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著者:田坂広志
★11
2004年02月12日 号
 
第10話 いかにして「反省」をするか / 意味(その2)
┌────────────────────────────────────┐
 「反省」ということを本当に深く行うためには、
 実は、大切な心得があります。
 前回は、その「反省の心得」として、
 「隠れた目的」を持つ、「失敗」を活用する、という
 二つの心得を述べました。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■「反省」のための第三の心得
 
 第三の心得を述べましょう。
 
 「引き受け」をする。
 
 これはどういう意味でしょうか。
 「失敗や敗北の活用」ということを述べると、
 あたかも、仕事での大きな「失敗」や、競争での厳しい「敗北」がなければ
 謙虚で素直な気持ちになり、何かを学ぶことができないと考えてしまいますが、
 決してそうではありません。
 
 我々は、何も失敗や敗北がないときでも、深く反省し、学ぶことはできるのです。
 しかし、そのためには、一つの心構えを身につけることが必要です。
 それが、この「引き受け」です。
 
 この「引き受け」というのは、心理学の用語ですが、
 何か問題が起こったとき、たとえそれが
 直接に自分の責任ではないと思える問題であっても、
 それを敢えて自分の責任として受け止めてみるという心の姿勢のことです。
 
 この「引き受け」という心構えは、
 新入社員や若手社員にとっても大切な心構えですが、
 特に、我々がリーダーやマネジャーの立場に立ったとき、
 決して忘れてはならない心構えです。
 
 職場で起こる様々な問題の原因を、一度、
 「その責任は自分にある」と自分で引き受けてみる。
 ときに、こう考えてみる。
 
 職場のメンバーの姿は、自分というマネジャーの心が映し出された「鏡」である。
 
 そう考え、問題の原因を自分の責任として引き受けてみる。
 そのとき、我々は、最も深く「反省」という営みに向かうことができるのです。
 
 なぜなら、職場や仕事においてトラブルが発生するのは、
 必ずしも、誰か特定の「犯人」が存在したり、
 何か分かりやすい「因果関係」が存在しているためとはかぎらないからです。
 むしろ、多くの場合、トラブルは、「最近、職場の雰囲気が悪い」
 「なぜか、仕事の流れが悪くなっている」といった全体的な状況の中から、
 その状況を象徴する形で発生してくるからです。
 
 それゆえ、職場や仕事において問題が発生したとき、リーダーやマネジャーは、
 一度、「その責任は自分にある」と考えてみるべきなのです。
 なぜなら、その職場の雰囲気や空気というものは、無意識に、
 そのリーダーやマネジャーが生み出してしまっていることが多いからです。
 
 しかし、こうした「引き受け」をすることは、決して容易なことではありません。
 我々は、一人の人間としてのエゴを持ち、しばしば、そのエゴが心の奥深くで、
 「それは自分の責任ではない」「それは彼に原因がある」と叫ぶからです。
 しかし、それでも、敢えてすべての責任を心の世界で「引き受け」てみる。
 
 そのとき、我々は、「謙虚さ」や「素直さ」だけでなく、
 実は、ある意味での「強さ」を身につけることができるのです。
 
 ■ 「反省」の背景にある思想
 
 さて、これら三つの心得が、「反省の心得」です。
 我々は、これらの心得を身につけることによって、
 より深く「反省」を行うことができるのです。
 
 しかし、これらの「反省の心得」の背景には、実は、
 大切な一つの思想があるのです。
 それは、何でしょうか。
 
 すべてのことに、深い意味がある。
 
 その思想です。
 すなわち、すべてのものごとは、何の意味もなく起こっているのではなく、
 その起こったものごとを通じて、我々に大切なことを教えてくれようとしている。
 そうした思想です。
 
 これは、近年注目されている「プロセス指向心理学」などが、
 その根本に置いている思想ですが、それは、ある意味で、
 我々の人生というものに対する最も深い「楽観主義」でもあります。
 すなわち、それは、この言葉で表される思想なのです。
 
 起こることは、すべて良きこと。
 
 例えば、たとえ会議が「公式の目的」通りに進まなかったとしても、
 その会議において幾つもの「隠れた目的」を達成することができる。
 たとえ仕事で失敗に直面したとしても、
 それによって心が謙虚で素直になり、多くのことを学ぶことができる。
 たとえ自分には責任の無い問題であろうとも、
 その責任を引き受けることによって、
 さらに大きく人間として成長することができる。
 
 そうした、最も深い「楽観主義」の思想なのです。
 
 もとより、古くからの格言に
 「人生に、無駄なことは一つも無い」という言葉がありますが、
 たしかに、いかなる苦しい出来事や不幸と見える経験からも
 大切な何かを学ぶことができるなら、我々は、
 この言葉を「真実の言葉」にしていくことができるのでしょう。
 
 しかし、そのためには、
 日々の仕事において直面する様々な出来事に対して、
 その表層に出現するネガティブな「問題」に目を奪われることなく、
 その深層に存在するポジティブな「意味」を感じ取る力が求められます。
 
 すべてのことに、深い意味がある。
 
 その「意味」を感じ取る努力こそが、
 「反省」ということの本質に他ならないのです。
 
 
★12
2004年02月19日 号
 
第11話 いかにして「人間」から学ぶか / 師匠(その1)
 
 大切な人生の時間のなかで与えられた貴重な「経験」から
 多くの「智恵」を学ぶこと。
 それが、「時間を生かす」ということの、一つの意味です。
 第5話から第10話では、そのための方法として
 「感得」と「反省」という方法について述べました。
 しかし、我々が「智恵」を学ぶのは、「経験」からだけではありません。
 大切な人生の時間のなかで巡り会った「人間」からも、
 我々は、多くの「智恵」を学ぶことができるのです。
 この第11話では、その方法について話をしましょう。
 しかし、もし我々が、「人間」から学ぼうとするならば、
 決して忘れてはならない大切な心得があります。
 
 「師匠」を見い出すことです。
 
 職業人としての優れたスキルやノウハウを身につけた人々。
 人間としての優れた知性や豊かな感性を身につけた人々。
 それらの人々と巡り会い、「師」と仰ぎ、
 その智恵を深く学ぶことが大切です。
 
 では、その「師匠」を、どこで見い出すか。
 
 「職場」です。
 
 そう申し上げるのには、二つの意味があります。
 
 第一に、職場には、職業人として優れたスキルやセンス、
 テクニックやノウハウを持った先輩や上司がいるからです。
 我々は、これらの人々を「師匠」とすることによって、
 その「職業的な智恵」を学ぶことができるからです。
 
 第二に、職場では、その「師匠」と「経験」を共有できるからです。
 師匠からスキルやセンス、ノウハウやテクニックを学ぶためには、
 一緒に仕事をし、様々な仕事の経験を共有し、
 師匠が仕事においてスキルやノウハウを発揮している瞬間を
 すぐ傍で学ぶ必要があるからです。
 
 そして、ここで私が敢えて「師匠」という言葉を使うのは、理由があります。
 それは、師匠からの学びとは、「全人的」なものだからです。
 すなわち、師匠から学ぶのは、単なるスキルやノウハウなどの「技術」ではなく、
 その奥にある「心得」であり、さらには「人間」そのものだからです。
 その意味を込めて、私は、「師匠」という言葉を使っています。
 
 ■ いかにして「師匠」からスキルを学ぶか
 
 では、例えば、「師匠」からいかにして「スキル」を学べばよいのでしょうか。
 そのとき、忘れてはならない鉄則があります。
 
 師匠から、表面的な「スキル」だけを学んではならない。
 
 その鉄則です。
 なぜなら、「スキル」というものは、本来、
 極めて「個性的」なものだからです。
 
 例えば、プロ野球の天才打者、王貞治選手の一本足打法は、
 王貞治という人物の「個性」において成功したスタイルです。
 それは、ただ「一本足で立つ」という打法で成功したのではなく、
 王選手の人並み外れた「足腰の強さ」「瞬発力」「集中力」「選球眼」などの
 個性的能力との組み合わせにおいて成功したスタイルです。
 従って、それを「個性」の違う他の選手が真似しても、決してうまくいきません。
 
 すなわち、一流のプロフェッショナルのスキルとは、
 そもそも、その人物の「個性」に最も合ったスキルなのです。
 
 例えば、プレゼンテーションのスキル一つをとっても、
 声に力のある人物のスキルは、
 圧倒的な迫力を個性とするプレゼンテーションになるでしょう。
 しかし、声に力のない人物のスキルは、
 派手ではないが、なぜか心に沁み込んでくるスタイルを個性とする
 プレゼンテーションになるでしょう。
 すなわち、
 
 成功者は常に「個性的」である。
 
 我々は、そのことを忘れてはならないのです。
 では、この「成功者は常に個性的である」ということを理解するならば、
 我々が、「師匠」から学ぶべきものは何でしょうか。
 
 それは、実は、「スキルそのもの」ではありません。
 
 我々が学ぶべきは、「自分の個性にあったスキルの見つけ方」なのです。
 
 このことは、しばしば世の中で誤解されていることなのですが、
 我々が師匠を見い出したとき、本当に学ぶべきはスキルそのものではありません。
 なぜなら、一人のプロフェッショナルにとって、
 どのようなスキルが最も適しているかは、
 そのプロフェッショナルの個性によって違ってくるからです。
 従って、我々が学ぶべきは、師匠のスキルそのものではなく、
 自分の個性の見い出し方、そして、その個性に適したスキルの見い出し方です。
 
 それをこそ、「師匠」から学ばなければならないのです。
 
 
★13
2004年02月26日 号
 
第12話 いかにして「人間」から学ぶか / 師匠(その2)
┌────────────────────────────────────┐
 我々が師匠を見い出したとき、本当に学ぶべきはスキルそのものではありません。
 なぜなら、一人のプロフェッショナルにとって、
 どのようなスキルが最も適しているかは、
 そのプロフェッショナルの個性によって違ってくるからです。
 従って、我々が学ぶべきは、師匠のスキルそのものではなく、
 自分の個性の見い出し方、そして、その個性に適したスキルの見い出し方です。
 
 それをこそ、「師匠」から学ばなければならないのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 師匠から学ぶための「基礎能力」
 
 しかし、この「自分の個性にあったスキルの見つけ方」を学ぶためには、
 そのための「基礎能力」として、最初に師匠から学ぶべきものが、二つあります。
 
 一つは「リズム感」、
 一つは「バランス感覚」です。
 
 これは、一流のプロフェッショナルは、誰もが例外なく身につけている、
 優れた「基礎能力」です。
 
 例えば、プレゼンテーションのプロフェッショナルは、必ず、
 身体的なリズム感が抜群です。
 もとより、話の内容も面白いのですが、やはり、
 その話し方に、聴衆を引き込む独特のリズムがあります。
 それが、話術の世界において、しばしば「何々節」と呼ばれるものです。
 
 また例えば、交渉のプロフェッショナルは、必ず、
 「押さば引け、引かば押せ」のバランス感覚が見事です。
 これ以上押したら交渉決裂、
 これ以上引いたら相手の思い通り。
 そのぎりぎりのところで、絶妙のバランスを取ることができるのです。
 
 ■ 「リズム感」と「バランス感覚」の大切さ
 
 ちなみに、この「リズム感」や「バランス感覚」は、
 極めて古典的なテーマでもあり、
 極めて現代的なテーマでもあります。
 
 例えば、空海の言葉に「五大にみな響きあり」という言葉があります。
 それは、この世界のすべては「響き」である、すなわち、
 この世界のすべては「リズム」で成り立っているという思想です。
 その意味で、この「リズム感」とは、単なるスキルのレベルを超えて、
 我々人間にとって、極めて根源的なものなのです。
 
 また、例えば、現代の最先端の科学である「複雑系」の研究において、
 「カオスの縁」という理論があります。
 これは、最も生命的なものは、
 完全なカオス(混沌)でもなく、
 完全なオーダー(秩序)でもない、
 その中間の「カオスの縁」と呼ばれる領域に生まれる。
 その絶妙のバランスの領域に生まれる。
 そのことを述べた理論です。
 
 例えば、組織のメンバーの持つ創造性は、
 完全な規律統制でもなく、完全な自由放任でもない、
 その中間の最適のバランスのところで、最も高まります。
 
 このように、「バランス感覚」というものも、単なるスキルのレベルを超えて、
 我々人間や組織の生命力にとって、極めて根源的なものなのです。
 
 それゆえ、「リズム感」と「バランス感覚」
 それは、我々が身につけるべき、最も基礎的な能力なのです。
 
 ■ 一流のプロフェッショナルの条件
 
 このように、「集中力」というものが、
 プロフェッショナルとしての「基礎体力」であるならば、
 この「リズム感」と「バランス感覚」というものは、
 プロフェッショナルとしての「基礎能力」です。
 
 従って、この二つの「基礎能力」を磨くこと。
 
 それが、プロフェッショナルへの修業においては、極めて大切な課題となります。
 そして、このことは、逆に言えば、
 プロフェッショナルの卵の将来性を見るとき、
 この二つの「基礎能力」を見ると、かなりよく分かることを意味しています。
 
 「将来が楽しみだ」と感じさせる若手ビジネスマンは、
 やはり、この「リズム感」と「バランス感覚」が良いのです。
 
 おそらく、それは、持って生まれた才能であるか、
 子供時代の体験を通じて身につけた能力なのでしょう。
 
 しかし、もとより、この二つの基礎能力は、
 一流のプロフェッショナルになっていくための
 「必要条件」ではあっても、「十分条件」ではありません。
 
 それがあれば、必ず、プロフェッショナルとして成功するわけではありませんが、
 やはり、それがなければ、プロフェッショナルとしての成功は、難しいのです。
 
 ■ いかに「リズム感」と「バランス感覚」を掴むか
 
 では、どうすれば、この二つの基礎能力を身につけることができるのでしょうか。
 
 そこにも「師匠」の役割があります。
 
 優れた「リズム感」と「バランス感覚」を身につけるためには、
 それを持った「師匠」から、直接、体で掴み取ることです。
 
 では具体的には、それを、どのようにして掴み取るべきか。
 そのためには、あの格言を思い起こすべきでしょう。
 
 師匠とは、同じ部屋の空気を吸え。
 
 優れた「師匠」に出会ったならば、できる限り同じ部屋の空気を吸う。
 すなわち、できる限り一緒に仕事をする。できれば、一緒に生活をする。
 
 それが大切なのです。
 なぜなら、そのことによって、我々は、「師匠」が身体的に持つ
 「リズム感」や「バランス感覚」を掴むことができるからです。
 
 例えば、そのための一つの方法として、「電話の傾聴」があります。
 
 これは、私自身が、若き日に用いた方法ですが、
 優れた上司の傍らに席を取り、上司の電話でのやりとりに耳を傾け、
 相手との会話の「リズム感」や、
 相手とのやりとりの「バランス感覚」を掴む方法です。
 
 幸い、私が若手ビジネスマンの時代に仕えた上司は、
 「営業の達人」と呼ばれる人物でしたが、
 その上司の傍らの席で仕事をしながら、
 「電話の傾聴」によって掴んだ「リズム感」と「バランス感覚」は、
 それから後の人生で、極めて大きな財産となりました。
 
 余談ですが、この上司がある日、私に席を移動するかと尋ねたときがあります。
 それは、この上司から離れたところに、両袖の机がある広い席が空いたので、
 親切心から私に、その広い席へ移動をするかと尋ねたのです。
 そのとき、私は、即座に「この席で結構です」と答えました。
 たとえ狭い席であろうとも、
 日々、その上司の電話のやりとりを聞くことのできる席は、
 若い一人のビジネスマンにとって、何物にも代えがたい財産だったのです。
 
 
★14
2004年03月04日 号
 
第13話 いかにして「人間」から学ぶか / 師匠(その3)
┌────────────────────────────────────┐
 「自分の個性にあったスキルの見つけ方」を学ぶためには、
 そのための「基礎能力」として、最初に師匠から学ぶべきものが、二つあります。
 
 一つは「リズム感」、
 一つは「バランス感覚」です。
 
 では具体的には、それを、どのようにして掴み取るべきか。
 例えば、そのための一つの方法として、「電話の傾聴」があります。
 
 これは、私自身が、若き日に用いた方法ですが、
 優れた上司の傍らに席を取り、上司の電話でのやりとりに耳を傾け、
 相手との会話の「リズム感」や、
 相手とのやりとりの「バランス感覚」を掴む方法です。
└────────────────────────────────────┘
 ■ 「個性の違い」を学ぶ段階へ
 
 これが「電話の傾聴」という方法ですが、それ以外にも色々な方法があります。
 
 例えば、「会議の達人」と呼ばれるマネジャーを、心の中で師と仰ぐ。
 そのマネジャーの主宰する会議には、できるだけ出席する。
 そして、そのとき、会議での議論の内容だけに注目するのではなく、
 このマネジャーの会議の「仕切り方」にも注目し、それを学ぶ。
 それも、表面的なスキルだけに目を奪われず、
 その奥にある「リズム感」や「バランス感覚」を、掴む。
 そうした方法があります。
 
 そして、こうした方法を通じて、ひとたび、
 「師匠」から「リズム感」や「バランス感覚」を掴んだなら、
 いよいよ、その先へと進むことができます。
 
 「自分なりの工夫」です。
 
 すなわち、師匠の持つ優れたスキルやテクニックを学びながら、
 その表面的なものに惑わされず、その個性の違いを学ぶ。
 そして、自分の個性を考え、自分なりの工夫をしながら、
 自分に最も合ったスキルやテクニックを編み出し、身につけていく。
 その段階です。
 
 ■ 「理想の方法」とは何か
 
 しかし、この「自分なりの工夫」ということを考えるとき、
 非常に示唆に富んだ一つのエピソードがあります。
 
 それは、プロ野球において「安打製造機」の異名をとった打撃の名手、
 張本勲選手のエピソードです。
 
 ある日、張本選手のところに、一人の若手選手が相談に来たそうです。
 そして、質問をしたそうです。
 
 「張本さん、理想のバッティング・フォームについて
  教えていただきたいのですが」
 
 この若手選手の質問に対して、
 張本選手は、こう答えたそうです。
 
 「理想のバッティング・フォーム?
  もし、君がそれを知りたいのならば、
  一晩中、素振りをしなさい。
 
  一晩中、素振りをし続けて、
  疲れ果てたときに出てくるフォーム。
  それが、君にとって一番無理のない理想のフォームだよ」
 
 このエピソードは、我々に、大切なことを教えてくれます。
 
 我々は、いつも、成功するための普遍的な方法があると思い、
 その理想的な方法を、手軽に身につけたいと考えてしまうのです。
 
 しかし、実は、そうした普遍的な方法などありません。
 大切なことは、「自分にとっての理想的な方法」を見つけ出すことなのです。
 
 ■ プロフェッショナルへの道
 
 いま、書店に行けば、色々な分野の一流のプロフェッショナルの語る
 様々なスキルやノウハウの本が並んでいます。
 それらの本において、彼らの語るスキルやノウハウは、
 たしかに、説得力もあり、成功の体験に裏打ちされた重みのあるものなのですが、
 やはり、そのスキルやノウハウは、
 そのプロフェッショナルの個性において成功していることを
 決して忘れるべきではありません。
 なぜなら、そこに書かれているのは、そのプロフェッショナルの個性と、
 その個性ゆえに掴み取った独特のスキルやノウハウだからです。
 それゆえ、その個性の違いということを無視して、
 そのスキルやノウハウを、そのまま真似しても、
 決してうまくいくことはありません。
 
 プロフェッショナルの世界には、
 誰でも必ず成功する普遍的な方法や一般的な手法があるわけではありません。
 それにもかかわらず、我々は、
 師匠から、そうした方法や手法を学びたいと思ってしまいます。
 
 しかし、実は、そのような安易な心境こそが、
 プロフェッショナルとしての修業の最大の落とし穴になるのです。
 
 なぜなら、そうした安易な心境では、
 「疲れ果てるまでバットを振る」ということができないからです。
 しかし、本当に自分の個性的なスキルを掴むためには、
 ある意味での「極限」まで、自分を追い込まなければならないのです。
 
 我々は、そのことを肝に銘じておくべきでしょう。
 
 そもそも、一流のプロフェッショナルの条件とは何でしょうか。
 それは、昔から言われる、あの言葉です。
 
 余人をもって代えがたい。
 
 だからこそ、プロフェッショナルにとっては、
 「個性的なスタイルを持っている」ということが、
 極めて大切な条件になってくるのです。
 
 そうであるならば、我々は覚悟すべきでしょう。
 
 プロフェッショナルへの道とは、
 その「個性的なスタイル」を求めての苦闘の道に他ならない。
 
 そのことを覚悟すべきでしょう。
 
 
★15
2004年03月11日 号
 
第14話 いかにして「自分」を見つけるか / 個性(その1)
 
 前回では、師匠からスキルを学んでいくとき、
 自分らしい個性的なスタイルを掴み取ることが大切であると述べました。
 
 では、その「自分らしい個性」を、
 いかにして掴み取ることができるのでしょうか。
 「自分」というものを、いかにして見い出していけばよいのでしょうか。
 今回は、そのことを話したいと思います。
 
 そもそも、「師匠」からスキルを学んでいくとき、
 一つの「落とし穴」があります。
 それは、何でしょうか。
 
 「猿真似」です。
 
 すなわち、「師匠」のスキルの表面的な形だけを真似して、
 そのスキルの真髄を掴まないという過ち。
 それが「猿真似」と呼ばれる過ちです。
 
 では、これがなぜ「落とし穴」なのでしょうか。
 
 それは、「猿真似」をすることによって、
 自分の「個性」を掴むことができなくなってしまうからです。
 
 しばしば、「学ぶことは、真似ることだ」と言われます。
 この言葉は、ある意味で正しい言葉なのですが、
 しかし、実は、この言葉の真意を誤って理解してしまう人が少なくありません。
 この言葉の真意は、間違っても「猿真似のすすめ」ではありません。
 
 本当の意味は、「個性の発見」なのです。
 すなわち、まず最初に、「師匠」のスキルをよく観察する。
 次に、そのスキルを見様見真似でやってみる。
 しかし、失敗する。
 そこで、師匠のスキルをさらに深く観察して、また真似てみる。
 やはり、うまくいかず、失敗する。
 そうして、表面的にはうまく真似たつもりでも、
 うまくいかないという体験を積み重ねる。
 その体験を積み重ねていくと、遂に、気がつくのです。
 
 「師匠の個性」と、「自分の個性」の違いに、気がつくのです。
 
 実は、「真似をする」ことの本当の目的は、ある意味で、
 この「うまくいかない体験」を積むためなのです。そして、
 こうした失敗のプロセスを通じて、「自分の個性」に気がつくためなのです。
 「自分の個性」を発見するためなのです。
 
 なぜなら、「個性」というものは、それ自身では発見できないものだからです。
 「個性」というものは、他の「個性」との対比において
 見い出せるものだからです。
 さらに言えば、「個性」というものは、
 他の強烈な「個性」との格闘を通じてのみ、磨き出されてくるものだからです。
 
 従って、修業の時代に、優れた「師匠」の真似をするということは、
 決して「猿真似」をするためではなく、実は、
 「自分の個性」を見い出すためなのです。
 
 そして、ひとたび、「自分の個性」を発見したならば、
 その「個性の違い」にもとづいて、
 自分なりの「工夫」をする段階が始まります。
 そして、そうした工夫を重ねているうちに、
 自分なりの「個性的なスキル」が生まれてくるのです。
 
 すなわち、それが、「真似をする」ということの本当の目的なのです。
 
 ■ 「真似」をするときの落とし穴
 
 しかし、その本当の目的を理解せず、ただ表面的に真似をしたとき、
 我々は「猿真似」と呼ばれる落とし穴に陥ってしまいます。
 
 そして、この「猿真似」は、単にスキルが磨けないだけでなく、
 さらに悪い問題を引き起こしてしまうのです。
 なぜなら、ビジネスの世界では、
 しばしば、こういう言葉が語られるからです。
 
 あのスタイルは彼だから成功する。
 他の人間が真似しても、毒になる。
 
 例えば、仕事のできる営業マネジャーには、
 「アクが強い」「クセがある」といった個性的なタイプが少なくありません。
 しかし、そのアクやクセをよく理解せず、
 こうしたマネジャーの営業スタイルを若手社員が表面的に真似すると、
 必ず、毒になってしまいます。
 
 例えば、仕事のできる営業マネジャーで、しばしば「口の悪い」タイプがいます。
 顧客に対してでも、平気でずけずけものを言う。ときに、きつい冗談も言う。
 しかし、なぜか顧客は、それを不愉快にも思わず、むしろ親しみを感じている。
 
 ところが、そのマネジャーの営業スタイルを見て、若手ビジネスマンが、
 同じようにやってみる。すると失敗する。
 顧客は不愉快に思い、気持ちが離れていく。
 そうしたことが起こります。
 
 では、なぜ、この若手ビジネスマンは、失敗するのでしょうか。
 
 大切なことに、気がついていないからです。
 この営業マネジャーは、その「口の悪い」スタイルの陰で、
 実に細やかに、顧客に対して気を配っているのです。
 そして、顧客もまた、この営業マネジャーの言葉の奥にある
 温かい人柄を感じ取っているのです。
 しかし、この若手ビジネスマンは、そのことに気がついていないのです。
 
 従って、顧客に対する細やかな気配りができず、
 顧客が親しみを感じる温かい人柄を持たない若手ビジネスマンが、
 この営業マネジャーの表面的なスタイルだけを真似すると、
 必ず、毒になってしまいます。
 
 それは、ある意味で、当然のことなのです。
 
 
★16
2004年03月18日 号
 
第15話 いかにして「自分」を見つけるか / 個性(その2)
┌────────────────────────────────────┐
 しばしば、「学ぶことは、真似ることだ」と言われます。
 この言葉は、ある意味で正しい言葉なのですが、
 しかし、実は、この言葉の真意を誤って理解してしまう人が少なくありません。
 この言葉の真意は、間違っても「猿真似のすすめ」ではありません。
 
 修業の時代に、優れた「師匠」の真似をするということは、
 決して「猿真似」をするためではなく、実は、
 「自分の個性」を見い出すためなのです。
 
 しかし、その本当の目的を理解せず、ただ表面的に真似をしたとき、
 我々は「猿真似」と呼ばれる落とし穴に陥ってしまいます。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「真似」をすることのもう一つの意味
 
 では、「真似」をしてはいけないのでしょうか。
 
 そうではありません。
 やはり、「真似」をすることには、大切な意味があるのです。
 
 一つには、先ほど述べた「自分の個性を発見する」という意味があります。
 そして、もう一つ、大切な意味があるのです。
 
 それは、「師匠の呼吸を体得する」ということです。
 
 我々が、師匠の真似をするもう一つの理由は、それを通じて、
 優れたスキルの奥にある「リズム感」や「バランス感覚」、
 すなわち「呼吸」と呼ばれるものを掴むためなのです。
 
 しかし、師匠も持たず、師匠の真似もせず、
 自分勝手にスキルを身につけようとすると、
 優れたスキルの奥にあるべき大切な「呼吸」が掴めないため、我々は、
 しばしば言われる、「我流」という世界に陥ってしまいます。
 
 すなわち、本来あるべき呼吸を掴んでいないため、
 リズム感とバランス感覚の無いスキルが、不自然なまま身についてしまうのです。
 
 ■ 修業時代の「苦しさ」の本質
 
 このように、「真似をする」ということには、
 大切な二つの意味があります。
 
 一つは、「自分の個性を発見する」ことであり、
 もう一つは、「師匠の呼吸を体得する」ことです。
 
 しかし、そもそも、
 「自分の個性を発見する」ということも、
 「師匠の呼吸を体得する」ということも、決して容易なことではありません。
 特に、師匠の下で修業して、自分の「個性」を掴むということは、
 実は、極めて難しい課題なのです。
 
 なぜなら、一流のプロフェッショナルは、
 押しなべて、極めて「個性的」だからです。
 そのため、そうしたプロフェッショナルを「師匠」と仰いだとき、
 我々は、しばしば、その強烈な個性的スタイルに幻惑され、
 そのスタイルを真似しようと、必死になってしまうのです。
 いや、真似しようと思わなくとも、その個性に圧倒されてしまうのです。
 
 しかし、実は、ここからが「勝負」です。
 
 もし、我々が、本当に一流のプロフェッショナルをめざすのならば、
 こうした師匠の個性的なスタイルから「呼吸」や「コツ」などを学びながらも、
 その強烈な個性に染まることなく、押しつぶされることなく、
 自分の個性を発見し、磨いていかなければならないのです。
 
 しかし、これが苦しい。
 
 実は、我々が、師匠の下で修業するとき、
 その修業の時代の苦しさの本質は、
 決して、使い走りをさせられることや、
 厳しい修練を課されることではありません。
 
 その苦しさの本質は、
 師匠の強烈な個性とスタイルに強く惹かれながらも、
 それに染まってしまわないで、
 自分なりの個性とスタイルを見い出していくことの、苦しさなのです。
 
 例えば、ユング心理学の創始者のカール・グスタフ・ユングは、
 かつて、その学問的な師であったジグムント・フロイトとの間で、
 凄まじいばかりの心の葛藤を体験します。
 それは、ある意味で、フロイトの強大な個性に対して、
 それに押しつぶされることなく、自分自身の個性を対置させ、
 精神の自立を獲得していく心理的戦いのプロセスでもありました。
 それは、ユングの自伝でも述べられているように、
 彼自身が精神的な危機に陥るほどの凄まじい葛藤でしたが、
 その葛藤と格闘を通じて、ユングは、フロイト心理学から独立し、
 自分自身の心理学、すなわちユング心理学を創始することができたのです。
 
 
★17
2004年03月25日 号
 
第16話 いかにして「自分」を見つけるか / 個性(その3)
┌────────────────────────────────────┐
 我々が、師匠の下で修業するとき、
 その修業の時代の苦しさの本質は、
 決して、使い走りをさせられることや、
 厳しい修練を課されることではありません。
 
 その苦しさの本質は、
 師匠の強烈な個性とスタイルに強く惹かれながらも、
 それに染まってしまわないで、
 自分なりの個性とスタイルを見い出していくことの、苦しさなのです。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「個性」が磨かれるとき
 
 しかし、そもそも「個性」とは、本来、そうしたものです。
 
 本当の「個性」は、
 異なった「個性」との葛藤や格闘を通じてしか
 磨かれることはないのです。
 
 しかし、日本には、この「個性」ということについて、一つの誤解があります。
 
 「個人主義」を尊重すると「個性」が豊かになる。
 
 その誤解です。
 我が国では、「個人主義」を尊重し、一人一人の「個人」に対して
 外部から干渉せず、自由に活動させれば、「個性」というものが磨かれるという
 大きな誤解があるのです。
 
 しかし、実は、そうではありません。
 本当の「個性」とは、
 異なった「個性」との葛藤や格闘を通じてこそ、磨かれるのです。
 
 そのことは、現在、一流のプロフェッショナルの道を歩まれている方々の
 若き修業の日々の話を聞けば分かります。
 多くの方々が、こういう言葉を述べられます。
 
 「あの師匠は、本当に、鬼だったな」
 「あの師匠から、何度、逃げ出したいと思ったか」
 
 すなわち、一流のプロフェッショナルの方々は、必ずと言ってよいほど、
 若き日に、厳しい師匠を持ち、
 その師匠の強烈な個性との葛藤と格闘の時代を歩んでいます。
 そして、その葛藤と格闘を通じて、
 そのプロフェッショナルの独特の「個性」を磨いてきています。
 
 すなわち、「個性」とは、本来、
 温室栽培のようにして育てられるものではなく、
 異なった「個性」との切磋琢磨を通じてしか磨かれないものなのです。
 
 ■ 「個性教育」という錯誤
 
 そして、まさにこの意味において、「自分の個性」を発見し、磨くことは、
 我々の人生において、極めて大切な課題なのです。
 
 アメリカの教育の世界で語られる言葉に、この言葉があります。
 
 Find your Own Uniqueness.
 あなた自身の唯一無二の何かを発見しなさい。
 
 この言葉は、大切な言葉です。
 なぜなら、この言葉は、人間の「内面」に語りかける言葉だからです。
 
 あなたには、あなただけが持つ、唯一無二の何かが、ある。
 それを信じ、あなたの人生において、それを見い出しなさい。
 
 この言葉は、そのことを教えてくれます。
 そして、この言葉は、我々の心を励ましてくれます。
 我々が、「自分らしさ」というものを発見することを
 励ましてくれるのです。
 
 これに対して、日本では、その「個性」さえも、
 「教育」という形で「外部」から育てることができるという錯誤があります。
 巷に溢れる「個性を育む教育」という言葉や、
 「個性を開花させる教育」などの言葉の氾濫は、
 そうした錯誤を象徴しています。
 
 こうした錯誤は、「個性」というものさえも、
 あたかも「模範的な個性」というものがあるかのような錯覚を
 我々に与えます。
 
 それは、「期待される人間像」などの錯誤と同様に、
 人間というものを、ある鋳型にはめ込み、
 個性というものを失わせていく
 現代社会の深い病なのでしょう。
 
 ■ 「唯一無二の自分」の発見
 
 我々は、なぜ、この困難な人生を生きるのでしょうか。
 
 これほどの重い荷物を背負い、
 これほどの長い道程を歩む。
 
 それは、なぜなのでしょうか。
 
 そのことの意味を教えてくれるのが、
 先ほどの言葉かもしれません。
 
 Find your Own Uniqueness.
 あなた自身の唯一無二の何かを発見しなさい。
 
 なぜなら、我々は、人生の困難や苦労と格闘するとき、
 そこに、「唯一無二の自分」を発見するからです。
 
 そして、我々の人生とは、ある意味で、
 その「唯一無二の自分」を発見する旅でもあるからです。
 
 
★18
2004年04月01日 号
 
第17話 いかにして「関係」を築くか / 自立(その1)
 
 前回は、いかにして「人間」から学ぶかという問いを掲げ、
 特に、「師匠」から学ぶための心得について述べてきました。
 しかし、我々が「智恵」を学ぶべきは、「師匠」からだけではありません。
 我々は、大切な人生の時間のなかで、多くの「人々」と巡り会い、
 様々な「関係」を築いていくことによって、「智恵」を学ぶことができるのです。
 
 では、我々は、巡り会った多くの「人々」と、
 いかにして「関係」を築いていけばよいのでしょうか。
 今回は、そのことを話したいと思います。
 
 しかし、このように「いかにして関係を築くか」ということを話すと、
 すぐに、「ああ、人脈を広げることか」と考える方がいると思います。
 
 しかし、ここで申し上げる「関係」とは、
 これまでビジネスマン社会でよく語られてきた「人脈」とは違います。
 
 率直に申し上げて、この「人脈」という言葉は、
 日本のビジネスマン社会では、少し手垢がついてしまった言葉です。
 
 では、なぜ、手垢がついてしまったのか。
 
 それは、我が国のビジネスマンの多くが、
 「知的怠惰」と「理念喪失」に陥ってしまったことに原因があります。
 
 例えば、日本企業で「人脈づくり」に勤しむ方々の中には、
 その人脈を使って、うまく「智恵を拝借しよう」と考える方が少なくありません。
 しかし、残念ながら、そうした「智恵を拝借する」という姿勢に、
 ある種の「知的怠惰」が忍び込んでいることに気がついていないのです。
 すなわち、自分自身が研鑽して学ぶことをせず、
 安易に他人の知識や智恵を借りようとする怠惰な姿勢です。
 
 また、例えば、そのようにして「人脈」をつくっても、
 その人脈の中で、互いのビジネスマンとしての理念や志を語り合うという
 かつての良き気風は失われてしまいました。
 むしろ、現代のビジネスマン社会を覆っているのは、
 「理念喪失」とでも呼ぶべき風潮です。
 
 かつて、私自身が実社会での歩みを始めた時代を振り返ると、
 職場の上司や熟練の先輩が集まった場はもとより、
 新入社員が集まった場においても、酒を飲むと、談論風発、
 「我が国の産業政策は、こうあるべし」といった理念を論じ、
 「この業界は、こう変わるべきだ」と変革の志を語るという気風がありました。
 しかし、我が国の社会と経済の長引く混迷のなかで、
 我々は、いつのまにかそうした気風を失ってしまったようです。
 
 そして、こうしたビジネスマンの「知的怠惰」と「理念喪失」とともに、
 日本のビジネスマン社会において、この「人脈」という言葉は、いつのまにか、
 サラリーマン同士の処世術としての「人脈」に堕してしまいました。
 
 しかし、ここで述べる「関係」という言葉は、
 その意味するところが、まったく違います。
 なぜなら、それは、
 プロフェッショナル同士の「関係」を意味した言葉だからです。
 では、何が違うのでしょうか。
 
 三つの条件を挙げておきましょう。
 
 ■ 「交換」という条件
 
 第一の条件は、「交換」ということです。
 
 プロフェッショナルの世界の「関係」においては、
 この「交換」ということが、大切な条件となるのです。
 
 特に、大切なのが、「智恵を借りる」ときです。
 そもそも、この「智恵を借りる」という言葉は、
 「借りる」であって、「貰う」ではありません。
 従って、「借りた」ものは、必ず「返す」
 そのことが暗黙の前提となっているのです。
 正確に言えば、相手から智恵を借りたら、いつか自分の智恵を相手に貸す。
 そのことが前提となっているのです。
 
 従って、これは「交換」です。
 すなわち、この言葉の精神は、「智恵の等価交換」にあるのです。
 そして、プロフェッショナルの間では、「智恵」は「等価交換」されるのです。
 
 従って、自分がいかなる智恵を相手に提供できるか、
 自分こそが提供できる智恵とは何か、
 そうしたことを考えずに、一方的に「智恵を借りよう」とする姿勢では、
 プロフェッショナル同士の「良き関係」は、決して成立しません。
 
 しかし、日本のビジネスマンで、このことを理解している人は、
 必ずしも多くはありません。
 
 例えば、私が米国のシンクタンクで働いていたとき、しばしば、
 日本からの訪問調査団がやってきました。
 日本企業のビジネスマンが集まって、この研究所の見学にやってきたのです。
 しかし、残念ながら、これらの調査団の多くが、
 アメリカにおいては「3S」と呼んで批判されるものでした。
 
 最初に会って握手するときには、ただ笑うだけ。(Smile)
 研究所からの説明が行われている最中は居眠り。(Sleep)
 そして、説明に対する質問が求められると沈黙。(Silent)
 
 その「3S」の調査団が、極めて多かったのは事実です。
 
 そして、研究所のメンバーから研究論文が配られると、
 先を争ってそれを手にする。
 また、一方的に研究者に情報提供を要求する。
 しかし、自分たちからは、何らの情報も提供しない。
 こうした日本のビジネスマンの姿勢に対して、
 しばしば、研究所のメンバーからは、陰で、
 「ブレイン・ピッキング」(智恵のただ取り)という、
 厳しい批判の言葉が投げられていました。
 
 しかし、これは、決して海外だけの話ではありません。
 日本においても、同様に、自分から知識や智恵を提供することをせずに、
 一方的に知識や智恵を手に入れようとするビジネスマンは、少なくありません。
 
 しかし、こうした「智恵のただ取り」や「お智恵を拝借」の安易な発想を持った
 「知的怠惰」と呼ぶべきビジネスマンは、これからの知識社会において、
 プロフェッショナル同士の「良き関係」を創り出すことはできないでしょう。
 
 知識社会とは、まさに、
 知識や智恵というものが自由に、かつ平等に交換される社会です。
 こうした社会における「知のネットワーク」とは、
 お互いに知識や智恵の「等価交換」ができるような関係を意味しているのです。
 
 ■ 「共感」という条件
 
 さて、第二の条件は、「共感」です。
 
 いま、プロフェッショナルの世界では「智恵の等価交換」が
 行われると述べました。
 しかし、実は、この世界においても、「智恵の等価交換」が成立しなくとも、
 無償で智恵を提供するときがあります。
 それは、いかなるときでしょうか。
 
 「共感」が生まれたときです。
 
 相手との間に、夢や志、思想や理念といった形での「共感」が生まれたときです。
 
 例えば、プロフェッショナルの先輩が後輩に何かを教えるときがあります。
 このときには、明らかに「智恵の等価交換」は成立していません。
 それにもかかわらず、貴重な時間を使って後輩の指導をするのは、
 なぜでしょうか。
 それは、単に上司から命じられたからという「義務」や、
 後輩を育てて仕事を任せられるようにしようとの
 「計算」からだけではありません。
 
 そうした「義務」も「計算」もないところで、
 プロフェッショナルの先輩が後輩に対して、
 懇切丁寧に指導やアドバイスをすることがあります。
 
 それは、例えば、その先輩が、その後輩の姿に、
 「成長したい」という一生懸命な気持ちを感じたからかもしれません。
 また、自分の若き日の姿を重ね合わせて感じたからかもしれません。
 いずれにしても、そこには「共感」があります。
 相手に対する人間としての「共感」があります。
 
 また、ときにそれは「共感」を超えて、「感謝」かもしれません。
 熟練のプロフェッショナルが、若いプロフェッショナルを指導するのは、
 かつて自分を温かく育ててくれた先輩に対する、
 深い感謝の気持ちからかもしれません。
 なぜなら、ビジネスマンの社会には、あの素晴らしい言葉があるからです。
 
 先輩から受けた恩は、後輩に返しなさい。
 
 この言葉は、誰でも一度は、耳にした言葉でしょう。
 これは、日本のビジネスマン社会の、一つの優れた伝統を表す言葉です。
 
 そして、この「感謝」ということもまた、
 広い意味での「共感」であると考えるならば、
 プロフェッショナルの間で「関係」が生まれるときには、
 こうした「共感」ということが、大切な条件になってくるのです。
 
 例えば、一人のプロフェッショナルが持つ、夢や志、思想や理念。
 
 そうしたものが、もう一人のプロフェッショナルと「共鳴」したとき、
 そこに「共感」が生まれてきます。
 そして、そのようにして生まれてきた「共感」にもとづくネットワーク、
 それは、極めて強い「関係」となります。
 
 そういう意味で、プロフェッショナルの間に生まれる「関係」とは、
 一緒にカラオケやゴルフをすることによって、「お近づきになる」と考え、
 そうして築いた人間関係がビジネスにおいて役に立つと期待する、
 いわゆる「人脈」とは、まったく異なった強さを持つものなのです。
 
 
★19
┌─┐
│ │なぜ、時間を生かせないのか
│02│− かけがえのない「人生の時間」に処する十の心得 −
└─┴───────────────────────────────────
 第18話 いかにして「関係」を築くか / 自立(その2)
┌────────────────────────────────────┐
 我々が「智恵」を学ぶべきは、「師匠」からだけではありません。
 我々は、大切な人生の時間のなかで、多くの「人々」と巡り会い、
 様々な「関係」を築いていくことによって、「智恵」を学ぶことができるのです。
 
 では、我々は、巡り会った多くの「人々」と、
 いかにして「関係」を築いていけばよいのでしょうか。
 今回は、第三の条件を話したいと思います。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「自立」という条件
 
 では、第三の条件は何でしょうか。
 
 「自立」です。
 
 プロフェッショナルの間に「関係」が生まれてくるためには、
 極めて重要な条件があります。
 
 それは、お互いが一人のプロフェッショナルとして
 「自立」しているということです。
 
 なぜなら、お互いが「自立」していなければ、
 「対等」の関係は生まれないからです。
 
 そして、注意すべきは、この「自立」とは、あくまでも、
 一人のプロフェッショナルとして「自立」しているという意味です。
 例えば、大企業のビジネスマンで、会社から自立していない人は、
 決して少なくありません。
 
 なぜなら、大企業に勤めるということは、その会社の看板を使って仕事ができる、
 その会社の整備された組織を使って仕事ができる、といった利点の一方で、
 油断をすれば、個人のプロフェッショナルとしての力で
 仕事をしているのではなく、単に、その会社の看板と組織に乗って仕事をしている
 状態になってしまうからです。
 
 そして、そうした状態に安住すると、身につけている知識も、
 特定のスキルに関するプロフェッショナルな「専門知識」ではなく、
 その会社においてのみ通用する「業務知識」だけになってしまいます。
 そのため、こうした大企業の看板や組織に安住したビジネスマンは、
 いざとなれば一人のプロフェッショナルとして自立できる力を
 身につけることができないのです。
 
 ■ 「自立」という言葉の逆説
 
 しかし、この「自立」という言葉には、もう一つの逆説的な意味があります。
 それは、何でしょうか。
 
 「弱さの認識」を持っているか。
 
 そのことです。
 自分自身は一人のプロフェッショナルとして自立している。
 一人で仕事を得て、収入を得ることもできる。
 しかし、自分一人では、決して良い仕事をできない。
 そうした「弱さの認識」を持っているかということです。
 
 それは、言葉を換えれば、「謙虚さ」と言ってもよいでしょう。
 
 例えば、ベンチャー企業の起業家や、中小企業の経営者には、
 そうした「弱さの認識」を持っている人が少なくありません。
 これに対して、残念ながら、大企業に依存するビジネスマンは、
 会社を離れては自立できない力でありながら、ときに、
 会社の看板や組織力、資金力を背負った、無意識の「傲慢さ」を持っています。
 そして、一人のプロフェッショナルとしての「謙虚な自己認識」や
 「弱さの認識」は、あまり持っていません。
 
 それは、会社全体の「文化」としても同様です。
 
 これまでの我が国の企業は、「総合企業」という言葉を好みました。
 会社名も「総合何々株式会社」という社名が多いことに象徴されるように、
 「すべてが一社でできる」ということが優れた企業の条件であるという、
 奇妙な幻想がありました。
 
 しかし、「すべてが一社でできる」という発想は、
 これからの新しい時代の「ネットワーク思想」の対極にある発想です。
 これからの新しい時代のネットワークは、企業も、個人も、
 「自社一社では何もできない」「自分一人では何もできない」という
 「謙虚な認識」「弱さの認識」こそが、その根底になければなりません。
 
 ■「三つの条件」の根底にあるもの
 
 さて、このように、
 プロフェッショナルとしての「関係」を広げていくためには、
 「交換」「共感」「自立」という三つの条件が求められます。
 
 しかし、我々は、これら三つの条件の根本にある
 大切なものを見落としてはなりません。
 それは、何でしょうか。
 
 「パーソナリティ」です。
 
 こうしたプロフェッショナルとしての「関係」は、
 そのプロフェッショナルの「パーソナリティ」、すなわち、
 「魅力的な人柄」によって生まれてくるのです。
 
 そのことを忘れるべきではないでしょう。
 
 それは、そもそも、「共感」という条件がそうです。
 相手の夢や志、思想や理念に共感することのできる感性というものは、
 一つの優れたパーソナリティです。
 
 また、「自立」という条件もそうです。
 何かの権威に依存せず自立していこうとする強さ。
 また、一方で、自分の弱さを認める謙虚さ。
 それもまた、一つの優れたパーソナリティです。
 
 そして、「交換」という条件さえ、実は、
 優れたパーソナリティによって生まれてくるのです。
 
 ■ 「ギブ・アンド・テイク」の発想を超えて
 
 例えば、「智恵の等価交換」ということを述べると、多くの方々は、
 「なるほど、ギブ・アンド・テイクの精神だな」と思われるかもしれません。
 たしかにそうです。
 しかし、正確に言えば、プロフェッショナルの世界で
 「関係」を広げていくために求められる精神は、
 この「ギブ・アンド・テイク」という言葉で表される精神ではありません。
 では、何でしょうか。
 
 「ギブ・アンド・ギブン」
 
 その言葉で表される精神なのです。
 
 そもそも、「ギブ・アンド・テイク」の精神とは、
 まず自分から相手に対して何かを「与える」(ギブ)、
 その見返りに、相手から何かを「取る」(テイク)、その精神です。
 
 しかし、「ギブ・アンド・ギブン」の精神とは、これと少し違います。
 まず自分から相手に対して何かを「与える」(ギブ)、
 すると、なぜか、自然に相手から「与えられる」(ギブン)、その精神なのです。
 
 それは、言わば、「与えよ、さらば、与えられん」という精神に他なりません。
 
 ■ プロフェッショナルの「最高の戦略」
 
 このように、一流のプロフェッショナルの精神とは、
 ある意味で、成熟した深みある精神であり、
 その優れた「パーソナリティ」こそが、
 素晴らしい「関係」を生み出しているのです。
 
 そうであるならば、一人のプロフェッショナルとして
 「関係」を広げていくための最も優れた方法は、何でしょうか。
 
 自分自身の「パーソナリティ」を磨くこと。
 
 それが、最も優れた方法なのです。
 そして、そのことを理解するとき、
 我々は、一つの逆説に気がつきます。
 
 日々、厳しい競争と戦いのなかにあるプロフェッショナル。
 しかし、一流のプロフェッショナルにとっては、
 
 パーソナリティこそが、最高の戦略なのです。
 
 
★20
┌─┐
│ │なぜ、時間を生かせないのか
│01│− かけがえのない「人生の時間」に処する十の心得 −
└─┴───────────────────────────────────
 第19話 いかにして「成長」をするか / 課題(その1)
 
 「時間を生かす」とは、どういうことでしょうか。
 
 その一つの意味は、大切な人生の時間のなかで、
 与えられた「経験」や、巡り会った「人間」から、深い「智恵」を学ぶことです。
 
 では、「智恵を学ぶ」とは、どういうことでしょうか。
 
 それは、言葉を換えれば、「成長する」ということです。
 一人の職業人として、一人の人間として、「成長する」ということです。
 
 では、いかにすれば、大切な人生の時間のなかで、「成長」していけるのか。
 いかにすれば、日々の仕事に捧げる時間のなかで、「成長」していけるのか。
 今回は、そのことについて話をしたいと思います。
 
 しかし、日々の仕事に捧げる時間のなかで「成長」していくためには、
 最初に問うべき、大切な問いがあります。
 
 「仕事の報酬」とは何か。
 
 そのことを深く問うことです。
 そして、自覚することです。
 
 「成長」というものが、仕事の報酬である。
 
 そのことを自覚することです。
 そして、できるならば、その自覚を、一つの思想にまで高めることです。
 
 仕事の真の報酬は、「人間としての成長」である。
 
 そうした確固とした思想を持つことが、成長をしていくために、極めて大切です。
 
 もちろん、成長などめざさなくとも、人間は成長していけます。
 昔から、「人間、何をやっても成長する」との言葉はあります。
 たしかに、いかなる仕事をしようとも、仕事をしているかぎり、
 人間として何らかの成長を遂げていくことはできます。
 しかし、そうした「偶発的成長」と「自覚的成長」は、決定的に違うのです。
 
 「仕事をした結果、人間として何らかの成長を遂げている」ということと、
 「人間としての成長をめざし、一生懸命に仕事に取り組む」ということは、
 似ているようでありながら、実は、決定的に違うのです。
 それは、なぜでしょうか。
 
 「方法」というものがあるからです。
 
 成長には、「方法」というものがあるからです。
 そして、その「方法」は、成長ということに対して、
 強い自覚や深い思想を持たなければ、決して身につけることはできないからです。
 
 では、その「成長の方法」とは何か。
 
 それについては、既に、これまでの話において、三つの方法を述べました。
 「反省」「感得」「師匠」という三つの方法です。
 
 ■ 「成長の心得」とは何か
 
 しかし、この話の最後に、
 こうした「成長の方法」の、さらに奥深くにあるべき
 「成長の心得」について述べておきましょう。
 それは、何でしょうか。
 
 「課題」を知ることです。
 
 すなわち、その時々の自分の「成長の課題」を知ることです。
 
 それは、成長していくために、極めて大切なことです。
 なぜなら、自分にとっての「成長の課題」を知っている人と、
 それを知らない人とでは、その成長に、大きな違いが生まれてしまうからです。
 
 例えば、職場の仲間の気持ちを理解し、心を配ることができない。
 自己表現が下手なため、不用意な言葉で相手を傷つけてしまう。
 問題に直面したとき、自分以外の他人や環境に原因を求めてしまう。
 そうした課題です。
 
 では、その「成長の課題」を、我々はいかにして知ることができるのでしょうか。
 
 それは、先に挙げた三つの方法を通じて知ることができます。
 
 まず、それは「反省」を通じて知ることができます。
 仕事に失敗したとき、その原因を反省することによって、
 自分の弱点や課題が明瞭に見えてくることがあります。
 
 また、「感得」によって、その課題を知ることもあります。
 ある日、ある出来事に直面したとき、
 「そうだ、これが、いまの自分の課題だ」との内なる声を聞くときもあります。
 
 さらに、「師匠」より指摘を受けて課題を知るときもあります。
 困難に直面したとき、「君にとって、これを学ぶ良い機会だ」と
 師匠から教えられるときがあります。
 
 すなわち、我々にとっての「成長の課題」は、
 「反省」「感得」「師匠」という三つの「成長の方法」に取り組むとき、
 自ずとそれを知ることができるのです。