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 田坂 広志 なぜマネジメントが壁に突き当たるのか
http://events.nikkeibp.co.jp/skillupmail/
 
★01
第1回 はじめに
 
 マネジメントとは、これまで一般に論じられてきたよりも、
 よほど深い世界なのではないか。
 
 そんな思いを抱きながら、職場のマネジメントに携わってきました。
 
 そして、我々マネジャーが、日々のマネジメントにおいて突き当たる壁は、
 その深い世界に気がつくことによって、
 乗り越えていくことができるのではないか。
 
 そんな考えを抱きながら、企業の経営に取り組んできました。
 
 例えば、我々は、企業の経営や職場のマネジメントにおいて、
 しばしば、次のような「逆説」に直面します。
 
  1. なぜ、優れたマネジャーは、「雄弁」よりも、むしろ「沈黙」によって、
   深いメッセージを伝えることができるのか
 
  2.なぜ、意見を理路整然と語る「論理的」なマネジャーが、
   社内を説得することができないのか
 
  3.なぜ、多くのマネジャーは、「直観力」が大切であると分かっていても、
   なかなか、それを身につけることができないのか
 
  4.なぜ、「原因究明」によって問題の原因を見いだしても、
   それだけでは、問題が解決しないのか
 
  5.なぜ、経営においては、「矛盾」と見える問題を安易に解決すると、
   企業の生命力が失われてしまうのか
 
  6.なぜ、会議で「多数」のメンバーが賛成する企画が、
   必ずしも、成功するとは限らないのか
 
  7.なぜ、大胆な実行力のあるマネジャーが、
   ときに、神経質なほど「細部」にこだわるのか
 
  8.なぜ、優れたマネジャーの技を「真似」しようとすると、
   若手社員は、バランスを崩してしまうのか
 
  9.なぜ、豊かな「経験」を積んだマネジャーが、
   必ずしも、豊かな「智恵」を身につけていないのか
 
 10.なぜ、「ベスト・チーム」を組織したつもりが、
   不協和音の多い集団になってしまうのか
 
 11.なぜ、意のままに部下を動かそうとすると、
   かえって、部下は動かなくなるのか
 
 12.なぜ、一生懸命に部下を「教育」しても、
   なかなか、部下が「成長」しないのか
 
 13.なぜ、優秀なマネジャーの下で、
   かえって、優秀な部下が育たないのか
 
 14.なぜ、優れたマネジメントは、「サイエンス」を超えて、
   「アート」と呼ぶべきものになっていくのか
 
 我々は、企業の経営や職場のマネジメントにおいて、
 しばしば、一般の「常識」の逆とも思える、
 こうした「逆説」に直面します。
 
 そして、こうした「逆説」に直面するたびに、
 マネジメントとは、これまで一般に論じられてきたよりも、
 よほど深い世界なのではないかという思いを抱いてきました。
 
 そして、我々マネジャーが、日々のマネジメントにおいて突き当たる壁は、
 その深い世界に気がつくことによって、
 乗り越えていくことができるのではないかという考えを抱いてきました。
 
 では、その「深い世界」とは何か。
 
 それは、「暗黙知の世界」です。
 
 この「暗黙知」とは、科学哲学者のマイケル・ポランニーが用いた言葉であり、
 我々の中にある「言葉で表せない知識」(tacit knowing)のことです。
 そして、ポランニーは、我々が日々の生活や仕事において営む知的な活動は、
 その豊かな「暗黙知」を用いて行われているということを述べています。
 
 この西洋哲学の語る「暗黙知」とは、
 東洋思想においては「智恵」と呼ばれてきたものですが、
 私は、この西洋哲学と東洋思想が結びつくところに、
 新しい経営やマネジメントの思想が生まれてくると考えています。
 
 そのため、これまで私は、書籍や講演などで、
 「暗黙知の経営」や「暗黙知のマネジメント」という考えを述べてきました。
 
 特に、21世紀を迎えた2001年、
 私が教授を務める多摩大学大学院において、
 この「暗黙知の経営」をテーマに連続講義を行ったところ、
 実社会における職業人でもある大学院生の皆さんから、
 経営とマネジメントの世界の深みを理解することができ、
 日々の仕事の役に立つという有り難い評価を頂きました。
 
 そうした背景から生まれたのが、この連載コラムです。
 
 すなわち、『なぜマネジメントが壁に突き当たるのか』と
 題するこの連載コラムは、
 これまで私が「暗黙知の経営」について語った書籍をもとに、
 この大学院講義での語りのスタイルを生かして、
 読者に読みやすい「連続講義」の形式で新たに書き直したものです。
 
 従って、「仮想講義」としての連載コラムの各講では、
 冒頭に挙げた様々な逆説が、なぜ生まれてくるのか、
 どうすれば、それらの壁を乗り越えていくことができるのかについて、
 分かりやすく述べています。
 
 しかし、これら各講のテーマは、それぞれに深みあるテーマであり、
 本来、一つの書として独立して論じるべき奥行きを持ったテーマばかりです。
 その意味で、この連載コラムは、
 私の「マネジメント原論」とでも呼ぶべきものであり、
 21世紀に「アート」へと進化していくマネジメントについて、
 その「基本思想」と「ビジョン」を語ったものです。
 
 この連載コラムを読まれた方々が、
 経営の現場において、その奥にある深い世界を見つめ、
 日々のマネジメントに取り組まれるならば、
 必ず、新しい気づきを得られると信じています。
 
 読者の皆さんのご活躍を、心からお祈り申し上げます。
 
 
★02
第2回 なぜマネジメントには「沈黙は金」の瞬間があるのか
     − 言葉にならない「暗黙知」
 
 ■ 「沈黙は金」の瞬間
 
 昔から、「沈黙は金」という言葉があります。
 皆さんは、会議などにおいて、
 この「沈黙は金」とでも呼ぶべき瞬間を経験したことはないでしょうか。
 例えば、こういう瞬間です。
 
 会議において、メンバーでかなり議論を尽くした場面です。
 そして、議論は尽くしたのですが、これといって決定的な理由がないまま、
 プロジェクトの方針がある方向に決まろうとするときです。
 その瞬間、それまで黙っていたマネジャーの田中氏が
 口を開くことがあります。
 
 「うまく言えないのだが、やはり、この方向ではないような気がする・・・」
 
 この田中マネジャーの発言で、会議は沈黙します。
 
 しかし、しばしの沈黙の後、誰かがその沈黙を破ることを恐れるように、
 小さな声で聞きます。
 
 「なぜですか」
 
 しかし、田中マネジャーは、言葉を捜すかのように深く考え込み、
 言葉を発しようとしません。
 会議の沈黙は続きます。
 それでも、誰も田中マネジャーの意見に反論を述べようとはしません。
 なぜならば、田中マネジャーは、衆目認める仕事のできるマネジャーだからです。
 そして、その彼の力量を知っているからこそ、会議のメンバー全員が、
 その田中氏の「言葉にならない智恵」の大切さを感じているのです。
 こうしてしばらく会議が沈黙を続けた後、
 誰かが思い切って沈黙を破るように言います。
 
 「田中さんが、そう感じるのなら、きっとそうでしょう・・・」
 
 そして、この一言で、会議の流れが変わります。
 
 皆さんは、こうした場面を経験したことはないでしょうか。
 もし、そうした経験があるならば、それは実に大切な経験です。
 なぜならば、それは、マネジメントにおいて
 最も高度な能力が発揮されている瞬間だからです。
 
 すなわち、仕事のできるマネジャーが、ときおり発する
 
 「うまく言えないのだが・・・」
 「上手に表現できないのだが・・・」
 「言葉にならないのだが・・・」
 
 といった言葉によって、会議が沈黙する瞬間があります。
 そして、この瞬間において、そのマネジャーは、
 「言葉」によって多くの説明をするよりも、
 その「沈黙」によって何かをメンバーに伝えようとしているのです。
 それは、文字通り「沈黙は金」とでも呼ぶべき瞬間に他なりません。
 
 大切な智恵が、言葉ではない「何か」を通じて伝えられる瞬間なのです。
 
 ■ マネジメントにおける「暗黙知」という世界
 
 では、マネジメントにおいては、
 なぜ、こうした「沈黙は金」の瞬間が生じるのでしょうか。
 
 それは、マネジメントには、「暗黙知」という世界が存在するからです。
 
 この「暗黙知」(tacit knowing)とは、
 かつて、科学哲学者のマイケル・ポランニーが
 『暗黙知の次元』という著書の中で用いた言葉ですが、
 彼は、その著書で、次の言葉によって暗黙知を定義しています。
 
 「我々は、語ることができるより、多くのことを知ることができる」
 
 このポランニーの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
 それは、この言葉を裏返してみれば分かります。
 
 「我々は、知っていることを、すべて言葉にすることはできない」
 
 すなわち、我々の中には、「言葉で語り得ない智恵」とでも呼ぶべきものが、
 たしかにあるのです。
 そして、それを敢えて言葉にしたときには、
 必ず「大切な何か」が失われた感覚を呼び起こすのです。
 従って、こうした瞬間には、敢えて言葉を発するよりも、
 沈黙を守ることこそが優れた処し方になってくるのです。
 
 「沈黙は金」と呼ぶべき瞬間は、こうして生まれてきます。
 
 マイケル・ポランニーの語る「暗黙知」の世界とは、
 こうした「言葉で語り得ない智恵」の世界です。
 これに対して、「言葉で語り得る知識」は、
 「言語知」とでも呼ぶべき世界でしょう。
 そして、マネジメントにおいて未熟なマネジャーの多くは、
 この「言語知」の世界だけで仕事を行おうとする傾向があります。
 要するに、経営書やマネジメント書を読んで得た知識だけで
 マネジメントを行おうとしてしまうのです。
 同様に、経営コンサルタントなどでも、未熟なコンサルタントは、
 米国のビジネススクールなどの「最先端の経営手法」を見事に語るのですが、
 深く耳を傾けていると、この「暗黙知」の世界を
 あまり持っていないことが多いのです。
 
 さて、そうした意味では、先ほどの「沈黙する田中マネジャー」のエピソードは、
 一つの「逆説」を意味していることが分かると思います。
 実は、このエピソードは、彼の「言語知を使う能力の低さ」を
 象徴しているのではありません。
 
 このエピソードは、彼の「暗黙知を伝える能力の高さ」を象徴しているのです。
 
 そして、不思議なことに、
 こうした「沈黙は金」の瞬間を生み出すことの出来るマネジャーは、
 ひとたび口を開けば、極めて説得力のある雄弁な人物であることが多いのです。
 こうしたマネジャーは、「沈黙は金」「雄弁は銀」の理(ことわり)を知り、
 それを使い分けているだけなのです。
 そして、マネジメントの世界には、
 「目は口ほどに物を言い」ではない、
 「目は口以上に物を言い」の瞬間があることを、深く知っているのです。
 
 ■ 暗黙知の世界を知ることの大切さ
 
 先ほど、未熟なマネジャーは、「言語知」の世界だけで
 マネジメントを行おうとする傾向があると述べました。
 このことを裏返して言えば、
 こうしたマネジャーがそのマネジメントにおいて突き当たる壁の多くは、
 この「暗黙知」の世界を理解することによって、
 それを突き抜ける方法が見えてくるのです。
 
 そこで、『なぜマネジメントが壁に突き当たるのか』
 と題するこの連続講義では、
 企業の現場において我々がしばしば直面する問題を取り上げ、
 それぞれの問題が、いかなる「暗黙知」の欠如によって
 生じているものであるかを、深く考えていきたいと思います。
 そして、経営者やマネジャーが、そうした問題に対して、
 どう対処すればよいのかを述べていきたいと思います。
 
 最後まで聴いて頂ければ幸いです。
 
 
★03
第3回 なぜ「論理的」な人間が社内を説得できないのか(その1)
     − 「複雑系」としての企業
 
 ■ 「論理」で割り切れない感覚
 
 皆さんは、会議において、
 「論理で割り切れない」という感覚に襲われたときがあるでしょうか。
 例えば、こういうときです。
 
 社内では「論客」や「切れ者」という評価の高い若手社員が、
 あるプロジェクトの企画案を、関係各部署に提案しています。
 この若手社員は、極めて「論理的」に、
 なぜ、そのプロジェクトを実施すべきかを説明しているのですが、
 なぜか、会議の雰囲気は重いのです。
 その会議には、現場経験を積んだ熟練のマネジャーが何人も出席しており、
 彼らの協力を得ることなく、そのプロジェクトは実施できないのですが、
 なかなか賛同の声が上がってきません。
 そこで、若手社員は、
 先ほどから首を横に振りながら、企画案に賛成できないといった風情でいる
 マネジャーの鈴木氏に意見を求めます。
 しかし、その鈴木マネジャーは、
 若手社員の理路整然とした説明に対して、
 賛成できない理由を明確に述べるのではなく、むしろ、諭すように言うのです。
 
 「理屈は君の言う通りなんだがね、
  しかし、それほど理屈通りに物事が進むわけではないよ・・・」
 
 こうした場面です。
 前回は、会議において
 「言葉」で表せない感覚に襲われるときがあると述べました。
 同様に、会議において
 「論理」で割り切れない感覚に襲われるときがあります。
 そのときの、我々の感覚を言葉にするならば、
 
 「そう簡単に論理で割り切れるものではない」
 「それほど問題は単純ではない」
 
 といった感覚ではないでしょうか。
 
 そして、現場経験の豊かな熟練のマネジャーほど、
 あまりにも明快な「論理」を振り回す若手社員に出会うと、
 こうした批判的な感覚を抱くのです。
 では、こうした熟練のマネジャーは、いったい何を批判しているのでしょうか。
 
 実は、彼らは、若手社員の語る「論理」そのものを
 批判しているのではありません。
 彼らは、若手社員の持つ「論理で割り切れるという姿勢」を批判しているのです。
 
 すなわち、現場経験の豊かな熟練のマネジャーは、体験的に知っているのです。
 「論理で割り切れる」という姿勢でプロジェクトを進めていくと、
 必ず、見落としてしまう「大切な何か」があるということを。
 そして、おそらく、こうした熟練のマネジャーも、
 かつて若き日には、まさに「論客」や「切れ者」との評価を
 周囲から得ていたのでしょう。
 だからこそ、そうした若手社員の「落とし穴」が良く見えるのでしょう。
 
 さて、こうした熟練のマネジャーの抱いている感覚を、敢えて言葉にするならば、
 「企業とは生き物である」といった感覚なのではないでしょうか。
 少し難しい表現を使えば、
 「企業とは、単純な論理では理解することができない複雑な生命体である」
 といった感覚です。
 このことを、分かりやすい例を挙げて説明しましょう。
 
 例えば、「魚の解剖」を考えてみると良く理解できます。
 我々は、子供の頃の理科実験で行ったように、
 魚をメスで解剖して五臓六腑に腑分けし、骨や内臓や神経などを詳しく調べ、
 魚というものの「仕組み」を整然と理解することはできます。
 しかし、こうして腑分けして整然と理解した結果、
 失われてしまう「大切なもの」があることに気づくのではないでしょうか。
 それは何でしょうか。
 
 魚の「生命」(いのち)です。
 
 なぜならば、こうして腑分けした魚を
 もう一度縫いあわせてもとの形に戻してみても、
 もはや失われた「生命」は戻ってこないからです。
 
 実は、熟練のマネジャーが抱いている
 「企業」というものに対する感覚も、これに似ています。
 例えば、企業というものを「論理」というメスで分析し、
 人事や資財や財務、もしくは開発や製造や営業という
 「仕組み」として整然と理解しても、「大切な何か」が見失われてしまうのです。
 その「大切な何か」を敢えて言葉にするならば、
 「企業の生命力」とでも呼ぶべきものでしょう。
 
 このように、「企業とは生き物である」との感覚を、
 多くの熟練のマネジャーが抱いているのですが、
 実は、こうした感覚の正しさは、
 最先端の科学によっても証明されつつあるのです。
 
 次回は、そのことについて述べましょう。
 
 
★04
第4回 なぜ「論理的」な人間が社内を説得できないのか(その2)
     − 「複雑系」としての企業
 
 ■ 「複雑系」の新しい科学
 
 いま、アメリカのニューメキシコ州にあるサンタフェ研究所に、
 ノーベル物理学賞のマレー・ゲルマンやフィリップ・アンダーソン、
 経済学賞のケネス・アローをはじめ、
 様々な専門分野の最先端の科学者や研究者が集まり、
 興味深い研究を行っています。
 
 「複雑系」の研究です。
 
 この「複雑系」(complex system)という言葉は、
 しばらく前に、我が国においても出版のブームを生み出しましたが、
 それにもかかわらず、この言葉の意味を、
 分かりやすく、そして正しく伝えている書籍は必ずしも多くはありません。
 そこで、この講義では、
 そのテーマである「暗黙知」を説明するために必要な範囲にかぎって、
 分かりやすく、この複雑系という言葉を説明しておきましょう。
 
 しかし、その前に、一言。
 この「複雑系」という言葉のように、
 しばしば世の中で、時代の新しいキーワードが
 出版のブームを引き起こすことがあります。
 そして、その時期には、ブームに煽られて、
 多くの人々がそうしたキーワードが表紙を飾る本を求め、読んでみるのですが、
 ブームが過ぎ去ると、そのキーワードも忘れ去られていきます。
 そればかりか、出版界では、「あのキーワードは、もう古い」といって、
 次のブームを引き起こせる新しいキーワード探しに向かう傾向があります。
 
 しかし、実は、本当に大切なキーワードは、
 ブームが忘れ去られた後、
 その根底にある「新しい物の見方」や「新しい物の考え方」が、
 着実に企業や市場や社会の中に広がっていくのです。
 キーワードそのものは、あまり使われなくなっても、
 その根底にある「新しい物の見方」や「新しい物の考え方」は、
 我々の仕事や生活に、深く大きな影響を与えていくのです。
 
 例えば、「インターネット」という言葉がそうです。
 この言葉が企業や市場や社会にもたらした文化的影響は、
 極めて大きなものがあります。
 しかし、いま、「インターネット」というキーワードそのものは、
 一時の表層的なブームは過ぎ去り、
 言葉そのものは、あまり使われなくなっています。
 
 ところが、気がつけば、
 携帯電話、卓上電話、電子手帳、デジタルテレビ、ビデオカメラなど、
 身の回りのものが、皆、インターネット端末となっているのです。
 
 このように、本当に革新的なキーワードは、
 「忘れ去られてからが、本番」なのです。
 
 そうした意味で、この「複雑系」というキーワードも、
 言葉そのもののブームは過ぎ去りましたが、
 それがもたらした「新しい物の見方」や「新しい物の考え方」は、
 いま、深く、静かに、企業や市場や社会の中に広がっているのです。
 
 例えば、複雑系のマネジメント思想は、
 いま、アメリカを中心に、ヨーロッパを巻き込み、
 多くの企業に対して、深く、大きな影響を広げ続けています。
 そのことは、アメリカの書店のマネジメント書のコーナーを見れば分かります。
 そこには、「創発」(emergence)「共鳴」(coherence)などの
 複雑系研究の言葉が使われたマネジメント書が、数多く見られます。
 そして、こうした書籍は、
 一時のブームを超えて、いまも静かに増え続けているのです。
 
 従って、これから述べる複雑系の話は、多少難解に感じられるかもしれませんが、
 これからの時代の「新しい物の見方」や「新しい物の考え方」を
 身につけるために、耳を傾けて頂きたいと思います。
 
 ■ 「複雑系」としての企業
 
 まず「複雑系」とは、文字通り「複雑性を持ったシステム」のことですが、
 では、この「複雑性」(complexity)とは、
 いったいどのような性質のことでしょうか。
 そのことを理解するためには、まず、次の言葉を理解する必要があります。
 
 「ものごとが複雑化すると、新しい性質を獲得する」
 
 これが「複雑性」ということの一つの意味です。
 分かりやすい例を挙げて説明しましょう。
 
 例えば「水分子」です。
 良く知られているように、
 一つの水分子は二つの水素原子と一つの酸素原子が結びついて出来ています。
 しかし、水分子の性質は、水素原子とも、酸素原子とも違う性質を示します。
 すなわち、水素原子と酸素原子が結びついただけで、
 新しい性質が生まれてきたのです。
 また、水分子は、一つだけでは、
 温度が変化しても違った性質を示すわけではありませんが、
 数百万分子以上が集まると、摂氏百度以上では「水蒸気」という気体の性質を、
 零度以下では「氷」という固体の性質を、
 その中間温度では「水」という液体の性質を示すことも良く知られています。
 これも、多くの分子が集まったことによって、
 新しい性質が生まれてきたわけです。
 そして、さらに、この水蒸気は、大量に集まって空高く昇っていくと、
 「うろこ雲」や「ひつじ雲」などの美しい秩序だった構造を示すようになります。
 これも、新しい性質が生まれてきたと言えます。
 
 このように、水分子ひとつを取り上げても、
 「複雑化すると、新しい性質を獲得する」
 という特性を示すことが良く理解できるでしょう。
 そして、こうした「複雑性」という特性は、
 単に水分子のような「物質」だけでなく、
 「生命」や「人間」や「社会」を含めた、
 この森羅万象の世界すべての基本的な特性に他ならないのです。
 
 例えば、人間というものも、
 一人ひとりの人間は理性的であっても、
 それが多数集まると「集団心理」という性質を示し、
 ときに、極めて情緒的な「群集心理」を示す場合さえあります。
 また、企業というものも、
 一つひとつの企業は、独立の企業文化や活動様式を持っているのですが、
 それらが集まって「財閥」や「企業グループ」を形成すると、
 まったく違ったグループの文化や活動のスタイルを示します。
 
 このように、「企業」というものも、また、「高度な複雑系」に他なりません。
 すなわち、「企業」というものは、
 単なる人材、資材、資金、情報などの集りではありません。
 開発、製造、販売といった機能の集りでもありません。
 「企業」とは、それらの集りの単なる「総和」を超えて、
 まったく新しい性質を示す「生命」(いのち)とでも呼ぶべきものなのです。
 そして、この「生命」とでも呼ぶべきものが、
 前回に述べた熟練マネジャーの感覚を生み出しているのです。
 すなわち、
 「企業とは、単純な論理では理解することができない複雑な生命体である」
 という感覚を生み出しているのです。
 
 
★05
第5回 なぜ「論理的」な人間が社内を説得できないのか(その3)
     − 「複雑系」としての企業
 
┌────────────────────────────────────┐
 「企業」というものは、
 単なる人材、資材、資金、情報などの集りではありません。
 開発、製造、販売といった機能の集りでもありません。
 「企業」とは、それらの集りの単なる「総和」を超えて、
 まったく新しい性質を示す「生命」(いのち)とでも呼ぶべきものなのです。
 
 そして、この「生命」とでも呼ぶべきものが、
 前回に述べた熟練マネジャーの感覚を生み出しているのです。
 すなわち、
 「企業とは、単純な論理では理解することができない複雑な生命体である」
 という感覚を生み出しているのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「分析」の限界
 
 しかし、このような意味で、企業というものが高度な複雑系であることから、
 我々は、悩ましい問題に直面することになります。
 
 それは、「分析の限界」という問題です。
 
 すなわち、企業というものが高度な複雑系であるため、
 単純な論理にもとづいた「分析」という手法が、
 しばしば限界に突き当たることになるのです。
 
 では、そもそも、この「分析」という手法は、どのような手法なのでしょうか。
 それは、我々が複雑な対象に直面したとき、
 それを理解するために用いる手法なのですが、
 その原理は、「分割」「調査」「総合」という手順によるものです。
 すなわち、「分析」とは、まず、複雑な対象を単純な要素に「分割」し、
 次に、それぞれを詳しく「調査」し、
 最後に、その結果を「総合」することによって
 複雑な対象の全体像を理解するという手法です。
 これは、言葉にすれば、簡単な原理にもとづく分かりやすい手法なのですが、
 実は、こうした原理や手法の背景には、
 20世紀の科学の発展を主導した一つの基本思想があったのです。
 
 それが、「要素還元主義」(reductionism)と呼ばれるものです。
 
 これは、文字通り、「対象を小さな要素に還元して分析する」という思想です。
 しかし、このような要素還元主義にもとづく「分析」という手法は、
 20世紀の科学を大きく発展させた半面、
 20世紀の後半において、一つの根本的な問題に直面したのです。
 
 それは、複雑な対象を単純な要素に分割し、還元することによって
 「大切な何か」が見失われてしまうという問題です。
 
 その理由は、前回に述べた
 「ものごとが複雑化すると、新しい性質を獲得する」という
 「複雑系」の特性にあります。
 この特性のため、複雑な対象を単純な要素に還元した瞬間に、
 獲得された「新しい性質」が失われてしまうのです。
 
 少し話が難しくなってきました。
 先ほど述べた水分子の例に戻って考えてみましょう。
 
 もし、ある人が「うろこ雲」や「ひつじ雲」の美しい形に感動し、
 なぜこうした秩序だった構造が生まれるのかを理解しようと考えたとします。
 しかし、もしこの人が、空高く気球で昇り、
 うろこ雲やひつじ雲の中から水蒸気を取ってきて、
 これをどれほど詳しく調べても、
 決して、うろこ雲やひつじ雲が生まれてくる原因を
 理解することはできないでしょう。
 また、ある人が「水蒸気」の気体としての性質を理解しようと考え、
 水分子一つを取り出してきて、それをどれほど詳しく調べても、
 水蒸気の性質を理解することはできないでしょう。
 同様に、「水分子」の性質を理解しようと考え、
 それを構成する水素原子と酸素原子を取り出し、
 それらをどれほど詳しく調べても、
 水分子の性質を理解することはできないでしょう。
 
 このように、要素還元主義にもとづく「分析」という手法は、
 それが対象を単純な要素に分割して調べるものであるため、
 分割した瞬間に、複雑化することによって獲得された
 「新しい性質」が失われてしまうのです。
 そして、そこで失われた「新しい性質」とは、
 前回に魚の解剖の例において述べたように、
 「生命」(いのち)とでも呼ぶべき「大切な何か」なのです。
 
 この機微を、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンが、
 興味深い言葉として残しています。
 
 「複雑なものには、いのちが宿る」
 
 複雑系の研究が始まる遙か以前に、
 ベイトソンがこの言葉を残していることに驚きを禁じ得ませんが、
 まさに彼の深い洞察が示唆するように、
 複雑系とは「生きたシステム」のことに他ならないのです。
 
 ■ 「論理」によって見失われるもの
 
 さて、このような複雑系の特性や要素還元主義の限界を理解するならば、
 なぜ、会議において、
 論理で割り切れない感覚に襲われるときがあるのかが理解できるでしょう。
 
 それは、「論理」の本質が「単純化」だからです。
 
 そして、企業という極めて複雑な存在を、
 単純な論理によって理解しようとするとき、
 「大切な何か」が見失われてしまうからです。
 
 前回に述べた、現場経験の豊かな熟練のマネジャーが、
 論理では割り切れない感覚を抱く原因は、まさにここにあります。
 そして、また、熟練のマネジャーが、
 企業における問題を言葉では表せない感覚に襲われる原因も、
 やはりここにあります。
 
 なぜなら、言葉にすることは、
 多くの場合、論理を述べることに他ならないからです。
 
 少し難しい言い方になりますが、
 言葉も論理も、その本質は「世界を分節化するロゴス」なのです。
 それらは、我々の生きている瑞々しい世界を、
 断片化し、単純化してしまうという性質を持っているのです。
 そして、言葉や論理によって断片化されて見失われた部分や、
 単純化されて排除された部分にこそ、「大切な何か」があるのです。
 
 従って、こうした「高度な複雑系」としての企業において、
 言葉によって表現しきれない「大切な何か」、
 そして、論理によって見失われてしまう「大切な何か」を理解するためには、
 問題を部分に分割したり、問題を単純化することなく、
 企業全体をその複雑性のままに理解する手法が求められるのです。
 
 では、いかにすれば、我々は、
 言葉や論理を用いずに、全体を理解することができるのでしょうか。
 そして、いかにすれば、我々は、
 分析の方法を用いずに、全体を理解することができるのでしょうか。
 その答えは、明らかです。
 
 「直観力」や「洞察力」です。
 
 直観力や洞察力を用いることによって、
 「大切な何か」を見失うことなく、
 全体をありのままに理解することができるのです。
 複雑な全体を、その複雑性のままに理解することができるのです。
 
 そして、企業の現場において、
 我々マネジャーに、この直観力や洞察力が求められる理由は、
 まさにこの点にあるのです。
 
 
★06
第6回 なぜマネジメントにおける「直観力」が身につかないのか(その1)
     − 「論理」の彼方の世界
 
 ■ マネジャーが「サイコロ」を振るとき
 
 皆さんは、直観力や洞察力を身につけたいと考えたことはあるでしょうか。
 
 そう考えたことのある方のために、面白いエピソードを紹介しましょう。
 我々マネジャーは、ときおり、難しい意思決定に直面して悩み抜き、
 「サイコロ」でも振って決めたい心境になるときがあります。
 実は、実際にサイコロを振ったマネジャーがいたのです。
 それは、このようなエピソードです。
 
 ある企業で、熟練のマネジャーの斎藤氏が、
 極めて重要な商品開発プロジェクトの意思決定に直面しました。
 事前の市場調査も徹底的に行い、会議でも衆知を集めて議論を尽くしたのですが、
 それでも、この商品開発に踏み切るべきか否か、
 メンバー全員の意見が定まりません。
 そして誰よりも、その意思決定の責任者である斎藤マネジャー自身が、
 決断がつかないのです。
 
 開発費用を考えると極めて大きなリスクを負ったプロジェクトであり、
 極めて難しい意思決定でした。
 しかし、それでも、意思決定のタイムリミットは来ています。
 その会議において、どうしても結論を出さなければならないのです。
 会議の参加メンバー全員からは
 「斎藤さん、決めて下さい」との声が無言で伝わってきます。
 メンバーは斎藤マネジャーの力を信頼しています。
 最後は斎藤マネジャーの直観力に賭けようとの雰囲気です。
 そうした雰囲気の中で、斎藤マネジャーは目をつぶり、
 しばし黙して考え込んでいましたが、ふと目を開けて言いました。
 
 「よし、サイコロを振って、決めよう・・・」
 
 唖然とするメンバーを尻目に、
 偶数ならプロジェクトの実施決定、
 奇数ならプロジェクトの実施見送り、と勝手に決めて、
 斎藤マネジャーは意を決したようにサイコロを振りました。
 全員が注視するなかで、果たしてサイコロは「偶数」と出ました。
 プロジェクトの「実施決定」です。
 
 その瞬間に、斎藤マネジャーが言ったのです。
 
 「やはり、このプロジェクトの実施は見送ろう」
 
 さらに唖然とするメンバーを前に、彼は確信を込めて言葉を続けました。
 
 「いま、サイコロの目が偶数の『実施決定』を示した瞬間に、
  心の深くで『いや、違う』との声が聞こえた。
  自分の直観は、やはりプロジェクトの実施見送りを教えている。
  自分は、その直観を信じるよ」
 
 斎藤マネジャーは、自分の直観力を引き出すために、サイコロを振ったのです。
 
 ■ マネジャーに求められる直観力と洞察力
 
 このエピソードを聞いて、皆さんは、何を感じたでしょうか。
 これほど極端な場面でなくとも、マネジャーとして難しい意思決定に直面し、
 サイコロでも振りたくなった経験を持つマネジャーは少なくないでしょう。
 しかし、どのような場面でも、この斎藤マネジャーのように、
 最後は、自分の直観力を信じることができなければならないのです。
 
 前回の話では、マネジャーには
 直観力や洞察力といった力量が求められると述べました。
 そのことは、現場経験の豊かなマネジャーならば、
 実は、誰もが感じていることなのです。
 そして、これらのマネジャーは、やはり誰もが、
 「どのようにすれば、直観力や洞察力を身につけることができるのか」
 との問いを抱いているのです。
 例えば、そうした問いを胸に、多くのマネジャーが、
 『直観力訓練法』『洞察力の磨き方』『右脳強化法』
 『アルファ波トレーニング』『禅的修業と直観』などのタイトルの本を、
 一度は手に取ってみたことがあるのではないでしょうか。
 
 しかし、残念ながら、これらのマネジャーは、
 直観力や洞察力というものの本質に関して、
 その最も基本的な点を誤解しているのです。
 それは、どのような誤解でしょうか。
 
 直観力や洞察力というものが、
 「論理」という世界の対極にあると考えているのです。
 
 そのため、これらのマネジャーは、
 感覚的訓練や感性的修練、さらには宗教的修行などの方法こそが、
 直観力や洞察力を磨いてくれると考えているのです。
 では、直観力や洞察力などの能力は、
 果たして「論理」という世界の対極にあるのでしょうか。
 そのことを考えてみるために、次回、もう一つのエピソードを紹介しましょう
 
 
★07
 第7回 なぜマネジメントにおける「直観力」が身につかないのか(その2)
     − 「論理」の彼方の世界
┌────────────────────────────────────┐
 「どのようにすれば、直観力や洞察力を身につけることができるのか」
 多くのマネジャーは、そうした問いを胸に、
 『直観力訓練法』『洞察力の磨き方』『右脳強化法』
 『アルファ波トレーニング』『禅的修業と直観』などのタイトルの本を、
 一度は手に取ってみたことがあるのではないでしょうか。
 
 しかし、残念ながら、これらのマネジャーは、直観力や洞察力というものの
 本質に関して、その最も基本的な点を誤解しています。
 直観力や洞察力というものが、
 「論理」という世界の対極にあると考えているのです。
 そのことを考えてみるために、次のエピソードを紹介しましょう。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「論理思考」から「大局観」へ
 
 これは、将棋の大山康晴名人のエピソードです。
 冬のある日、将棋会館での用事を終え、大山名人が帰ろうとしたとき、
 部屋の出口の近くで若手棋士たちが「詰め将棋」をやっていたそうです。
 その詰め将棋は極めて難しいものであり、
 天才的な資質を持って修練に励んでいる若手棋士たちが集まっても、
 なかなか解けないものでした。
 このとき、大山名人はコートを着ながら、その横を通り過ぎ、
 出口のところで振り返って「諸君、お先に」と挨拶をしたそうです。
 そして、そのとき、一言つけ加えたのです。
 
 「ああ、その手は何手目で、何で詰むよ」
 
 驚いた若手棋士たちが、その後、詰め将棋を解いたところ、
 果たして大山名人の言葉通りになったのです。
 そこで、感銘を受けた若手棋士の一人が、
 後日、大山名人をつかまえて聞きました。
 
 「大山先生。先生は、あの何百通りの手を、
  あの入口まで歩む数秒間に、すべて読まれたのですか」
 
 この質問に対して、大山名人は答えたそうです。
 
 「いや、手を読んだのではないよ。大局観だよ」
 
 もし皆さんが、直観力や洞察力を身につけたいと考えているマネジャーならば、
 この大山名人のエピソードから深く学ぶべきでしょう。
 大山名人が、いかにしてその「大局観」を身につけたか。
 そのことを深く学ぶべきでしょう。
 それは、言うまでもなく、生まれ持って身についていた力量でもなければ、
 ある日突然天から降ったように身についた力量でもありません。
 我々マネジャーが、このエピソードから学ぶべきことは、明らかです。
 
 これほどの大局観を持つ大山名人もまた、
 かつて、この若手棋士たちと同様、難しい詰め将棋を前に、
 手を読んで、読んで、読み抜くという極限的な修練を通じて、
 この大局観という能力を身につけたのです。
 
 そのことをこそ、学ぶべきでしょう。
 言葉を換えれば、論理思考によって考え、考え、考え抜いたとき、
 大局観の世界が開けたということです。
 そして、このことは大局観だけでなく、直観力や洞察力においても同様なのです。
 
 すなわち、我々マネジャーは、一つの「逆説」を理解すべきでしょう。
 
 大局観や直観力や洞察力を磨くためには、
 その「対極」に徹することが近道なのです。
 
 すなわち、多くの先人たちは、「論理思考」に徹する時代を経て、
 大局観や直観力や洞察力を獲得していったのです。
 しかし、残念ながら、多くのマネジャーが、このことを誤解しているようです。
 直観力や洞察力とは、
 論理とは対極にある感覚や感性の世界を深めていくことによって
 獲得されるものであると誤解しているのです。
 不思議なことに、真実は、その逆にあります。
 
 一つの極に徹すると、その対極に突き抜ける。
 
 それは、我々が生きる世界の「理」(ことわり)に他ならないのです。
 
 ■ 「論理」に徹する道
 
 例えば、企業において、
 「あいつは理屈っぽいから、勘が鈍い」などの批判の言葉を耳にします。
 たしかに、こうした批判が当てはまるマネジャーはいるのですが、
 実は、この批判は正確に行われるべきでしょう。
 このマネジャーは、
 「論理的である」がゆえに
 直観力や洞察力を身につけられないのではありません。
 「論理に徹することができない」がゆえに
 直観力や洞察力を身につけられないのです。
 
 要するに「中途半端」なのです。
 
 このことを、さらに別の将棋のエピソードで考えてみましょう。
 
 羽生善治棋士のエピソードです。
 彼が、パソコンを用いたデータ重視や分析重視の方法を持った、
 文字通り「論理思考」のスタイルの棋士であることは誰しも疑わないでしょう。
 しかし、かつて七冠を獲得した直後のテレビでの対談において、
 対談相手の若手哲学者に
 「対局中、どういう心境なのですか」と聞かれて語った次の言葉は、
 極めて興味深いものです。
 
 「将棋を指していると、ときおり、ふっと『魔境』に入りそうになるんです」
 
 この言葉は、何を意味しているのでしょうか。
 「魔境」とは、心理学用語で言われる
 「変性意識状態」(Altered States of Consciousness)のことであり、
 直観力や洞察力など、人間の特別な能力が閃く意識状態のことです。
 すなわち、このエピソードは、
 羽生棋士ほどの「論理に徹する修業」を積み重ねていくと、
 その意識が「論理の世界」を突き抜けて、
 「論理を超えた世界」へと入っていくことを示しているのです。
 
 この機微を、哲学者のヴィトゲンシュタインが、
 『論理哲学論考』という著作の中で、次の言葉によって語っています。
 
 「我々は、言葉にて語り得ることを語り尽くしたとき、
  言葉にて語り得ないことを知ることがあるだろう」
 
 直観力や洞察力の世界とは、
 実は、このヴィトゲンシュタインの言葉が表す世界に他ならないのです。
 この言葉を、少し読み替えてみるならば、次の言葉が浮かび上がってきます。
 
 「我々は、論理にて究め得ることを究め尽くしたとき、
  論理にて究め得ないことを知ることがあるだろう」
 
 その言葉が、聞こえてくるのです。
 従って、「どうすれば、直観力や洞察力を身につけることができるのか」
 という問いに対する答えは、大いなる逆説の中にあります。
 
 そのためには、論理を突き抜けるまで論理思考に徹する修練が求められるのです。
 
 すなわち、直観力や洞察力の世界とは、
 論理の彼方に突き抜けたとき、到達する世界に他ならないのです。
 しかし、その世界に突き抜けるために求められるものは、
 実は、いかなるマニュアルでもテクニックでもありません。
 
 徹すること。
 
 そのことだけなのです。
 我々マネジャーは、そのことをこそ、理解しておかなければならないのです。
 
 
★08
 第8回 なぜマネジメントにおける「直観力」が身につかないのか(その3)
     − 「論理」の彼方の世界
┌────────────────────────────────────┐
 「どうすれば、直観力や洞察力を身につけることができるのか」
 という問いに対する答えは、大いなる逆説の中にあります。
 
 すなわち、直観力や洞察力の世界とは、
 論理の彼方に突き抜けたとき、到達する世界に他ならないのです。
 しかし、その世界に突き抜けるために求められるものは、
 実は、いかなるマニュアルでもテクニックでもありません。
 
 徹すること。
 
 そのことだけなのです。
 我々マネジャーは、そのことをこそ、理解しておかなければならないのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「人為」を超えて身につく能力
 
 もう一つ、我々マネジャーが理解しておかなければならないことがあります。
 
 直観力や洞察力というものは、「人為によって身につける能力」ではありません。
 それは、気がついたら「自然に身についている能力」なのです。
 
 そのことを理解しておかなければなりません。
 たしかに、例えば、現在、
 経営者、芸術家、職人、スポーツ監督などに、
 直観力や洞察力に極めて優れた人々がいますが、
 これらの人々は、直観力や洞察力そのものを磨こうとして
 それを身につけたのではありません。
 あくまでも、
 「経営における正しい判断を下す」「自分の美感を満たす作品を創る」
 「納得できる良い仕事を残す」「スポーツの厳しい競争に勝つ」
 という目的のための厳しい修練に徹した結果、
 ある日、気がつけば、直観力や洞察力が身についていたに過ぎないのです。
 これらの人々は、直観力や洞察力を身につけようとして、
 それを身につけたのではないのです。
 このことを理解することが、極めて大切です。
 
 少し話が広がりますが、
 こうしたことは、直観力や洞察力だけでなく、創造性などについても同様です。
 創造性という能力もまた、
 人為によって身につける能力ではなく、自然に身についている能力なのです。
 そのことを理解すべきでしょう。
 
 例えば、いまだかつて、
 「創造性を身につけるためにはどうすればよいか」との発想を持って、
 真に創造的な作品を残した芸術家はいなかったことを理解すべきでしょう。
 率直に言えば、そもそも
 「創造性を身につける」といった発想そのものが、ある種の「倒錯」であり、
 真の創造的な芸術からは対極にある発想と言えるでしょう。
 ときおり、「創造性」にこだわるあまり
 「他人とは違った発想」「他の人間とは異なった視点」などを
 意識過剰なほどに追求する「芸術家志向」の人物を見かけますが、
 真の創造性とは、そうしたものではありません。
 そもそも、創造性とは、
 「他者との相違は何か」を求めて生み出されるものではありません。
 
 創造性とは、
 「自己の真実とは何か」を求めての歩みから自然に生み出されるものです。
 
 それは、自己の魂の声に導かれ、自己の真実を求めて歩み続けた人間の足跡から、
 他の人々が自然に感じとるものに他ならないのです。
 
 そして、人々がその芸術家の作品の中に見る「創造性」とは、
 その芸術家自身にとっては、
 決して「目的」ではなく、単なる「結果」に過ぎないのです。
 
 同様に、いまだかつて、
 「直観力を身につけるためにはどうすればよいか」との発想を持って、
 優れた直観力を身につけた経営者はいなかったことも理解すべきでしょう。
 先ほどの芸術家の「創造性」と同様に、
 こうした経営者にとっても、身についた「直観力」とは、
 「目的」ではなく「結果」に過ぎないのです。
 この経営者は、何百人、何千人という社員の人生を預かり、
 容易に答えの出ない眼前の経営課題に全責任を賭けて取り組み、
 「何が正しい判断か」を極限にまで考え続けるという修練を通じて、
 その直観力を自然に身につけたのです。
 
 ■ 「方法」を求める安易な精神
 
 このように直観力や洞察力とは、
 人為的に身につけるものではなく、自然に身につくものなのです。
 そして、それを身につけるために、
 もし「方法」とでも呼ぶべきものがあるとするならば、
 それは、ただ「徹する」ということに尽きるのです。
 
 しかし、この「徹する」ということは、
 言葉にすることはたやすいのですが、実は極めて困難なことです。
 なぜならば、何かに「徹する」ということは、
 実は、人間にとって最も高度な精神力が要求される行為だからです。
 例えば、禅の世界において道元が
 「只管打坐」(しかんたざ − ただ座禅に徹せよ)と言っていますが、
 この言葉に象徴されるように、
 「徹する」ということは、最高度の宗教的な修行にさえなるほどに、
 難しいことなのです。
 そして、その難しさを知るとき、我々は理解することができるのです。
 
 なぜ、これほど直観力や洞察力を身につけたいと願う
 マネジャーが溢れているにもかかわらず、
 それを身につけるマネジャーが少ないのか。
 
 その原因を理解することができるのです。
 
 その原因は、手軽に直観力や洞察力を身につけたいと願う
 マネジャーの「精神」にこそあります。
 
 その原因は、
 「直観力や洞察力を身につけるための特別な方法がある」
 「その方法を知ることによって手軽に直観力や洞察力を身につけたい」
 と考えるマネジャーの「精神の安易さ」にこそあるのです。
 なぜならば、こうした安易な精神からは、
 決して「徹する」という姿勢は生まれてこないからです。
 
 それにもかかわらず、いま世の中には、
 「直観力を身につけるにはどうすればよいか」
 「創造性を身につけるにはどうすればよいか」
 「決断力を身につけるにはどうすればよいか」
 といった倒錯した問題意識が溢れています。
 そして、こうした問題意識に対して、
 ビジネス書籍や研修セミナーなどにおいては、
 「直観力や洞察力を身につけるための特別な方法がある」
 「その方法を知ることによって手軽に直観力や洞察力を身につけることができる」
 という幻想が振りまかれ、
 安易なマニュアルやテクニックのごとき方法が提示されているのです。
 
 しかし、このような安直な発想によって、
 直観力や洞察力などの高度な力量を身につけることは、決してできないでしょう。
 そうした安易な発想にもとづく試みは、すべて失敗するでしょう。
 しかし、その失敗の原因は、「方法」そのものにあるのではありません。
 
 その原因は、そのような安易な方法を求める「精神」の在り方にこそあるのです。
 
 「狭き門より入れ」という言葉があります。
 それは、マネジメントにおける大切な心得なのではないでしょうか。
 
 なぜならば、安易な方法を選んで得られるものは、
 その精神の安易さを、鏡のごとく映し出してしまうからです。
 
 その怖さをこそ、我々マネジャーは、理解すべきではないでしょうか。
 
 
 
 
★09
 第9回 なぜマネジメントにおける「直観力」が身につかないのか(その4)
     − 「論理」の彼方の世界
┌────────────────────────────────────┐
 直観力や洞察力とは、
 人為的に身につけるものではなく、自然に身につくものです。
 そして、それを身につけるために、
 もし「方法」とでも呼ぶべきものがあるとするならば、
 それは、ただ「徹する」ということに尽きるのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「無我夢中」になることの意味
 
 我々マネジャーが、もう一つ理解すべきことがあります。
 
 奇妙なことに、
 「直観力を身につけるにはどうしたらよいか」といった
 抽象的な問題意識を持つマネジャーは、
 自分自身の目の前の具体的課題については
 希薄な問題意識しか持っていないことが多いのです。
 
 例えば、部下を3人預かっているマネジャーを考えてみましょう。
 彼が、ひとたび
 「自分は、3人の部下が気持ち良く働ける職場の雰囲気を創っているだろうか」
 との具体的な問題意識を抱くならば、
 その問いに対する答えを見出すためには、
 実は、夜も眠れぬほど考え込んでしまうはずなのです。
 そして、本当に、夜も眠れぬほど考え込み、
 昼は職場で部下の気持ちを汲み取ろうと努力し続けるならば、
 そのマネジャーは、間違いなく
 職場の雰囲気の変化を直観する何がしかの力量を身につけるはずなのです。
 
 しかし、なぜか、我々は、
 こうした目の前の具体的課題に対しては
 あまり身を入れることなく適当に対処するだけであり、
 一方、「直観力を身につける方法」などの抽象的な課題には、
 強い興味を持って学ぼうと考えてしまうのです。
 
 しかし、常に真実は足下にあります。
 
 自分自身にとって最高の修練の場である
 職場の具体的課題に没入することのないマネジャーが、
 いかなる書籍によっても、いかなる研修によっても、
 最高の智恵を獲得することはないでしょう。
 こうしたマネジャーの姿は、
 まさに、「木に縁りて魚を求む」がごとき姿なのです。
 
 例えば、優れた直観力で商品開発に成功したと評される
 マネジャーがいたとしましょう。
 しかし、実は、このマネジャーが商品開発に成功したのは、
 優れた直観力を持っていたからではありません。
 このマネジャーが商品開発に成功したのは、
 「顧客が望む商品とは何か」との問いを
 「無我夢中」になって精神の極限にまで追求したからです。
 文字通り「寝ても覚めても」の世界にまで至ったからです。
 
 そして、その結果、気がつけば直観力が発揮されていたに他ならないのです。
 京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が語る「狂の世界」とは、
 まさに、この機微を指したものでしょう。
 従って、もしこのマネジャーの成功の原因を、
 彼の持つ「才能」に求めるとすれば、
 その才能とは、彼の「直観力」ではありません。
 
 その才能とは、彼が持つ「集中力」に他なりません。
 
 すなわち、無意識に集中してしまうという「精神の力」や、
 無我夢中になってしまうという「魂の力」とでも呼ぶべきものが、
 彼の天賦の才能なのでしょう。
 
 特に、この「無我夢中になってしまう」という才能は、極めて重要な才能です。
 
 なぜならば、直観力や洞察力が真に発揮されるための条件を考えるとき、
 この「無我夢中になってしまう」という才能が、大切な意味を持つからです。
 その意味は、実は、この「無我」という言葉の中にあります。
 
 ■ 「無心」であるときに閃くもの
 
 例えば、勝負ごとの世界には、
 「直観は過たない、過つのは判断である」
 という格言があります。
 そして、ビジネスの世界においても、
 この言葉の正しさを経験的に感じている熟練のマネジャーは
 多いのではないでしょうか。
 一例を挙げましょう。
 
 仕事において、極めて重要な問題が発生します。
 その瞬間に、第六感が「ピーン」と教える答えはあるのですが、
 その後、様々な分析や検討を進めていくに従って、
 別な答えが正しいように思えてきます。
 そこで、その別な答えを選ぶという判断を下すのですが、
 結果は、最初の直観が当たっているという皮肉な展開となってしまいます。
 
 そうした苦い経験を持っている熟練のマネジャーは多いのではないでしょうか。
 
 では、こうした場面で、なぜ「判断」が過つのでしょうか。
 
 そのことを考えるとき、
 羽生善治棋士のもう一つのエピソードが、大切なことを我々に教えてくれます。
 
 何年か前の竜王戦第六局における、佐藤康光棋士との対局でのエピソードです。
 羽生棋士が、先手であるにもかかわらず、開始後数分間、先手を指さないのです。
 目を閉じて、何か考え事をしている。
 通常ならば、前日の夜か当日の朝には、
 先手に何を指すかは決めているはずなのですが、指そうとしません。
 そして、対局者の佐藤棋士が訝し気に見つめ、周囲に心の波が伝わり始めたとき、
 ようやく羽生棋士が先手を指したのです。
 
 後日、羽生棋士は、
 詩人吉増剛造氏とのテレビでの対談において、
 このとき先手を指さなかった理由を、
 「突然、迷いが生じたのですか」と聞かれ、答えています。
 
「いえ、そうではありません。静寂がやってくるのを待っていました」
 
 これは決してカメラのシャッター音が騒々しかったということを
 述べているのではありません。
 大勝負の一番において、最も大切な先手を指す瞬間に、
 どのような「心境」でそれを行うかにこだわったのです。
 
 そして、こうした「心境」の大切さは、
 極めて責任の重い決断を迫られた経験のあるマネジャーならば、
 理解できることでしょう。
 
 そこで、このエピソードが教えてくれるものを、誤解を恐れずに言いましょう。
 
 深い直観力が求められる重要な意思決定の場面において、
 最も大切なことは「何を選ぶか」ではありません。
 最も大切なことは「いかなる心境で選ぶか」なのです。
 
 そして、このことの意味は、
 実際に重い責任を担って極めて難しい意思決定を行ってきた
 経営者やマネジャーには、深く理解できることなのです。
 
 では、なぜ、羽生棋士が答えたような、
 「静寂がやってくるのを待つ」ことが大切なのでしょうか。
 
 それは、苛立ち、焦り、不安、恐怖などのエゴに振り回され、
 騒々しい心境で意思決定を行ったときには、
 直観力が曇り、誤った判断に流されてしまうからです。
 逆に、「無我夢中」「無心」の心境にあるときには、
 不思議なことに、直観と洞察の閃きが訪れるからです。
 
 おそらく、前回紹介した斎藤マネジャーは、
 重い責任と周囲の期待が生み出す胸中の雑念を振り払うために、
 敢えて「サイコロ」に意思決定を託し、
 「無心」の境地でそれを振ることによって、直観の閃きを待ったのでしょう。
 
 なぜ、経営者やマネジャーには、
 「無心であること」や「私心が無いこと」が求められるのか。
 
 その一つの理由は、まさにこの点にあるのです。
 
 
★10
 第10回 なぜ「原因究明」によって問題を解決できないのか(その1)
     − 問題群の「循環構造」
 
 ■ 企業における「責任転嫁」ゲーム
 
 皆さんは、企業において、
 「責任転嫁ゲーム」とでも呼ぶべき状況に遭遇したことはないでしょうか。
 
 例えば、業績の不振が続く企業において、
 経営トップが各部門の責任者に「その原因は何か」と聞きます。
 
 すると、その答えは責任者の所轄する部署によって違うのです。
 まず、財務部長に聞くと
 「販売が頑張らないから売り上げが伸びない」との答えです。
 そこで、販売部長に聞くと
 「魅力的な商品を開発しないから売れない」との答えが返ってきます。
 従って、開発部長に聞くと、今度は、
 「販売が顧客ニーズを伝えないから開発ができない」
 「人事が優秀な人材を採用して開発部門に配属しない」などの説明が
 戻ってきます。
 それではと、人事部長に聞くと
 「企業イメージが悪すぎて良い人材が集まらない」
 「広報がもっと頑張らないと困る」です。
 こうなると予想通り、広報部長からは
 「企業イメージを高めるようなヒット商品が出ないと駄目だ」との返事です。
 そして、挙句の果てに、
 「いまは、経営トップ自身が、企業イメージとなる時代です」などの
 耳の痛い一言が戻ってきます。
 
 笑うに笑えない、このような状況です。
 実は、こうした「責任転嫁ゲーム」とでも呼ぶべき状況は、
 企業全体のレベルだけでなく、
 事業部門のレベルや職場のレベルにおいても、しばしば生じています。
 そして、こうした「責任転嫁ゲーム」に遭遇すると、多くのマネジャーが、
 「それでは、いったいどこに根本的な原因があるのか」と
 考え始めてしまうのです。
 しかし、実は、このような「犯人探し」の発想こそが、
 我々マネジャーがしばしば陥る過ちなのです。
 
 例えば、企業においてしばしば見受けられる「犯人探し」として、
 「人事部門・元凶論」というものがあります。
 各部門からの責任転嫁が人事部門に集中するのです。
 実際、多くの企業で、
 「当社の問題は、人事部門が元凶だ」などの批判をしばしば耳にしますが、
 たしかに「企業は人なり」との原点に戻れば、
 こうした批判は「反論不能」の論理でもあります。
 
 しかし、こうした議論は、
 企業全体から見れば、ある種の「思考停止」に他なりません。
 人事部門にすべての責任を押しつけて「事足れり」としてしまうからです。
 
 そこで、ここでは、企業においてしばしば遭遇する、
 この「責任転嫁ゲーム」と「犯人探し」の問題について、
 少し深く考えてみましょう。
 この問題を考えることによって、
 なぜ、我々マネジャーには「大局観」が求められるのか、
 そのことが理解できるからです。
 
 前回までは、マネジメントにおける
 「直観力」や「洞察力」の意味について考えました。
 そこで、次回からは、マネジメントにおける
 「大局観」と呼ばれるものの意味について考えてみましょう。