 しばらくすると、登校拒否の症状がさらに悪化して、
 ふたたびカウンセラーのところに戻ってきます。
 そこで、その背景を深く調べていくと、
 実は、心の問題を抱えているのはその子供だけでなく、
 その家族のメンバー全員が
 それぞれに心の問題を抱えていることが分かるのです。
 例えば、父親は、会社のリストラで悩んでおり、
 母親は、同居している年老いた両親との摩擦で苦しみ、
 その夫婦も、互いに対話が無い状態が続いていたりします。
 
 そして、こうした背景を理解するにつれ、その子供に現れている問題は、
 実は、家族全体が抱えている問題の象徴であることが分かってきます。
 
 すなわち、これは、子供の「心」だけが病んでいるのではなく、
 家族全体の「心の生態系」とでも呼ぶべきものが病んでいるのです。
 
 そして、このような状況において、最近、注目されているのが、
 子供だけでなく父母を含めた家族全体を同時に癒す、
 「家族療法」と呼ばれる手法です。
 個別の部分にではなく、全体に同時に働きかけて治療を促そうという療法です。
 
 さて、お分かりでしょうか。
 これと同じように、複雑系としての企業においても、
 「病むときは、全体が病む」という状況が生まれます。
 すなわち、企業の抱える問題は、
 当初、ある部門が小さな問題を抱えることから始まるのですが、
 それが循環構造を通じて急速に悪影響と悪循環を広げていき、
 短期間に企業全体の問題へと拡大していくのです。
 
 例えば、ある部門の突発的な事故で収益が圧迫された企業が、
 全社的に収益改善運動に走るあまり、
 それに引きずられて開発部門が必要な開発投資を見送ることや、
 長期を見すえるべき戦略部門の目線が下がってしまうといった状況です。
 このように、複雑系としての性質を強める現代の企業においては、
 ひとたびある部門が「病む」と、その「病」が急速に全社に波及し、
 いわゆる「全体が病む」という状況を生み出してしまうのです。
 
 ■「東洋的治癒」の発想
 
 それでは、企業という複雑系が
 このような「全体が病む」という悪循環に陥った場合、
 経営者やマネジャーは、どのように対処すればよいのでしょうか。
 こうした状況において、経営者やマネジャーが、
 まず最初に理解しなければならないことがあります。
 
 「特効薬」はない。
 
 そのことです。
 すなわち、企業におけるこうした問題に対して、
 一つ、二つの「打ち手」によってその問題が解決するということはないのです。
 なぜならば、すでに述べたように、
 複雑系における問題は循環構造を形成しているため、
 「問題分析」→「原因究明」→「原因除去」→「問題解決」といった
 直線的思考に基づいて、「原因除去」といった対処方法では
 解決できないからです。
 これは、言葉を換えれば、
 患部切除手術や抗生物質投与によって病気を治すという
 「西洋的治療」の発想では、問題が解決できないことを意味しています。
 
 しかし、我々は、この「西洋的治療」の発想に無意識に染まっています。
 
 例えば、我々は病気になると病院に行きます。
 そこで細菌による感染症だと診断されると、大量の抗生物質をもらって飲みます。
 そのことによって細菌という「原因」を除去し、病気を治そうとするのです。
 
 これが「病気を治す」という言葉に象徴される、「西洋的治療」の発想です。
 
 そして、こうした発想に慣らされているため、
 我々は、無意識に、同様の発想によって、
 企業の病も「治療」しようとするのです。
 企業において、「責任転嫁ゲーム」や「犯人探し」を生み出しているのは、
 この無意識の発想に他なりません。
 
 しかし、複雑系としての企業が抱える多くの問題は、
 このような「西洋的治療」の発想では正しく対処できません。
 複雑系においては、先ほどの「家族療法」に象徴されるような
 「全体を同時に癒す」という発想、
 すなわち、「東洋的治癒」の発想を重視しなければならないのです。
 
 では、「東洋的治癒」の発想とは何でしょうか。
 
 もし、「西洋的治療」の発想が、
 「問題分析」→「原因究明」→「原因除去」→「問題解決」という
 直線的思考にもとづくものであるならば、
 この「東洋的治癒」の発想とは、どのようなものでしょうか。
 
 敢えて、分かりやすく述べましょう。
 
 「全体観察」→「構造理解」→「要所加療」→「全体治癒」という思考です。
 
 「東洋的治癒」の発想とは、
 この「全体観察」→「構造理解」→「要所加療」→「全体治癒」という
 循環的思考にもとづくものです。
 これは、先ほどの「抗生物質」の例と対比して、
 「漢方薬」の例で説明しましょう。
 
 例えば、我々が病気になって漢方療法を受けるとします。
 そこでは、病気の原因を病原菌だと診断するのではなく、
 「抵抗力の低下」←「体力の低下」←「食生活の不規則」←
 「生活習慣の乱れ」←「精神の問題」といったとらえ方をするのです。
 そして、それら全体に働きかけるような療法が提示されるのです。
 
 すなわち、病の原因を究明し、
 原因である病原菌を除去するといった発想ではなく、
 病とは体全体のバランスが崩れ、
 さらには生活のバランスや精神のバランスも崩れた状態であると考え、
 まず、精神を正し、生活を整え、
 そして、体の各部分それぞれの生命力を高めることによって、
 病が自然に治ることを目指すのです。
 
 これが「病気が治る」という言葉に象徴される、
 「東洋的治癒」の発想に他なりません。
 
 
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 第13回 なぜ「原因究明」によって問題を解決できないのか(その4)
     − 問題群の「循環構造」
 
┌────────────────────────────────────┐
 複雑系としての企業が抱える多くの問題は、
 「西洋的治療」の発想では正しく対処できません。
 複雑系においては、「全体を同時に癒す」という発想、
 すなわち、「東洋的治癒」の発想を重視しなければならないのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 問題群の循環構造における「要所」
 
 それでは、このような「東洋的治癒」の発想にもとづいて、
 複雑系としての企業の病を癒すためには、どうすればよいのでしょうか。
 
 まず、基本的には、「すべての部分に同時に働きかける」という発想が大切です。
 
 しかし、それは、どの部分にも「平等」に働きかけるということを
 意味していません。
 先ほど、「全体観察」→「構造理解」→「要所加療」→「全体治癒」という
 循環的思考が大切であると述べましたが、
 このうちマネジャーが特に理解すべきは、「要所加療」です。
 
 すなわち、東洋的な発想にもとづいて「治癒」を促すためには、
 まず、企業の抱える問題の全体を観察し、
 その循環の構造を理解することが必要です。
 しかし、そのうえで、問題が循環的に改善されていくためには、
 最初に手をつけるべき「要所」があるのです。
 そこを押さえれば、あとは、順次、好循環が広がっていくという部分です。
 
 それは東洋医学的な言葉にすれば「ツボ」とでも呼ぶべき部分です。
 
 まさにこれを見抜く力が、マネジャーには求められるのです。
 しかし、このように述べると、
 「西洋的治療」の発想に染まったマネジャーから、すぐに質問が出そうです。
 
 「そのツボは、そもそも問題の発端となった部署でしょう」という質問です。
 
 しかし、この考えは必ずしも正しくありません。
 その理由は二つあります。
 
 一つは、問題の発端となった部署から手をつけることが
 必ずしも最善の打ち手ではないからです。
 例えば、販売部門の不振から生じた経営の問題を、
 開発部門の強化によって新商品開発で打開するといったことは、
 しばしばあります。
 もう一つは、複雑な企業経営の問題においては、
 そもそも、問題の発端となった部署そのものが分からないことが多いからです。
 
 それでは、どのようにすれば、その「要所」が見えてくるのでしょうか。
 
 ■ 「大局観」の本質
 
 実は、それゆえにこそ、マネジャーには「大局観」が求められるのです。
 
 なぜなら、大局観とは、ある意味で「構造理解」の力量だからです。
 
 すなわち、大局観とは、
 企業の直面する様々な問題群が形成する「循環構造」を把握する能力なのです。
 しかし、それは決して「個別分析」という方法によって
 行われるのではありません。
 すでに述べたように、そうした方法によっては
 「大切な何か」が見失われてしまうからです。
 そして、企業の現実は、そうした方法によって理解できるほど
 単純ではないからです。
 従って、企業の直面する問題群の循環構造を把握することは、
 個別に分析をするのではなく、
 全体をありのままに観察する「全体観察」という方法によって
 行われるべきなのです。
 
 では、ありのままに全体を観察するだけで、
 なぜ複雑な表面現象の奥にある
 「問題群の循環構造」を把握することができるのでしょうか。
 これも誤解を恐れずに、言いましょう。
 
 「浮かび上がって見える」のです。
 
 その心的プロセスを敢えて言葉にすれば、まさに浮かび上がって見えるのです。
 
 例えば、プロゴルファーが好調のときには、
 グリーンでのパッティングにおいて、
 ホールまでのパッティング・ラインが「浮かび上がって見える」と言われますが、
 この全体観察においても、それと同様の心的プロセスが生じるのです。
 そして、その心的プロセスを、別な言葉で表現することもできます。
 
 「コンステレーション」(布置)が見えてくるのです。
 
 ここで、「コンステレーション」とは「星座」とも訳される言葉ですが、
 夜空に無数に輝く星々の中に、
 「さそり」や「大熊」などの様々な「星座」が見えるように、
 一見して無意味に見える集合の中から、
 いくつかの部分だけが特定の関連性と意味を持って
 浮かび上がって見えることです。
 
 すなわち、全体観察において循環構造を把握する心的プロセスとは、
 このように、複雑な表面現象の中から特定の部分が
 コンステレーションを形成して、
 浮かび上がって見えるプロセスに他なりません。
 
 こうした心的プロセスこそが、大局観というものの本質なのです。
 
 そして、同様の心的プロセスによって、
 「循環構造の要所」も浮かび上がって見えてくるのです。
 もし、そのことを理解するならば、
 こうした全体観察による大局観において、
 大切な力が何であるかが分かるでしょう。
 
 それは、「感じる力」です。
 
 大局観という力量の本質は、「考える力」ではなく「感じる力」なのです。
 その「感じる力」によって、
 「問題群の循環構造」や「循環構造の要所」を把握するのです。
 このことを、やはり、誤解を恐れず言いましょう。
 
 大局観の本質とは、「論理的思考」ではなく、むしろ「幾何的感覚」なのです。
 
 例えば、大局観に優れたマネジャーがしばしば使う言葉に、
 
 「バランスが良くない」
 「筋が悪い」
 「形を成していない」
 
 などの表現があります。
 これらは、いずれも幾何的感覚とでも呼ぶべき表現に他なりません。
 そして、それは、さらに言えば「美的感覚」にも通じるものです。
 
 このことを理解するならば、
 熟練のマネジャーが、極めて難しい決断が求められるときに、
 「善悪」の判断よりも
 「美醜」の感覚を大切にする理由も、理解できるでしょう。
 そして、ビジネスマンに
 「美学」や「美意識」が求められる理由も、理解できるでしょう。
 それは、美的感覚を磨くことなく、
 優れた大局観を発揮することはできないからです。
 
 そして、このことを理解するとき、我々は、知るのです。
 
 現代の企業社会において、
 なぜ、「アーティスト」の感性を持った経営者が活躍しているのか。
 
 その理由を、知るのです。
 
 
★14
 第14回 なぜ「矛盾」を安易に解決してはならないのか
     − 「生きたシステム」の本質
 
 ■ どちらにも「一理」ある問題
 
 マネジメントにおいては、しばしば、
 「どちらにも一理ある」と言いたくなる問題に直面することがあります。
 皆さんは、こうした会議を経験したことはないでしょうか。
 
 例えば、会議において、あるマネジャーが主張します。
 
 「こうした業績が上がらないときだからこそ、
  とにかく営業に集中して、徹底的にやっていくべきだ」
 
 これに対して、別のマネジャーが反論します。
 
 「しかし、営業不振の原因は、差別化商品の弱さにあるのだから、
  ここは苦しくても『急がば回れ』で商品開発にこそ力を入れていくべきだ」
 
 また、例えば、会議において、あるマネジャーが主張します。
 
 「この重要なプロジェクトを成功させるためには、
  是非とも、第一線の熟練の人材を投入して欲しい」
 
 これに対して、やはり別のマネジャーが反論します。
 
 「しかし、常にプロジェクトに熟練の人材を投入していたのでは、
  新人が育たない。熟練の人材は全社的に不足している。
  何とか、人を育てながらプロジェクトを進めて欲しい」
 
 こうした問題です。
 たしかに、こうした議論を客観的に聞いていると、
 多くの場合、どちらにも「一理」があると感じられます。
 そして、これらの議論に対しては、
 決定的な「正解」は存在しないのではないかと感じられるのです。
 それは、ある種の「矛盾」に直面した感覚とも言えるでしょう。
 
 前回は、複雑系としての企業では、
 問題群が循環構造を形成していると述べました。
 そして、この問題群の循環構造が、
 「問題分析」→「原因究明」→「原因除去」→「問題解決」という
 直線的な問題解決を困難にしていると述べました。
 しかし、この問題群の循環構造は、
 マネジメントに、もう一つの問題をもたらすのです。
 それは、端的に言えば、
 こうしたマネジメントにおける「矛盾」というものを我々に突きつけるのです。
 
 ■ 循環構造の人為的な切断
 
 では、なぜ、企業において、
 こうした「矛盾」と呼ぶべき問題が生じてくるのでしょうか。
 
 それは、実は、問題群の循環構造を人為的に切断することによって
 現れてくるのです。
 
 例えば、前回において引用した
 「販売収益」→「開発投資」→「商品開発」→「販売収益」という
 循環構造を取り上げてみましょう。
 
 この循環構造を、いま、「販売収益」の部分で切断して問題を捉えるならば、
 「販売収益」が上がらないから「開発投資」ができず、
 その結果「商品開発」が進まないという問題として現れてきます。
 
 しかし、この循環構造を「商品開発」の部分で切断して問題を捉えるならば、
 「商品開発」が成功しないから「販売収益」が上がらず、
 その結果「開発投資」に予算を回せないという問題として現れてきます。
 
 このように、企業という複雑系においては、
 その問題群の循環構造を「全体像」として捉えることなく、
 任意の部分で切断し、直線論理として理解しようとすると、
 「矛盾」のごとく見える問題が現れてくるのです。
 すなわち、この例で言えば、
 「販売収益が上がらないから商品開発が成功しない」
 「商品開発が成功しないから販売収益が上がらない」といった、
 直線論理から見るならば明らかに「矛盾」に見える問題を生み出すのです。
 
 従って、マネジメントにおいて大切なことは、
 このような直線論理で考えることによって生まれてくる
 「矛盾」に見える問題に個別に目を奪われることなく、
 様々な「矛盾」を含んだ問題群の循環構造の全体像を理解することです。
 そして、それによって、
 あくまでもそれら問題群の全体を同時に解決に向かわせていくことなのです。
 
 ■ 「割り切り」という解決策
 
 しかし、多くの場合、
 我々は、こうした「複雑性」を持った問題群の循環構造を目の前にしたとき、
 それを直線論理によって人為的に切断し「単純化」してしまうのです。
 
 そして、安易に問題の「割り切り」を行ってしまうのです。
 
 例えば、「まず、とにかく販売収益を上げよう」や
 「要するに、商品開発がすべてだ」といった「割り切り」です。
 そして、我々が、こうした「割り切り」を行ってしまう理由は明確です。
 
 それは、「割り切り」を行わないと、自己の精神が安定しないからです。
 
 心の中に「矛盾」を抱えていると
 何か不安になってしまうのが、我々人間の常でしょう。
 そこで、「割り切って」しまう。
 
 その不安に耐え切れず、精神的に楽になりたい誘惑に負けてしまうのです。
 そして、こうしたマネジャーは、
 自分自身に言い聞かせるように、独りでつぶやくことになるわけです。
 「要するに、販売収益を上げなければ、商品開発も何も始まらないんだ・・・」
 などとつぶやくことになるのです。
 
 
★15
 第15回 なぜ「矛盾」を安易に解決してはならないのか
     − 「生きたシステム」の本質
┌────────────────────────────────────┐
 多くの場合、我々は、
 「複雑性」を持った問題群の循環構造を目の前にしたとき、
 それを直線論理によって人為的に切断し「単純化」してしまうのです。
 そして、安易に問題の「割り切り」を行ってしまうのです。
 
 例えば、「まず、とにかく販売収益を上げよう」や
 「要するに、商品開発がすべてだ」といった「割り切り」です。
 そして、我々が、こうした「割り切り」を行ってしまう理由は明確です。
 それは、「割り切り」を行わないと、自己の精神が安定しないからです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「楽になる」ことを求める精神
 
 しかし、ここで大切な問題があります。
 同じ「割り切り」を行っているように見えても、
 まったく違った状況があるのです。
 
 例えば、こういう状況です。
 野球において9回裏1点差ツーアウト満塁の場面などです。
 こうした場面で、監督が新人のバッターに対して、
 「とにかくフォークは捨てて、直球だけに絞っていけ」といった
 アドバイスをするときがあります。
 こうした場面において、監督は、
 ときに「割り切り」と思えるほどの明解な現場への指示をすることがあるのです。
 
 しかし、これは、先ほどのマネジャーとは、まったく違った精神です。
 この監督は、現場の部下に対する指示においては
 たしかに一つの「割り切り」を行っているように見えますが、
 決して心の中では「楽になって」いません。
 「フォークを捨てるか、直球を捨てるか」で、監督としてぎりぎりの決断をし、
 その決断の結果がどちらに出ようとも、
 自分ですべての責任を取る覚悟を持っているのです。
 
 要するに、精神の厳しさを保持しているのです。
 
 すなわち、この監督は、「割り切り」を行っているのではないのです。
 では、何を行っているのか。
 
 「腹決め」を行っているのです。
 
 精神の厳しさを保持した「腹決め」を行っているのです。
 そして、この「腹決め」と「割り切り」とは、まったく似て非なるものなのです。
 
 なぜなら、先ほどのマネジャーが「割り切り」を行う理由は、
 あくまでも自分の心が「楽になりたい」からです。
 「矛盾」した問題を抱えて対処し続けることの緊張感に耐えられないのです。
 従って、こうしたマネジャーは、
 その「割り切り」をぎりぎりの決断として行っているわけでもなければ、
 その「割り切り」の結果に対して
 自分ですべての責任を取る覚悟を持っているわけでもありません。
 こうしたマネジャーの精神は、
 先ほどの監督の持つ精神の厳しさとは対極にあるのです。
 
 かつて文芸評論家の亀井勝一郎が、
 「割り切りとは、精神の弱さである」と喝破していますが、
 この言葉は、我々マネジャーが、
 マネジメントにおける「矛盾」に直面したときに思い起こすべき言葉でしょう。
 たしかに、我々マネジャーは、実際の現場のマネジメントや部下への
 指示においては、ある種の「腹決め」をするときがあります。
 そうでなければ、現場が動かないからです。
 しかし、それは、決して「割り切り」であってはならない。
 
 我々マネジャーは、精神の厳しさを保持した「腹決め」は行うべきなのですが、
 精神の弱さから来る「割り切り」は、決して行うべきではないのです。
 
 なぜならば、マネジャーが精神の弱さから「割り切り」を行ったとき、
 それは、たとえ心の奥深くの世界であっても、
 必ずと言ってよいほどマネジメントの結果に影響を与えるからです。
 そうしたマネジャーの精神が、部下の教育に与える影響は大きいのです。
 もし、マネジャーが、その精神の弱さがゆえに「割り切り」を行うならば、
 そのマネジャーの下にいる部下は育ちません。
 
 例えば、先ほどの野球の例で述べたようなぎりぎりの場面で、
 監督が新人の打者に対して「腹決め」のアドバイスを行うことはあります。
 しかし、この場面で「割り切り」のアドバイスを行うならば、
 その新人の打者は、決して優れた打者には育たないでしょう。
 それは、なぜか。
 
 優れた人材とは、究極、
 多くの「矛盾」を抱えた現実を前に、精神の強さを失うことなく、
 その「矛盾」と対峙し、自己の責任を賭した決断を行える人材だからです。
 
 もし、マネジャーが、その精神の弱さがゆえに「割り切り」を行うならば、
 それを見習う部下もまた、その精神の強さを身につけることはできないのです。
 そのことを、我々マネジャーは、肝に命じるべきでしょう。
 
 従って、マネジャーが真に優れた部下を育てたいと考えるならば、
 部下に伝えるべきは「矛盾を解消するための方法」ではありません。
 
 彼が部下に教えるべきは、「矛盾と対峙し続ける姿勢」なのです。
 
 言葉を換えれば、我々マネジャーは、
 部下に対して「マネジメントの本質は、矛盾との対峙である」との真実をこそ、
 伝えなければならないのです。
 
 
★16
 第16回 なぜ「矛盾」を安易に解決してはならないのか
     − 「生きたシステム」の本質
┌────────────────────────────────────┐
 マネジャーが真に優れた部下を育てたいと考えるならば、
 部下に伝えるべきは「矛盾を解消するための方法」ではありません。
 彼が部下に教えるべきは、「矛盾と対峙し続ける姿勢」なのです。
 
 言葉を換えれば、我々マネジャーは、
 部下に対して「マネジメントの本質は、矛盾との対峙である」との真実をこそ、
 伝えなければならないのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「生きたシステム」の本質
 
 では、なぜ、我々マネジャーは、「矛盾」と対峙し続けなければならないのか。
 
 「矛盾」とは「生きたシステム」の本質に他ならないからです。
 
 そして、企業とは、まさに「生きたシステム」だからです。
 前回において、企業とは高度な複雑系であり、
 「生きたシステム」であると述べました。
 そして、いま、科学の最先端において
 複雑系の研究が進められていることを述べました。
 この複雑系の研究においては「生命」というものの本質を研究しているのですが、
 そこでしばしば使われる言葉に、興味深い言葉があります。
 
 「カオスの縁」(Edge of Chaos)という言葉です。
 
 この言葉の意味するものは、生命的な現象とは
 「完全な秩序」(オーダー)でもなく「完全な混沌」(カオス)でもない、
 その中間にある絶妙のバランスの領域、
 すなわち「カオスの縁」において生じるということです。
 
 すなわち、複雑系のような「生きたシステム」は、
 相対立する「矛盾」の狭間の絶妙のバランスの中にこそ出現するのです。
 従って、その「生きたシステム」の「矛盾」を解消してしまうと、
 そのシステムは文字通り「生命力」を失ってしまうのです。
 
 これは、企業という「生きたシステム」においても同様です。
 企業経営において我々が直面する「矛盾」を
 「割り切り」によって解消してしまうと、
 企業というものの持つ「生命力」が失われてしまうのです。
 
 一例を挙げましょう。
 マネジメントにおける「矛盾」の典型的なものとして
 「長期的戦略」と「短期的収益」があります。
 これらは、企業経営において、いずれも極めて重要なものであり、
 両者の絶妙なバランスの上に企業というものの生命力があるのですが、
 これらの「矛盾」を「割り切り」によって解消してしまうと、
 企業というものはバランスを崩し、その生命力が失われてしまいます。
 例えば、「とにかく目の前の収益だ」と割り切って
 特定の事業領域での収益拡大に突進した企業が、
 新しい事業領域への戦略展開を怠ったがために、
 経営環境の変化が生じたとき、それにあわせて事業構造を変えることができず、
 一時の隆盛が見る影もなくなった例など枚挙にいとまがありません。
 
 そして、こうした「割り切り」の精神は、
 「収益至上主義」の過ちだけでなく、
 「戦略至上主義」の過ちになるときもあります。
 
 例えば、ときおり、戦略部門において、
 「収益」との緊張関係を持つことなく「戦略」を語るマネジャーを見かけます。
 しかし、「戦略」を語るマネジャーこそ、
 「収益」というものの重さや意味を、
 誰よりも深く理解していなければならないのです。
 なぜなら、もし仮に、戦略部門のマネジャーに、
 「自分は戦略部門だから長期的なビジョンや戦略を描いていればよい」といった
 「甘え」がわずかでもあれば、
 それは必ず、彼が描く「戦略」や「ビジョン」というものから
 生命力を失わせてしまうからです。
 戦略マネジャーは、まず何よりも、その怖さを知っておくべきでしょう。
 
 ■ 「バランス感覚」という力量
 
 もう一度述べましょう。
 
 マネジメントの本質は、「矛盾」との対峙です。
 
 それゆえ、マネジャーの力量とは、
 その「矛盾」の両極の間でバランスを取る力に他なりません。
 そして、この「バランス感覚」とでも呼ぶべき力量は、
 熟練のマネジャーならば、誰もがその重要性を理解しているものであり、
 マネジャーにとっての最も高度な力量なのです。
 いや、それはマネジャーにとってだけでなく、
 政治家や官僚、さらには、スポーツ監督やボランティア活動家にいたるまで、
 「矛盾」を抱えた「現実」と対処する
 すべての職業において求められる力量なのです。
 
 実は、仏教における「中道」の思想や、儒教における「中庸」の思想の本質も、
 まさにこの点にあります。
 そして、西田幾多郎の語る「絶対矛盾的自己同一」という言葉の機微も、
 まさにここにあるのです。
 
 しかし、このような「バランス感覚」を持つ熟練のマネジャーは、
 現場のスタッフから誤解を受けることも多いのです。
 なぜならば、こうしたマネジャーのマネジメント・スタイルを、
 現場のスタッフの立場から見ていると、
 しばしばそれ自身が「矛盾」に満ちて見えるからです。
 
 例えば、長期的戦略と短期的収益のバランスの上に
 企業の生命力があると述べましたが、
 こうした「バランス感覚」を身につけた熟練のマネジャーは、
 長期的戦略を忘れて短期的収益のみに走り込む部下に対しては
 「戦略を考えろ」と忠告し、
 一方、ビジョンと戦略だけに目が向いている観念的なスタッフに対しては
 「収益の視点を忘れるな」との叱責をするからです。
 
 もとより、部下指導の基本は、仏教思想に言う「対機説法」、
 すなわち「部下の持っている力量に応じて語る」ことであるため、
 部下によって言うことが違わざるを得ないのですが、
 これに加えて、この「バランス感覚」がゆえに
 「部下の置かれている状況」に応じて、語ることが違ってくるのです。
 従って、この機微を理解できない現場のスタッフからは、
 こうしたマネジャーの姿は「矛盾している」としか映らないでしょう。
 そして、優れた経営者でありながら、
 「矛盾だらけ」との陰口をたたかれている経営者が少なくないのは、
 こうしたことが理由でもあるのです。
 
 ■ マネジャーの「器の大きさ」
 
 臨床心理学者の河合隼雄氏が、心理療法における著者の中で語っています。
 
 「一つのことを言うと、まったく逆のことを言いたくなる」
 
 その言葉を語っています。
 「矛盾」に対峙することがマネジメントの本質であり、
 「矛盾」の両極の間でバランスを取ることが
 マネジメントの役割であることを考えるならば、
 この言葉は、単にカウンセラーだけでなく、
 すべてのマネジャーが深く理解しておくべき言葉でしょう。
 そして、もしマネジメントが、真にその役割を果たしていこうとするならば、
 河合隼雄氏の言葉に象徴されるような
 「心の葛藤」を抱き続けて歩まざるを得ないのです。
 それは、「割り切り」によって心を楽にしたいとの衝動と戦い続け、
 「矛盾」を解消することなく対峙し続けるという意味で、
 極めて強靱な精神が求められる世界に他ならないのです。
 
 しかし、我々は、その苦しみに直面したとき、
 かつて亀井勝一郎が残した言葉を思い起こすべきでしょう。
 
 「魂の力とは、壮大な矛盾を心に抱き続ける力である」
 
 この言葉が、ときに心の弱さに流されそうになる自分を
 励ましてくれるときがあります。
 そして、この言葉が、深く教えてくれるときがあります。
 
 マネジメントとは、
 いかなる芸術や宗教にも劣らぬほどに「魂の力」が問われる、
 極めて深みある世界である。
 
 その真実を、この言葉が教えてくれるのです。
 
 そして、この言葉は、
 優れた経営者やマネジャーに贈られる「器の大きな人物」という賛辞が
 真に意味するものを教えてくれるのです。
 
 
 
★17
  第17回 なぜ「多数」が賛成する案が成功を保証しないのか(その1)
      - 「予測」できない未来
 
 ■ 「流される」マネジャー
 
 皆さんは、会議において、
 「流される」マネジャーを見かけることがないでしょうか。
 
 言葉を換えれば、「多数」の意見に左右されるマネジャーです。
 
 もちろん、実際に多数決を行うわけではないのですが、
 会議の雰囲気の中でメンバーの意見を探り、
 最も反対の少ない案に無意識になびいていくマネジャーです。
 こうしたマネジャーは、
 たしかに、参加者の意見を良く聞いているようなのですが、
 一つ勘違いしていることがあります。
 
 それは、無意識に、会議を「民主主義の場」であると思っているのです。
 
 もとより、民間企業における会議では、
 様々な意見が提出され、交換されることが望ましいのですが、
 しかし、その会議は、最終的には、
 それぞれの組織のマネジャーが
 「責任」を持って意思決定をしていくための場に他なりません。
 それにもかかわらず、ある種のマネジャーは、
 こうした原則を忘れ、会議の雰囲気に流され、
 無意識に多数決の意思決定を行ってしまうのです。
 
 しかし、こうして無意識の多数決を行っても、
 実は、この多数決による意思決定が
 成功に結びつく可能性は、決して高くありません。
 特に、現代の企業においては、そうです。
 なぜでしょうか。
 
 現代の市場が、
 「創発性」(emergence)や
 「自己組織性」(self organization)という
 性質を強めているからです。
 
 前回において、現代の企業は「高度な複雑系」であると述べました。
 そして、複雑系とは「生きたシステム」に他ならないと述べました。
 
 同様に、現代の市場もまた、
 「高度な複雑系」であり、「生きたシステム」なのです。
 
 そして、ここで言う「生きたシステム」とは、
 この「創発性」や「自己組織性」という性質を持ったシステムのことです。
 では、市場の「創発性」や「自己組織性」とは、どのような性質でしょうか。
 
 それは、市場に外部から働きかけなくとも、
 一人ひとりの消費者や個々の企業が自発的に活動しているだけで、
 市場に自然に秩序や構造が生まれてくる性質のことです。
 
 例えば、市場において、突然、人気商品のブームが起こるときがあります。
 これは、一人ひとりの消費者は、
 自発的に好きな商品を買っているだけなのですが、
 結果として、企業も予想しなかったようなブームが生まれてくるのです。
 また、市場における
 「デファクト・スタンダード」(事実上の標準)の成立も、その一例です。
 これは、特に政府などが公式の標準規格として定めなくとも、
 市場で消費者や企業に自然に選択された結果、
 ある商品の規格が事実上の標準規格になっていくのです。
 さらに、そういう意味では、
 かつてアダム・スミスが語った「神の見えざる手」という思想も、
 市場の持つ「創発性」や「自己組織性」について語ったものと言えるでしょう。
 
 ■ 「個人」の直観力の時代
 
 それでは、このように市場が「創発性」や「自己組織性」を高めていくと、
 マネジメントの世界において、いったい何が起こるのでしょうか。
 端的に言いましょう。
 
 「明日は何が起こるか、まったく分からない」という状態が生まれるのです。
 そして、
 「思うように動かそうとしても、動かない」という事態が生じるのです。
 
 例えば、虫や魚、鳥や獣など、生き物の行動は正確に予測ができないように、
 そして、正確にコントロールできないように、
 創発性や自己組織性を持った「生きたシステム」は、
 やはり、予測もできなければ、コントロールもできないのです。
 従って、市場が「創発性」や「自己組織性」を高めていくと、
 「明日は何が起こるか、まったく分からない」という意味で、
 分析や推理による「将来予測」が意味を失い、
 「思うように動かそうとしても、動かない」という意味で、
 設計や企画による「将来計画」が意味を失ってしまうのです。
 
 では、そうした「明日は何が起こるか、まったく分からない」
 という状態において、
 マネジャーにはいかなる能力が求められるのでしょうか。
 ここでもまた、答えは同じです。
 
 直観力や洞察力です。
 
 単なる分析力や推理力では予測できない未来に対処するためには、
 何よりも、直観力や洞察力が求められることになるのです。
 しかし、この直観力や洞察力というものは、
 分析力や推理力に比べ、決定的に異なった特徴を持っています。
 
 それは、それが極めて「個人的な能力」であるという点です。
 
 すなわち、分析力や推理力については、
 「一人の個人」が単独で発揮する能力よりも、
 「複数の人間」が集団で発揮する能力のほうが一般に高いと言えます。
 しかし、直観力や洞察力については、
 優れた「一人の個人」が発揮する能力のほうが、
 「複数の人間」が集団で発揮する能力よりも高いことが多いのです。
 
 従って、「明日は何が起こるか、まったく分からない」という時代において、
 市場の動向を把握し、企業の進路を定めていくために求められるのは、
 集団の分析力や推理力ではなく、何よりも優れた個人の直観力や洞察力なのです。
 そして、このことが、
 現代の企業においては、
 多数の意見が必ずしも成功を保証しない理由に他ならないのです。
 
 しかも、それは、重要な案件であればあるほど、真実です。
 
 なぜならば、より重要な案件ほど、分析や推理をすることが困難であり、
 より高度な直観と洞察が要求されるからです。
 
 
★18
 第18回 なぜ「多数」が賛成する案が成功を保証しないのか(その2)
     − 「予測」できない未来
┌────────────────────────────────────┐
 「明日は何が起こるか、まったく分からない」という時代において、
 市場の動向を把握し、企業の進路を定めていくために求められるのは、
 集団の分析力や推理力ではなく、何よりも優れた個人の直観力や洞察力です。
 
 そして、このことが、
 現代の企業においては、
 多数の意見が必ずしも成功を保証しない理由に他ならないのです。
 
 しかも、それは、重要な案件であればあるほど、真実です。
 
 なぜならば、より重要な案件ほど、分析や推理をすることが困難であり、
 より高度な直観と洞察が要求されるからです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「合意形成」という幻想
 
 このように、これからの時代には、
 マネジャー個人に優れた直観力や洞察力が求められるのです。
 しかし、それは同時に、マネジャーには、
 これまでの「意思決定」のスタイルの転換が求められることを意味しています。
 すなわち、これまでの日本企業における意思決定のスタイルは、
 「稟議を回して全員で決める」というものでした。
 
 しかし、これからの意思決定スタイルは、
 「衆知を集めて独りで決める」というものになっていくのです。
 
 そして、この意思決定スタイルを転換するためには、
 マネジャーにまず最初に求められることがあります。
 
 それは、「合意形成」に対する幻想を捨てることです。
 
 すなわち、日本企業のマネジャーの多くは、
 これまでの「右肩上がり」の高度経済成長と
 「護送船団方式」の保護規制市場に慣らされてきたため、
 市場や企業というものを、
 「予測可能」で「計画可能」なものであると考える傾向が強いのです。
 そのため、市場や企業に関わる意思決定においても、
 「科学的な調査分析をすれば正確な未来予測ができる。
 そして、正確な未来予測ができれば、その結果をもとに
 多数の合意形成ができる」という無意識の感覚を抱いているのです。
 
 しかし、これからの「景気低迷」の低経済成長と
 「市場自由化」の自由競争市場においては、
 市場と企業というものが複雑系としての強い性質を示すため、
 それを「予測可能」で「計画可能」なものであると考えることはできません。
 すなわち、市場や企業に関わる意思決定においては、
 そもそも「科学的な調査分析」が困難なのです。
 そして、その必然的な結果として、
 市場や企業の「正確な未来予測」も不可能になります。
 従って、「正確な未来予測」にもとづく「多数の合意形成」もできないという
 事態に直面することになるのです。
 
 それでは、こうした意思決定スタイルの転換が求められる時代において、
 マネジャーに求められる最も大切な力量は何でしょうか。
 
 それは「決断力」と呼ばれる力量です。
 
 もとより、この言葉も、マネジャーであるならば誰もが
 知っている言葉なのですが、
 実は「決断力とは何か」ということについて
 正しく理解しているマネジャーは必ずしも多くはありません。
 
 では、決断力を持ったマネジャーとは、いかなるマネジャーでしょうか。
 分かりやすく述べましょう。
 
 勘が鋭く、腹が据わり、言葉に力のあるマネジャーです。
 
 ■ 勘が鋭いマネジャー
 
 まず第一の「勘が鋭い」という資質は、
 すでに何度か述べたように、
 「直観力」や「洞察力」を持っているということです。
 この資質についてはもはや多くを説明する必要はないでしょうが、
 一つだけつけ加えておきましょう。
 
 「勘が鋭いマネジャー」にとっては、多くの場合、
 「未来を予測する」という言葉と「未来を創造する」という言葉が
 同義語なのです。
 
 先ほど述べたように、
 これからの時代は「複雑系の時代」とでも呼ぶべき時代であり、
 未来を予測することが困難な時代となっていきます。
 そして、こうした時代に求められる思考のスタイルは、
 「未来はどうなるか」という未来予測のスタイルではありません。
 
 「未来をどうするか」という未来創造のスタイルなのです。
 
 しかし、不思議なことに、直観力や洞察力に優れたマネジャーの多くは、
 「なぜか、未来が自分の予測通りになっていく」という感覚を抱いているのです。
 こうしたマネジャーの心の中では、
 「未来予測」と「未来創造」という言葉が融合しているのです。
 
 例えば、次々とヒット商品を生み出すマネジャーは、
 それが自分の市場予測が当たったからそうなったのか、
 自分が市場の未来をそのように創造したからそうなったのか、
 という二つの感覚が区別できないのです。
 
 このことは、「予言の自己実現」の問題として、
 実は直観力や洞察力という力量の本質を考えるとき、
 極めて重要な意味を持っているのですが、
 そのことについて語るのは、別な機会に譲りましょう。
 ただ、一つだけ確かなことがあります。
 
 それは、これからの「複雑系の時代」が、
 「未来がどうなるか」との客観的予測よりも、
 「未来をどうするか」との主観的意志にこそ、
 大きな価値が置かれる時代になっていくということです。
 
 
★19
┌─┐
│01│なぜマネジメントが壁に突き当たるのか - 成長するマネジャー 12の心得 -
└─┴───────────────────────────────────
第19回 なぜ「多数」が賛成する案が成功を保証しないのか(その3)
    − 「予測」できない未来
┌────────────────────────────────────┐
 意思決定スタイルの転換が求められる時代において、
 決断力を持ったマネジャーとは、いかなるマネジャーでしょうか。
 
 勘が鋭く、腹が据わり、言葉に力のあるマネジャーです。
 
 そして、第一の「勘が鋭い」という資質は、
 すでに何度か述べたように「直観力」や「洞察力」を持っているということです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 腹が据わっているマネジャー
 
 さて、第二の「腹が据わっている」という資質は、
 言葉を換えれば、「リスクを取る」ということです。
 
 すなわち、「決断力」とは単に「直観力」があるだけでは十分ではないのです。
 この「リスクを取る」「自ら責任を取る」という精神がなければ
 決断力を発揮することはできません。
 
 例えば、日本企業においてしばしば見かけるのは、
 「頭の良い評論家タイプ」のマネジャーです。
 会議における様々な案件について、しばしば鋭い意見を述べるのですが、
 いざ、「コミットメント」を求められると「引け腰」になるタイプの
 マネジャーです。
 こうしたマネジャーは、俗に言う
 「頭は良いけれど、部下はついてこない」
 というタイプのマネジャーではないでしょうか。
 こうしたマネジャーの下で、部下は、必ずと言ってよいほど
 「梯子を外される」という苦い経験を持つからです。
 
 特に、マネジャーは、この「コミットメント」の大切さを自覚すべきでしょう。
 
 なぜならば、これからの時代において、マネジャーの役割とは、
 ある意味で「予測できない未来に責任を持つ」という役割となっていくからです。
 「未来に何が起ころうとも自分の責任である」という覚悟。
 こうした「結果責任」という覚悟を持つことのできる力、
 すなわちコミットメントする力こそが、決断力の要件となっていくのです。
 
 ■ 言葉に力のあるマネジャー
 
 そして、第三の「言葉に力がある」という資質は、「説得力」ということです。
 
 例えば、部下の意見や企画を前向きに受け止め、
「よし、やろう」と意思決定します。
 しかし、いざそれを経営トップの了解を取る、
 もしくは、社内の会議で承認を得るというとき、
 これができないというマネジャーがいます。
 こうしたマネジャーは、要するに、「説得力」がないのです。
 
 改めて言うまでもなく、「企画」というものは、
 実施されて初めて「企画」と呼べるのであり、
 採用もされなければ実施もされない「企画」は、
 単なる「アイデア」に過ぎません。
 
 こうした認識は、企業内の「企画部門」と呼ばれる部門のマネジャーは
 胸に刻んでおくべき警句ですが、
 そもそも、企画部門において「部下の努力に報いる」とは、
 彼らの立案した企画が「陽の目を見る」ようにすることなのです。
 そして、そのためにこそ、我々マネジャーは、
 経営トップの了解を取り、
 社内の会議で承認を得ることができなければなりません。
 従って、「説得力」という力量は、決断力の不可欠の要件なのです。
 しかし、ここで我々は、次の問いに直面します。
 
 それでは、「説得力」とは何か。
 
 その問いです。
 
 しかし、おそらく、この「説得力」という言葉の意味を、
 「客観性」や「論理性」という言葉と結びつけて理解しているマネジャーが
 多いのではないでしょうか。
 それゆえ、多くのマネジャーは、
 経営トップへの説明や社内会議での説明においては、
 膨大な市場調査結果や緻密なデータ分析結果を提示して、
 客観性や論理性を強調し、経営トップや社内を説得しようとするのです。
 
 もとより、一つの企画を通すときに客観性や論理性といった条件は
 最低限の条件ではあるのですが、
 それは「必要条件」であって、決して「十分条件」ではありません。
 言い換えれば、客観性や論理性だけでは言葉に力が生まれないのです。
 そして、それゆえ、経営トップや社内の了解は取れないのです。
 
 ■ 言葉に力を与えるもの
 
 では、言葉に力を与えるものとは何でしょうか。
 それを適切に表現する言葉はないのですが、敢えて言葉を選びましょう。
 
 それは「信念」です。
 
 その企画が必ず成功するという確信、
 その企画を絶対に成功させるという決意、
 そうした意味での「信念」をどれほど持っているか。
 そのことが、実は、隠しようもなく言葉に表れてしまうのです。
 
 例えば、熟練の経営者が、重要な企画の説明を受けるとき、
 じっとマネジャーの目を見つめるときがあります。
 それは、そのマネジャーが企画の内容について
 どれほど優れた「意見」を語っているのかを見ているのではありません。
 
 それは、彼が企画の実現に向けて
 どれほど強い「決意」を持っているのかを見ているのです。
 
 そもそも、企画とは、
 それが重要な企画であればあるほど、
 その「内容」は形式的な意味しか持たなくなるものです。
 なぜならば、どれほど論理的かつ詳細に構想された企画でも、
 所詮、その企画通りに物事が進むことはないからです。
 
 それゆえ、熟練の経営者が見ているのは、企画の論理性や緻密性ではありません。
 それは、戦略やビジョンですらありません。
 究極、その経営者が見ているのは、ただ一つです。
 
 その企画を提案してきたマネジャーの、決意の強さと確信の深さです。
 
 どのような企画でも、それが優れた企画であればあるほど、
 必ず一度や二度は「予想外の困難」に直面します。
 そのとき支えになるのは、
 企画の論理性でも詳細なデータでもありません。
 そのとき支えになるのは、
 あらゆる創造性を発揮して困難を突破していこうとする
 マネジャーの強い決意であり、
 プロジェクト・メンバーが信頼を寄せることのできる
 マネジャーの深い確信に他ならないのです。
 
 「言葉」とは、それを語る人間がどれほどの「信念」を持っているか、
 隠しようもなく映し出してしまうものです。
 それゆえ、そうした信念に支えられた「言葉の力」を持たないマネジャーは、
 企画を「説得力」をもって語ることはできないのです。
 そして、信念がなければ、
 「リスクを取る」という覚悟を固めることもできないのです。
 
 そして、そうした信念のないマネジャーには、
 「直観」や「洞察」が閃く瞬間もまた、決して訪れないのです。
 
 
★20
┌─┐
│02│なぜマネジメントが壁に突き当たるのか - 成長するマネジャー 12の心得 -
└─┴───────────────────────────────────
 第20回 なぜ成功するマネジメントは「完璧主義」に見えるのか(その1)
     − 「細部」に宿る神
 
 ■ 「完璧主義者」のマネジャー
 
 皆さんの職場には、「完璧主義者」と呼ばれるマネジャーがいないでしょうか。
 
 「なぜ、あのマネジャーは、あんな小さなことに、あれほどこだわるのか」と
 周囲が不思議がるマネジャーです。
 しかし、このマネジャーは「仕事はできる」との評価もまた、
 衆目一致しているのです。
 
 それゆえ、ここで使われる「完璧主義者」という言葉は、
 決して批判的な意味ではありません。
 たしかに、世の中には、単に「重箱の隅」をつつくだけの
 「瑣末主義者」とでも揶揄したくなるようなマネジャーも多いのですが、
 この「完璧主義者」のマネジャーは違います。
 部下からの支持と信頼は極めて厚いのです。
 
 企業には、ときおり、このようなタイプのマネジャーがいます。
 そして、一方、世の中を見渡すと、
 成功している経営者はもとより、
 優れた作品を残している芸術家や、
 強いチームを作り上げているスポーツ監督の中にも
 「完璧主義者」と呼ばれる人々がいます。
 
 例えば、マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長です。
 彼は、誰もが認める成功した経営者ですが、
 彼の数多くのエピソードの中で興味深いのは、
 毎朝起きると
 「マイクロソフトの隆盛もこれが頂点かもしれない」との懸念が、
 必ず頭に浮かぶそうです。
 そして、「ここで下降時代に入ってはならない」と考え、
 さらに危機感を高めて仕事に精力的に取り組むのだそうです。
 
 また、映画『タイタニック』で
 1998年度のアカデミー賞を席巻したジェームズ・キャメロン監督は、
 俳優に対する緻密な演技指導はもとより、舞台小道具にいたるまで
 本人が直接手を加えるという完璧主義者と言われています。
 
 そして、似たようなエピソードでは、
 我が国映画界の巨匠、黒沢明監督が、
 『デルス・ウザーラ』という作品の撮影において、
 遠景にある雪景色が気に入らないとして、
 ブルドーザで変えさせたという逸話が伝えられています。
 
 また、かつてヤクルトや西武を初優勝に導いた広岡達朗元監督は、
 その後の解説者の時代、ある選手がファインプレーを行ったとき、
 「あのファインプレーは良くない。きちんと守るべきところを
 守っていたならば、あんなファインプレーにはならない」と批判し、
 一方、ある選手がエラーをしたとき、
 「あのエラーは良い。結果としてエラーになったが、
 彼は、基本に忠実な守備をしていた」と誉めたことはよく知られています。
 
 このように、成功した経営者や監督が持つ「完璧主義者」としてのエピソードは、
 いずれも彼らの「理想の高さ」を象徴する物語として語られることが
 多いのですが、ここで一つの問題を考えてみましょう。
 
 なぜ、彼らは、「完璧主義者」と呼ばれるほど「細部」にこだわるのでしょうか。
 
 ■ 神は「細部」に宿る
 
 そのことを理解する一つの鍵は、やはり「複雑系」にあります。
 すでに述べたように、複雑系には、「摂動敏感性」と呼ばれる性質があります。
 システムの一部の「小さな変化」(ゆらぎ・摂動)が、
 システム全体の「大きな変動」をもたらす性質のことです。
 そして、こうした「摂動敏感性」が生じる理由は、
 やはり前回までに述べたように、
 複雑系においては自己加速的な循環構造が存在するため、
 循環構造の一部に生じた「小さな変化」が、
 急速に全体に拡大されて、極めて「大きな変動」をもたらしてしまうからです。
 例えば、企業という複雑系においては次のような現象が起こります。
 
 ある商品開発担当者の何気ないアイデアが小さなヒット商品を生み出します。
 その結果、そのヒット商品が生み出す収益によって、
 商品開発への投資が増えます。
 すると、それにともない、商品開発部門のスタッフの意欲が向上し、
 さらにまたヒット商品が生まれます。
 そして、これが収益を一層向上させ、同時に企業イメージを改善していきます。
 その結果さらに、それが市場でのブランド力を高め、
 ますます販売成績が向上していきます。
 
 こうした現象が起こるのです。
 もちろん、これは少し単純化した例ですが、
 最近のゲーム機器業界などではしばしば見られる現象でもあります。
 このように、企業という複雑系においては、
 例えば、「一社員のアイデア」という「小さな変化」が、
 こうした好循環(天使のサイクル)を生み出すことによって、
 事業の大成功という「大きな変動」をもたらすことがあります。
 
 しかし、これとは逆に、
 わずかな変化が、悪循環(悪魔のサイクル)を
 生み出してしまうこともあるのです。
 こう考えるならば、成功する企業とは、
 こうした「天使のサイクル」を生み出すことのできる企業であり、
 成功するマネジャーとは、こうした「天使のサイクル」の生み出し方が
 卓抜なマネジャーに他ならないのです。
 
 そして、成功するマネジャーは、意識的にも、無意識的にも、
 企業や市場という複雑系が、
 「小さな変化が大きな変動を生み出す」という
 性質を持っていることを知っているのです。
 言わば、これらのマネジャーは、あの言葉が真実であることを
 体得しているのです。
 
 神は細部に宿る。
 
 その言葉です。
 そして、それゆえ彼らは、
 「完璧主義者」と呼ばれるほどに「細部」にこだわるのです。