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著者:田坂広志
★01
2003年11月27日 号
 
 序話 「タイム・マネジメント技術」の限界
 
 なぜ、時間を生かせないのか。
 
 これから、このテーマで話をしたいと思います。
 最初に、あるメールを紹介しましょう。
 先日、読者の方から、次のような相談のメールをいただきました。
 
 「私は、しばらく前に、日々の時間を生かして使わなければならないと思い立ち、
 タイム・マネジメントの技術を実践するように努力しています。
 例えば、毎朝、一時間だけ早く起きて、心身ともにフレッシュな時間に、
 専門的な本を読み、勉強をするようにしています。
 また、毎日の会社への通勤時間を生かして教養を深める読書をしたり、
 出張のときの電車や飛行機の待ち時間など、
 小さな空き時間を使って仕事の書類に目を通すようにしています。
 
 そして、週末は、土曜日を使って社会人大学院に通っています。
 二年間かけて、経営学修士の資格を取得しようと思っているのです。
 しかし、こうして一生懸命にタイム・マネジメントを実践しても、
 なぜか、充実感が得られないのです。
 これからの時代には、時間を大切にして自己研鑽に励まなければ、
 競争に勝てないし、生き残れないということも分かっているのですが、
 なぜか、こうして精一杯に努力しても、気持ちが満たされないのです。
 そのため、最近では、こうした努力も続かなくなってきました。
 どうすればよいのでしょうか」
 
 このメールを拝見して、まず、この方の真摯な姿勢に頭が下がりました。
 これからの時代に、どのように生きていけばよいのだろうかと真剣に考え、
 そして、これからの競争社会においては、自己研鑽が大切だと思い立ち、
 様々なタイム・マネジメントの技術を使って、仕事を手際よくこなしている。
 そして、忙しい仕事と生活の中で時間を捻出し、勉強や読書に取り組み、
 専門資格を取得するための学校にも通っているのです。
 
 しかし、「寸暇を惜しんで学ぶ」その姿勢には、正直、頭が下がるのですが、
 残念ながら、この方は、こうした形でどれほどの努力をしても、
 おそらく、本当の充実感を得ることはできないだろうと思います。
 
 そして、いま、世の中の多くの方々が、この方と同じように、
 忙しい仕事と生活のなかで、時間を生かしたいと願い、
 様々なタイム・マネジメントの技術を学び、努力をされているにもかかわらず、
 なぜか気持ちが満たされず、壁に突き当たっているのではないでしょうか。
 
 では、なぜ、こうしたことが起こってしまうのでしょうか。
 一生懸命に時間の使い方を工夫し、捻出した時間を使って自己研鑽し、
 時間を生かそうと努力しているにもかかわらず、充実感が得られない。
 なぜ、我々は、そうした状況に陥ってしまうのでしょうか。
 
 その理由は、この方の言葉のなかに潜んでいます。
 
 「これからの時代には、時間を大切にして自己研鑽に励まなければ、
 競争に勝てないし、生き残れない」
 
 この言葉が意味しているのは、忙しい仕事と生活の中から時間を捻出し、
 一生懸命に自己研鑽の努力をしなければ、競争に勝てない、敗れ去る、
 生き残れない、サバイバルできないといった、密やかな「強迫観念」です。
 
 そして、こうした「強迫観念」の奥には、「時間」というものを
 「時間資源」と考え、その資源を最大限に有効活用することによって、
 自分の「商品価値」を高めていくという発想があります。
 
 もとより、こうした発想そのものは、これからの社会を生きていくために、
 ある意味で、大切でもあり、また有効でもあるのですが、
 残念ながら、こうした発想で「時間」というものを見つめているかぎり、
 我々は、本当の意味で「時間を生かす」ことはできないでしょう。
 
 なぜなら、我々にとっての「時間」とは、単なる「資源」という意味を超えた
 「素晴らしい何か」だからです。
 
 かけがえのない「人生の時間」
 
 その言葉で表されるべき、「素晴らしい何か」だからです。
 そして、その「人生の時間」の意味を深く掴まないかぎり、
 我々は、決して「時間を生かす」ことはできないのです。
 
 では、どうすれば、その「人生の時間」の意味を
 掴むことができるのでしょうか。
 
 「心得」を身につけることです。
 
 単なる「タイム・マネジメントの技術」を超えて、
 「時間に処する心得」を身につけることです。
 
 そのとき、我々は、「人生の時間」の意味を知り、
 真に「時間を生かす」ことができるようになるでしょう。
 
 では、その「時間に処する心得」とは何か。
 
 これから、それを「十の心得」としてお話ししたいと思います。
 そこで、まずこの序話においては、その「十の心得」の根本にある
 「十の問い」と「十のキーワード」を、皆さんに投げかけておきましょう。
 
 第一の問い / いかにして「時間」を使うか   / 密度
 第二の問い / いかにして「集中」をするか   / 夢中
 第三の問い / いかにして「智恵」を学ぶか   / 感得
 第四の問い / いかにして「経験」から学ぶか  / 反省
 第五の問い / いかにして「反省」をするか   / 意味
 第六の問い / いかにして「人間」から学ぶか  / 師匠
 第七の問い / いかにして「自分」を見つけるか / 個性
 第八の問い / いかにして「関係」を築くか   / 自立
 第九の問い / いかにして「成長」をするか   / 課題
 第十の問い / いかにして「成功」を得るか   / 一瞬
 
 以上が、「時間に処する十の心得」の根本にある、「十の問い」です。
 
 では、これら「十の問い」について、
 次回から、詳しく話していきたいと思います。
 そして、これらの話を通じて、
 「時間に処する十の心得」を述べていきたいと思います。
 
 皆さんが、これらの話を通じて「十の心得」を身につけ、
 「時間」というものに処する力を、大きく高められることを願います。
 
 そして、皆さんが、この話を聞き終えたとき、
 かけがえのない「人生の時間」に処するための
 大切な「心得」とともに、
 深い「覚悟」を掴み取られることを願います。
 
 
★02
2003年12月04日 号
 
 第1話 いかにして「時間」を使うか / 密度
 
 いかにして時間を使うか。
 
 いま、日々の忙しい仕事と生活のなかで、多くの方々が、
 この問いに悩まされているのではないでしょうか。
 そのことは、近くの書店に足を運ぶと、よく分かります。
 『時間活用術』や『時間利用法』などのタイトルの本が、数多く目にとまります。
 また、その横に並ぶ雑誌には、同様のテーマの特集が、数多く載せられています。
 それほど、多くの方々が、この問いに悩まされているようです。
 では、これらの本や雑誌は、この問いに対して、
 何を答えてくれるのでしょうか。
 
 いわゆる「タイム・マネジメント」の技術です。
 
 例えば、毎日早く起きて、仕事の能率が上がる朝の時間を活用する。
 顧客や会社の同僚とのつきあいを減らし、夜の時間を活用する。
 週末の家事は、土曜日にまとめて行い、日曜日を有効に活用する。
 通勤や出張などの移動方法を工夫して、時間をうまく活用する。
 雑務の仕事の能率を上げ、それによって生まれた時間を活用する。
 仕事の優先順位を明確にし、効率的かつ効果的に仕事を進める。
 そうしたタイム・マネジメントの技術を、具体的に教えてくれているのです。
 
 その基本的な考え方は、三つあります。
 第一が、いかにしてまとまった時間を生み出すか。
 第二が、いかにしてこまぎれの時間を活用するか。
 第三が、いかにして効率的・効果的に仕事を進めるか。
 すなわち、このタイム・マネジメントの技術においては、
 この三つの観点から、具体的な技術が様々に語られているわけです。
 
 しかし、ここに一つの大きな問題があります。
 
 残念ながら、こうした技術を学んだだけでは、
 タイム・マネジメントに熟達できないのです。
 多くの方々が、その問題に突き当たっています。
 それは、なぜでしょうか。
 
 もとより、こうした本や雑誌で語られている技術は、
 様々な分野で一流のプロフェッショナルとして活躍している識者が、
 実際の経験にもとづいて語ったものであるため、それなりの迫力や説得力もあり、
 タイム・マネジメントの「基礎技術」としては、正しいことを述べています。
 しかし、残念ながら、いかに一生懸命に本や雑誌でその技術を学んでも、
 いざそれを、日常の生活の中で実際に行ってみると、なかなかうまくいきません。
 識者の述べるように、うまくタイム・マネジメントができないのです。
 なぜでしょうか。
 一つの比喩として述べましょう。
 
 「基礎体力」が無いからです。
 
 そのタイム・マネジメントの「基礎技術」を実践するだけの
 十分な「基礎体力」が無いからです。
 これは、タイム・マネジメントというものを
 スポーツに喩えてみれば分かりやすいでしょう。
 スポーツにおいては、いかなる「基礎技術」も、
 それを本当に実践しようと思えば、それなりの「基礎体力」が求められます。
 
 例えば、プロのサッカー選手から「ドリブル」の技術を教わるとします。
 まず最初に、足の使い方やボールへの触れ方を懇切丁寧に教わると、
 すぐに、それなりには、ドリブルができるようになります。
 しかし、それを実際の長時間の試合において、いつでも、
 全力疾走をしながらできるかといえば、できません。
 もとより基礎技術ですから、
 ほんの一瞬なら、誰でもそれはうまくできるのですが、
 それを、長時間の試合中、いかなる瞬間にも行うためには、やはり、
 それなりの「基礎体力」が求められるのです。
 
 それは、こうしたタイム・マネジメントの技術も同じです。
 そこで語られる具体的な技術は、一日や二日、それを実践するのであるならば、
 それほど難しいものではありません。
 しかし、それを、毎日の習慣として長年にわたって行おうとすると、できません。
 多くの場合、その努力は「三日坊主」に終わってしまうでしょう。
 そして、その理由は、スポーツと同様、明確です。
 その技術を実践するための「基礎体力」が無いからです。
 
 ■ 技術を支える「基礎体力」
 
 では、その「基礎体力」とは何でしょうか。
 
 「集中力」です。
 
 例えば、タイム・マネジメントにおいては、
 「出張のときの移動時間を使う」という技術が語られます。
 
 しかし、実際にそれを行うためには、「集中力」がなければできません。
 なぜなら、例えば、新幹線の車内で読書をしようと考えても、
 発車のアナウンスがある、車掌が切符の検札に来る、
 社内販売が通り過ぎる、隣の乗客が乗り降りする、
 他の乗客の話し声が聞こえてくる、手元にある車内誌に目が行ってしまう。
 そうしたことのため、読書に集中できないということが、
 しばしば起こるからです。
 
 また、「家事を土曜日にまとめて行う」という技術も語られます。
 しかし、そのためには、まず、土曜日に集中して家事を
 処理しなければなりません。
 そして、それによって自由に使えるようになった日曜日に、
 面白いテレビ番組や読みかけの雑誌などに目を奪われることなく、
 仕事や勉強などの大切な課題に集中することができなければなりません。
 
 同様に、「朝の時間を活用する」という技術も語られますが、
 それを行うためには、そもそも、会社の仕事を集中的にこなして深夜残業を避け、
 早く就寝することによって朝に備えなければなりません。
 
 このように、タイム・マネジメントの技術を実践するためには、
 それなりの「基礎体力」、すなわち「集中力」が求められるのです。
 
 裏返して言えば、優れた識者の語るタイム・マネジメントの技術は、
 それを言葉で聞くと簡単そうに思えるのですが、
 実は、それが成功しているのは、
 その識者が、相当のレベルの「集中力」を身につけているからなのです。
 
 従って、こうしたタイム・マネジメントの技術を学ぶとき、
 いかにして、この「集中力」という基礎体力を身につけるかということを、
 決して忘れてはなりません。
 
 
★03
2003年12月11日 号
 
 第2話 いかにして「時間」を使うか / 密度 (その2)
 
┌────────────────────────────────────┐
 優れた識者の語るタイム・マネジメントの技術は、
 それを言葉で聞くと簡単そうに思えるのですが、
 実は、それが成功しているのは、
 その識者が相当のレベルの「集中力」を身につけているからなのです。
 
 従って、タイム・マネジメントの技術を学ぶとき、
 いかにして、この「集中力」という基礎体力を身につけるかということを、
 決して忘れてはなりません。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「集中力」の差が生み出すもの
 
 もし我々が、この「集中力」ということに目を向けるならば、
 タイム・マネジメントにおける、さらに大切な問題が見えてきます。
 それは何でしょうか。
 
 時間の「密度」です。
 
 すなわち、「時間」というものには、
 「長さ」だけでなく、「密度」というものがあるのです。
 そして、この二つを区別しておくことは、極めて大切です。
 なぜなら、タイム・マネジメントの要諦は、
 実は、この「密度」にこそあるからです。
 
 そもそも、時間の「長さ」の視点だけで言えば、
 タイム・マネジメントの上手な人と、下手な人の差は、
 一日あたり、多くても数時間程度の違いでしょう。
 しかし、時間の「密度」の視点から見るとき、
 密度の濃い人と、薄い人の差は、
 十倍、百倍にもなってしまうのです。
 
 例えば、ある二人の人物を比べたとき、
 同じ一時間で同じ本を読んでも、学ぶものが大きく違う。
 同じ一時間の会議に出席しても、得るものがまったく違う。
 同じ一時間の現場経験をしても、掴むものが決定的に違う。
 こうしたことは、しばしば目にすることです。
 
 例えば、同じ本を読んでも、
 一人は、その本に書かれている表面的な情報や知識を学ぶだけであり、
 一人は、その本の行間から伝わってくる感覚や智恵を掴み取ります。
 
 例えば、同じ会議に出ても、
 一人は、その会議で議論された内容を議事録のレベルで把握するだけであり、
 一人は、会議の内容はもとより、出席者の無言の声や心の流れを読み取ります。
 
 例えば、同じ現場経験をしても、
 一人は、現場での業務をマニュアル的なレベルで理解するだけであり、
 一人は、現場の何気ない雰囲気から、業務プロセス全体の問題を洞察します。
 
 この二人の人物は、同じ「長さ」の時間を過ごしても、
 その「密度」が決定的に違うのです。
 
 従って、我々が「いかにして時間を使うか」を考えるとき、
 単に「時間の長さ」だけに注目するのではなく、
 この「時間の密度」にも注目しなければなりません。
 どれほどの「長さ」の時間を捻出したかだけでなく、
 どれほど「密度」の濃い時間を生み出したか、
 それをこそ問題にしなければならないのです。
 
 しばしば、我々は、充実した時間を過ごしたとき、
 「密度の濃い時間であった」という表現をします。
 そして、そうした時に、我々は、ある「矛盾した感覚」を抱きます。
 
 なぜなら、その時間は、「時間の長さ」という意味では、
 「あっと言う間に過ぎた」と感じるのですが、
 「時間の密度」という意味では、
 「何倍もの時間に感じた」との印象を持つからです。
 そして、「密度の濃い時間」を生み出す人とは、まさにこうした意味において、
 一時間が十時間にも感じられる時間を生み出す人に他なりません。
 
 では、時間の密度の濃い人と、薄い人、
 その違いは、どこから生まれるのでしょうか。
 
 それが「集中力」です。
 
 この二人の人物は、「集中力」が決定的に違うのです。
 この二人は、物事に取り組むときの「精神の集中力」が、まったく違うのです。
 そのため、この二人は、同じ長さの時間を過ごしているようでありながら、
 まったく違う密度の時間を過ごしているのです。
 そういう意味で、しばしば語られるあの言葉は、正しくありません。
 
 「時間は、誰にも平等に与えられている」
 
 実は、そうではありません。
 
 「時間は、人により、不平等に与えられている」
 
 それが真実です。
 
 そして、その「不平等」を生み出してしまうのが、
 「集中力」の差なのです。
 
 
★04
2003年12月18日 号
 
 第2話 いかにして「集中」をするか / 夢中(その1)
 
 ■ 集中力を身につける「三つの心得」
 
 前回は、「いかにして時間を使うか」という問いを掲げ、
 タイム・マネジメントを実践するときの大切な心得について話しました。
 
 時間というものを見つめるとき、
 どれほどの「長さ」の時間を捻出したかだけでなく、
 どれほど「密度」の濃い時間を生み出したかを考えなければならない。
 そして、「密度」の濃い時間を生み出すためには、
 高度な「集中力」を身につけなければならない。
 その心得を話しました。
 
 では、どうすれば、その「集中力」を身につけることができるのでしょうか。
 そこで、この第2話では、「いかにして集中するか」という問いを掲げ、
 基本から修練、そして実践に向かって「三つの心得」を述べたいと思います。
 
 ■ 「基本の心得」とは何か
 
 では、まず、「基本の心得」について述べましょう。
 それは、当たり前のことでありながら、しばしば忘れられていることです。
 何でしょうか。
 
 「体を鍛える」ことです。
 
 昔から、「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」という諺が語られますが、
 やはり、精神が高度な集中力を発揮するためには、
 肉体が相応の持久力を持っていなければなりません。
 
 例えば、社内の企画会議で新しい商品開発のコンセプトを検討するときなど、
 スケジュールが迫っている場合には、結論が出るまで会議が続けられ、
 そのため、会議での重要な議論が深夜まで延々と続くときがあります。
 
 こうしたときに、会議の参加メンバーを見ていると、ある時間を過ぎると、
 集中力が極度に低下し、ほとんど頭が働かない状態になるメンバーがいます。
 こうしたメンバーは、朝の会議などでは、なかなか鋭い意見を述べることもあり、
 その「知力」において、特に他のメンバーに劣っているわけではないのですが、
 「体力」において劣っているため、
 肝心のときに、その知力を発揮できないのです。
 しかし、一方で、こうしたとき、どれほど会議が長引いても、
 集中力を切らせることなく、議論を続けることのできるメンバーもいます。
 こうしたメンバーは、しばしば、肝心のとき、その知力を見事に発揮します。
 
 なぜならば、仕事の世界において「肝心のとき」というのは、
 いつも、肉体的には最悪に近い状況において訪れるからです。
 
 例えば、ここで述べた、期日が迫っているなかでの商品開発。
 トラブルが発生したときの不眠不休での緊急対策。
 長旅の疲れと時差のハンディを抱えての海外での契約交渉。
 こうした場面における企画や判断や交渉などは、
 しばしば、肉体的には極めて厳しい状況で
 最高の「集中力」を発揮し、「知力」を発揮しなければなりません。
 そのため、「体力」に劣るメンバーは、その「肝心のとき」に、
 せっかくの「知力」を発揮できずに終わることになってしまうのです。
 
 しばしば、プロフェッショナルのスポーツの世界などでは、
 一流のスポーツ選手の条件として、
 「悪い状況でも、それなりの結果を出す」ということが言われます。
 それは、プロフェッショナルのビジネスの世界でも同じであり、
 肉体的に厳しい状況のもとでも、
 それなりの集中力や知力が発揮できるということが、一流の条件です。
 
 そう考えるならば、プロフェッショナルの世界では、
 「知力はあったが、体力が足りなかった」という言葉は、意味を持たないのです。
 プロフェッショナルの世界では、優れた知力と、それを支える体力を含めて、
 「能力」と呼ぶからです。
 
 ■ 仕事における「体力」とは何か
 
 このように、「集中力」を身につけ、発揮するためには、
 まず、その基本として、「体」を鍛え、「体力」を身につけなければなりません。
 
 では、どのようにして体を鍛えればよいのでしょうか。
 
 そのことについても、一言述べておきたいと思います。
 なぜなら、「体を鍛える」というと、すぐに、
 「スポーツで体を鍛える」ということを考える人が多いからです。
 もちろん、そうした形で体を鍛えることができる人は、それでもよいのですが、
 仕事が忙しくてスポーツや運動をする時間が取れない人や、
 スポーツや運動で体を鍛えることが苦手な人は、どうすればよいのでしょうか。
 実は、もう一つの方法があります。
 
 「仕事で体を鍛える」
 
 そうした方法です。
 こう述べると驚かれる方がいるかもしれませんが、
 実は、仕事を通じて体を鍛えることができるのです。
 なぜなら、ここで私が述べている「体力」とは、
 スポーツ選手に求められるような「肉体的体力」ではないからです。
 
 それは、むしろ、「知的体力」とでも呼ぶべきものです。
 
 では、「知的体力」とは、何でしょうか。
 それは、ビジネスや仕事などの知的活動において求められる
 「集中力」や「持続力」などの体力を意味しており、
 スポーツや運動などの肉体的活動において求められる
 筋肉による「瞬発力」や「持久力」などとは異なったものです。
 すなわち、それは、先に述べた「知力」を支えるための「体力」のことです。
 そして、こうした意味での「知的体力」は、
 日々の仕事を通じて身につけていくことができるのです。
 
 例えば、私自身のささやかな例を挙げましょう。
 私にとっては、「講演」や「講義」というものが、体を鍛える場でもあります。
 シンクタンクの代表や大学の教授が職業であることから、
 講演を行うことや、講義を行うことは、私の日常の仕事でもありますが、
 この講演や講義を行うとき、たとえ椅子があっても、必ず立って話をします。
 そして、背筋を伸ばし、聴衆の方々に正対し、腹式呼吸で明瞭に発声しながら
 与えられた時間、一瞬も気を抜かぬよう講演や講義を行います。
 
 もとより、こうした講演や講義のスタイルは、
 貴重な時間を割いて私の話を聴きに来ていただいた方々への礼儀として
 自分に課していることではありますが、同時に、これが、私にとって
 体を鍛える最高の場になっています。
 
 これは、それを実践されるとお分かりになると思いますが、
 一つの仕事に対して、気を抜かずに全身全霊で取り組むということを行うと、
 当初は、その直後に「疲れ果てる」という状態が続きますが、
 それを続けていると、徐々に、しかし明らかに「知的体力」が身についてきます。
 それは、たとえ受付での顧客への挨拶などといった、
 一見、単調に思える仕事であっても、そうです。
 こうした仕事も気を抜かずに取り組むと、確実に「知的体力」が身につきます。
 これが「仕事で体を鍛える」ということの意味です。
 
 私の場合も、ささやかながら、この講演や講義での修練を続けてきたおかげで、
 いまでは、三時間程度ならば、休みを取らず、立ったまま話し続けても、
 まったくペースを落とすことなく行うことができます。
 そして、こうして身につけた「知的体力」は、
 単に講演や講義だけでなく、執筆や著作、企画や立案、分析や検討、
 さらには、会議や討議、交渉や調整、判断や決断など、
 様々な仕事の場面で「集中力」を発揮するための基礎体力になっています。
 
 しかし、このことは、逆に言えば、怖いことをも意味しています。
 
 日本の企業において、しばしば見かける仕事のスタイルに、
 気持ちを込めず、だらだらと仕事をするというスタイルがあります。
 こうしたスタイルの仕事を長年続けていると、
 ここで述べた意味での「知的体力」は、
 確実に、そして無残なほどに低下していきます。
 そのことの怖さも、敢えて申し上げておきたいと思います。
 
 さて、これが「体を鍛える」ということの意味であり、
 「集中力」を身につけるための「基本の心得」です。
 
 
★05
2003年12月25日 号
 
 第4話 いかにして「集中」をするか / 夢中(その2)
 
 ■ 「修練の心得」とは何か
 
 では、「集中力」を身につけるための「修練の心得」とは、何でしょうか。
 これも、端的に述べましょう。
 
 「集中的に仕事をする」ことです。
 
 そもそも、「集中力」や「持続力」などの基本的な力量は、
 それを身につけるための「うまい方法」があるわけではありません。
 やはり、「集中力」を身につけるためには、
 「集中的に仕事をする訓練」を自らに課するしかありません。
 しかし、このとき大切な心得があります。
 
 「時間を区切って仕事をする」というスタイル、そして、
 「締め切りを明確にして仕事をする」というスタイルを身につけることです。
 
 しばしば、日本のビジネスマンに見受けられるのは、延々と残業をしながら、
 「終わるまで仕事をする」というスタイルです。
 しかし、「集中力」を鍛えるためには、時間を区切り、締め切りを明確にして、
 「いつまでにこの仕事を終える」というスタイルへの
 転換をしなければなりません。
 そうした形で、自分自身にプレッシャーを与えて仕事をしないかぎり、
 本当の「集中力」は生まれてこないからです。
 
 これは、「走り高跳び」などのスポーツをイメージすると分かりやすいでしょう。
 もし練習中の選手が、目の前に跳び越えるべき「バー」を置かずに
 「できるだけ高く跳んでみよう」といって走り高跳びをしても、
 決して跳躍力は伸びていきません。
 やはり、目の前に跳躍の具体的な目標である「バー」が置いてあり、
 そして、それを越えられた、越えられないという結果が明確に出るから、
 選手は、その跳躍で力を振り絞ることができ、跳躍力が伸びていくのです。
 
 これは、「集中力」も同じです。
 すなわち、「時間を区切る」「締め切りを明確にする」ということの意味は、
 実は、「集中力」の修練において、この「バー」を
 設けることに他ならないのです。
 
 従って、我々が、本当に「集中力」を身につけたいと思うのなら、
 日常の業務において、そうした仕事のスタイルを実践しなければなりません。
 
 そして、「時間を区切る」「締め切りを明確にする」ということに加えて、
 もう一つ大切な心得があります。
 上司や顧客に対して「時間を明言する」「締め切りを宣言する」ということです。
 なぜなら、こうした「明言」や「宣言」をすることは、
 心理的に、自らの「退路を断つ」ことになるからです。
 そして、心理的に退路を断った状況においてこそ、
 我々の「集中力」は、最も高まるからです。
 
 しかし、上司や顧客に対して、この「明言」と「宣言」をするとき、
 小さなことですが、大切な心得があります。
 
 「曖昧語」を使わない。
 
 その心得です。
 例えば、「三日ぐらい」「一週間程度」「一ヶ月ほど」や、
 「明日の午後あたり」「水曜日ごろ」「来週の半ばぐらい」といった
 時間や期日に関する曖昧な表現を使わないようにすることです。
 そして、明言や宣言においては「この仕事は三日で行います」や
 「明日の午後三時に完成させます」といった明確な表現を心がけることです。
 なぜなら、こうした「ぐらい」「程度」「ほど」「あたり」「ごろ」といった
 「曖昧語」を使うと、我々の心の中に「逃げ」の気持ちが忍び込むからです。
 それは、「少しぐらい遅れてもいいだろう」という「逃げ」の気持ちです。
 しかし、心の中にわずかでもこの「逃げ」の気持ちが忍び込むと、
 我々は、心理的に退路を断つことができなくなってしまうのです。
 
 ■ 集中力を高めるための「逆説」
 
 さて、これが「集中力」を身につけるための「修練の心得」ですが、
 こうした「集中的に仕事をする」という修練において、
 決して忘れてはならないもう一つの心得があります。
 それは、何でしょうか。
 
 「リラックス」をする。
 
 その心得です。
 なぜなら、この「集中力」ということには、一つの逆説があるからです。
 
 「集中力」のあるプロフェッショナルは、「リラックス」が上手である。
 
 その逆説です。
 これは、実は「集中力」というものを身につけていくとき、
 極めて大切な心得です。
 なぜなら、深く「集中」するためには、その「集中」の前後に
 深く「リラックス」しなければならないからです。
 人間の精神は、連続的な「集中」だけを繰り返していると、
 いずれその「集中」が続かなくなります。
 ときには、「弓の弦が切れる」ように、
 「集中力」が切れてしまうこともあります。
 従って、「集中」が上手なプロフェッショナルは、
 必ず「リラックス」も上手なのです。
 
 では、どうすれば「リラックス」できるのか。
 そのための方法は様々にあります。
 その具体的な方法は、世の中に様々な解説書があるので、
 そちらを参考にしていただければと思いますが、
 大切なことは、自分の個性に合ったリラックス法を見つけることです。
 
 例えば、書籍や雑誌などを読むと、様々な分野の識者が、
 「私のリラックス法」などを語っています。
 しかし、これらのリラックス法をそのまま真似することは、
 あまり意味がありません。
 なぜなら、リラックス法とは、そもそも「心身相関的技法」であるため、
 ある人に、いかなる方法が適しているかは、
 その人の個性によって、大きく違ってくるからです。
 すなわち、リラックス法については、誰にでも適した一般的な方法はないのです。
 しかし、いずれにしても、
 
 深く「リラックス」できる人間こそが、
 深く「集中」できる。
 
 その逆説を忘れてはならないでしょう。
 
 ■ 「実践の心得」とは何か
 
 それでは、「集中力」を身につけるための「実践の心得」とは、何でしょうか。
 
 「真剣勝負の場に身を置く」ことです。
 
 なぜなら、「待ったなし」「逃げ道なし」という真剣勝負の場においてこそ、
 最も高度な「集中力」が鍛えられるからです。
 逆に言えば、先ほどの
 「時間を区切る」「締め切りを明確にする」ということや、
 「時間を明言する」「締め切りを宣言する」ということは、
 まだ、本当の意味での「待ったなし」「逃げ道なし」ではないからです。
 心の奥深くに、どこかまだ、「いざとなればやり直せる」
 「いざとなれば逃げ道がある」という無意識があるかぎり、
 我々は、本当の「集中力」を発揮することはできません。
 そして、それゆえ、本当の「集中力」を磨くことはできません。
 
 この無意識の世界は、恐ろしいほど「集中力」の差となって現われます。
 
 例えば、私自身がそのことを感じるのは、テレビ番組への出演においてです。
 テレビ番組では、「生放送」と「収録放送」の二つがあります。
 前者は、本番一回かぎりの真剣勝負の場です。
 後者は、ミスがあれば、撮り直しが許される場です。
 そのため、この二つは、無意識の違いが、恐ろしいほどに出てしまいます。
 すなわち、前者は、真剣勝負で話をするため、
 極めて高度な集中力が発揮されるのです。
 しかし、後者は、「待った」も「逃げ道」もあるため、
 必ずしも、最高の集中力が発揮されないのです。
 そのため、後で改めて自分自身のコメント場面を見直してみると、
 一回かぎりの「生放送」のほうが、何回でも撮り直しが
 できる「収録放送」よりも、コメントの内容や呼吸が良い場合が多いのです。
 
 これが「真剣勝負の場」の持つ違いです。
 
 ■ 仕事における「真剣勝負の場」
 
 では、日々の仕事において、「真剣勝負の場」とは何でしょうか。
 これがスポーツならば、「本番の試合」というものが「真剣勝負の場」でしょう。
 しかし、我々の日常のビジネスや仕事においては、「本番の試合」はありません。
 では、日々の仕事においては、どのような場面が
 「真剣勝負の場」なのでしょうか。
 
 「顧客に接する瞬間」です。
 
 大切な顧客に対して、営業や応対をする。商品やサービスを提供する。
 この瞬間は、その場の雰囲気は和やかなものであるべきですが、
 やはり、顧客に対して本当にベストを尽くせるかという意味で
 心の深くでは「真剣勝負の場」です。
 顧客に対して細やかに心を配り、顧客の気持ちを深く読みとり、
 顧客の求めているものを素早く理解し、
 心を込めて最高の商品とサービスを届ける。
 そのベストを尽くせるかという意味で、この瞬間には、真剣勝負が求められます。
 そして、この「顧客に接する瞬間」という「真剣勝負の場」でこそ、
 ビジネスマンの「集中力」は鍛えられるのです。
 
 しかし、残念ながら、この「顧客に接する瞬間」を、
 「真剣勝負の場」にしているビジネスマンは、決して多くありません。
 顧客の胸を借りて、自分の「集中力」を鍛えることができる。
 自分のビジネスマンとしての「腕」を磨くことができる。
 それほど素晴らしい場を、生かすことのできないビジネスマンは、
 決して少なくありません。
 
 では、せっかく「顧客と接する瞬間」が与えられても、
 ベストを尽くすこともなく、真剣に対応することもなく、漫然と処してしまう。
 そうしたビジネスマンが、なぜ生まれてしまうのでしょうか。
 
 それは、「ビジネスの怖さ」に気がついていないからです。
 そして、「顧客の怖さ」に気がついていないからです。
 
 顧客への対応が不適切であったとき、
 顧客サービスが不満足なものであったとき、
 それにクレームをつけてくれる顧客は、いません。
 
 その顧客が優れた顧客であれば、あるほど、
 力量のある顧客であれば、あるほど、その顧客は、黙って去る。
 
 そのことの怖さに気がついていないのです。
 もし、顧客がサービスにクレームをつけてくれるならば、
 我々は、すぐに改善することもできる、反省することもできる、
 そして、お詫びをすることもできる、説明をすることもできる。
 しかし、不満を持った顧客が黙って去ってしまったとき、
 我々は、商品やサービスの欠点に気がつかないため、
 反省もしなければ、改善もしない。
 そのため、その商品やサービスから顧客が去っていく。
 そして、顧客に対してお詫びもしなければ、説明もしないため、
 その顧客は二度と戻ってこない。
 いや、それだけでなく、その顧客が他の顧客に語る悪い評判が広がり、
 新しい顧客さえ来なくなる。
 
 そのことの怖さに気がついていないのです。
 
 そして、その怖さに気がついていないため、
 顧客に対してベストを尽くすこともなく、
 真剣に対応することもなく、漫然と処してしまう。
 そうしたビジネスマンが生まれてしまうのです。
 しかし、ひとたび、この「顧客の怖さ」に気がつき、
 「ビジネスの怖さ」に気がついたならば、
 「顧客に接する瞬間」は、素晴らしい「真剣勝負の場」になります。
 我々の「集中力」を鍛え、「腕」を磨いてくれる、最高の修練の場になるのです。
 
 そして、ひとたび、そうした謙虚な心構えで、日々の仕事を見つめるならば、
 我々は、さらに大切なことに気がつきます。
 
 「顧客」とは、社外だけでなく、社内にも、いる。
 
 例えば、直属の上司、職場の仲間、他部門の社員。
 実は、それらの人々は、自分という人間のサービスを求めている「顧客」である。
 そのことに、気がつくのです。
 
 そして、そのことに気がついたとき、
 そこにもまた、素晴らしい「真剣勝負の場」が見えてきます。
 
 すなわち、我々の心の姿勢しだいで、
 日々の仕事のすべてが、「真剣勝負の場」となる。
 日々の仕事のすべてにおいて、「集中力」を鍛えることができる。
 そのことに、気がつくのです。
 
 ■ 「最高の心得」とは何か
 
 さて、いまお話しした「基本の心得」「修練の心得」「実践の心得」、
 これら三つが、「集中力」を身につけるための大切な心得です。
 
 しかし、実は、「集中力」を身につけるためには、もう一つ、
 「最高の心得」があります。
 それは何でしょうか。
 
 「夢中」になることです。
 
 一つのことに興味を持つ。
 一つのことが好きになる。
 一つのことに夢中になる。
 一つのことに寝食を忘れ、没頭する。
 
 これにまさる「集中力」はありません。
 なぜなら、「集中しよう」と考えて発揮する「集中力」は、
 実は、最高のものではないからです。
 
 最高の「集中力」とは、「気がつけば集中していた」という心の状態において
 発揮されるものだからです。
 
 昔から、「好きこそ、ものの上手なれ」という諺があります。
 「これを好む者は、これを楽しむ者にしかず」という言葉があります。
 
 この諺や言葉が教えようとしているのは、
 一つのことを好きになり、楽しむようになり、そして、夢中になるとき、
 我々の最高の能力が発揮されるということです。
 
 昔から、優れた業績を残した人々は、例外なく、
 「寝食を忘れて」という世界を持っています。
 それは、これらの人々が
 「夢中になる」という世界を持っていたことを意味しています。
 
 そして、もし、このことを理解するならば、
 我々は、自らに問わなければなりません。
 
 我々は、日々の仕事において、
 深い興味を抱くものを持っているか。
 強く心惹かれるものを持っているか。
 心から楽しめるものを持っているか。
 
 そのことを問わなければなりません。
 
 一流のプロフェッショナルの「集中力」は、
 まさに、そこから生まれてくるからです。
 
 
★06
2004年01月08日 号
 
 第5話 いかにして「智恵」を学ぶか / 感得(その1)
 
 ■ 知識社会の「逆説」
 
 前回までは、「集中力」を身につけることによって、
 時間の「密度」を高めることができると述べました。
 そして、その「集中力」を身につける方法について述べました。
 しかし、こうして「集中力」を身につけることによって、
 時間の「密度」を高めることはできますが、
 そもそも、我々は、その大切な時間を使って、何を学ぶべきなのでしょうか。
 特に、これからの「知識社会」において、何を学ぶべきなのでしょうか。
 今回からは、そのことについて考えてみたいと思います。
 
 しかし、そのことを考えるためには、この知識社会には、
 一つの逆説があることを理解しておかなければなりません。
 
 知識社会とは、「知識」というものが価値を失っていく社会である。
 
 その逆説です。
 なぜなら、これからの知識社会においては、ネットやメディアの普及によって、
 社会全体での情報共有や知識共有が徹底的に進むからです。
 そして、そのため、様々な「専門知識」が、誰でも、
 手間や時間やコストをかけずに、手に入れることができるようになるからです。
 
 例えば、インターネットのサイトでは、
 多くの有識者が、その専門知識を広く公開するようになってきています。
 また、法律や会計などの専門知識も、
 CD-ROMやエキスパートシステムの形で手軽に使えるようになってきています。
 
 そのため、これからの社会においては、
 言葉で表すことのできる「専門的な知識」については、
 ネット端末やパソコンを持っている人ならば
 誰でも簡単に入手できるようになっていきます。
 
 しかし、その結果として、これからの知識社会では、
 単なる「知識」が価値を失っていくという逆説が起こるのです。
 
 では、知識社会では、何が価値を持つようになるのでしょうか。
 
 「職業的な智恵」です。
 
 「職業的な智恵」とは、例えば、スキルやセンス、ノウハウやテクニック、
 さらには直観力や洞察力など、ビジネスや仕事の現場で、
 永年の「経験」を通じてしか学ぶことのできないものであり、
 言葉で表すことができないため、容易に伝達、共有することのできないものです。
 
 これに対して、「専門的な知識」とは、言葉で表すことができるため、
 新聞や雑誌、書籍や事典、ウェブやメールによって、さらには、
 学校や大学などの講義を通じて、容易に伝達、共有することのできるものです。
 
 従って、これからの知識社会において
 プロフェッショナルとして活躍するためには、
 「言葉」を通じて、多くの「専門的な知識」を身につけるだけでなく、
 「経験」を通じて、深みある「職業的な智恵」を身につけなければなりません。
 
 ■ 「職業的な智恵」を学ぶ方法
 
 では、どうすれば、「職業的な智恵」を身につけることができるのでしょうか。
 まず、「覚悟」を定めることです。
 「職業的な智恵」は、「経験」を通じてしか学べない
 最初に、その「覚悟」を定めなければなりません。
 なぜなら、いま世の中には「幻想」が溢れているからです。
 
 例えば、本や雑誌の「売り文句」を見ると、
 「誰でもスキルが身につく」という言葉や
 「これがプロのノウハウだ」といった言葉が溢れており
 あたかも、それを読むだけで高度なスキルやノウハウが身につくといった
 「幻想」が振りまかれています。
 
 また、例えば、各種の専門学校の案内などを見ても、
 「資格を取ってスキル・アップ」といった「売り文句」が目につきます。
 学校で勉強し、試験に合格しただけで、スキル・アップできるという
 「幻想」が振りまかれているのです。
 
 しかし、それは、やはり「幻想」です。
 
 例えば、欧米のビジネススクールに留学して経営学修士を取得し、
 様々な「意思決定」の手法についてどれほど深く勉強したとしても、
 それは、実際の経営の現場において、現実の大きなリスクを目の前に、
 重い責任を背負い、リーダーとしての進退を賭けて行う「決断」とは、
 まったく違った世界です。
 ただ「意思決定」の手法についての「知識」を身につけただけでは、
 経営の現場での「決断」を行うための腹の据わった「智恵」は
 決して身につかないのです。
 
 同様に、意思決定だけでなく、ビジネスにおけるいかなるスキルもノウハウも、
 仕事の現場での実際の「経験」を通じてしか
 身につけることはできません。
 
 だからこそ、プロフェッショナルの持つ「職業的な智恵」に
 大きな価値があるのです。
 
 そして、だからこそ、
 「職場」とは、その「職業的な智恵」を身につけるための
 「最高の修業の場」なのです。
 
 
★07
2004年01月15日 号
 
第6話 いかにして「智恵」を学ぶか / 感得(その2)
 
┌────────────────────────────────────┐
 これからの知識社会において
 プロフェッショナルとして活躍するためには、
 「言葉」を通じて、多くの「専門的な知識」を身につけるだけでなく、
 「経験」を通じて、深みある「職業的な智恵」を身につけなければなりません。
 
 では、どうすれば、「職業的な智恵」を身につけることができるのでしょうか。
 
 前回は、まず「覚悟」を定めることだと述べました。
 「職業的な智恵」は、「経験」を通じてしか学べない。
 最初に、その「覚悟」を定めなければなりません。
└────────────────────────────────────┘
 
 ■ 「経験」だけが豊かなビジネスマン
 
 しかし、ここで、言葉を正確に使っておく必要があります。
 
 いま、「職業的な智恵は、経験を通じてしか学べません」と述べました。
 しかし、正確に言えば、「経験する」だけでは不十分です。
 
 例えば、日本の大企業などにおいてしばしば見かけるのが、
 「経験だけは豊かなビジネスマン」です。
 
 例えば、名刺交換会などで、あるビジネスマンの方に初めて出会います。
 自己紹介の話のなかで、それまでの職歴などを伺っていると、
 実に様々な経験を持っています。
 入社して、すぐに工場で生産に従事。その後、本社の営業で販売を担当。
 海外の子会社にも数年勤める。その後、本社に戻り、企画部門に所属。
 
 そういった実に豊かな「経験」の持ち主です。
 
 しかし、話を伺っていると、奇妙な感覚に襲われるときがあります。
 いくら深く話を伺っても、その方から、あまり智恵や見識が伝わって
 こないのです。
 それらの職業的な「経験」から身につけた智恵や見識が、
 言葉の端々から伝わってこないのです。
 そして、職業的なプロフェッショナルが身につけているべき、
 ある独特の雰囲気が伝わってこないのです。
 それが、しばしば見かける「経験だけは豊かなビジネスマン」です。
 
 では、こうしたビジネスマンは、何が欠けているのでしょうか。
 
 「体験」をしていないのです。
 
 「経験」はしているが、「体験」をしていないのです。
 
 このビジネスマンは、せっかく貴重な「経験」をしても、
 それを「体験」にまで高めていないのです。
 そのため、「職業的な智恵」が身についていないのです。
 
 ■ 「経験」が「体験」に高まるとき
 
 では、どうすれば「経験」を「体験」にまで高めることができるのでしょうか。
 ここでは、一つの大切な方法について述べましょう。
 
 「感得」です。
 
 「経験」が「体験」へと高まるためには、
 その「経験」において、何かを深く「感得」する瞬間が大切なのです。
 
 では、「感得」とは何でしょうか。
 
 それは、ある「感覚」や「感情」、「感銘」や「感動」とともに、
 大切な「智恵」を体得することです。
 
 例えば、我々が本を読むことによって、
 「顧客の笑顔こそが、仕事の最高の報酬である」
 という言葉を学んだとします。
 この言葉を知っているだけであれば、それは単なる「知識」です。
 
 しかし、実際に顧客サービスの「現場」で悪戦苦闘しながら、
 日々、顧客対応の「経験」を積み重ねていく。
 
 例えば、毎日、店頭で顧客相手に心を込めたサービスを提供しようと工夫する。
 しかし、しばしば心配りが足りずに、顧客を不愉快な気持ちにさせてしまう。
 
 そんな失敗を繰り返し、自己嫌悪を感じながらも、
 喜ばれる顧客サービスを提供しようと、悪戦苦闘する。
 
 そうした「経験」を積み重ねていくなかで、ある日、ある瞬間に、
 ある顧客から投げかけられた「ありがとう」の声と笑顔に、深く心が動かされる。
 その感動と喜びの気持ちのなかで、
 「顧客の笑顔こそが、仕事の最高の報酬である」という言葉の意味を、掴み取る。
 その言葉が伝えようとした「智恵」を、体で掴み取り、体得する。
 
 それが、まさに、
 単なる「知識」が「智恵」になった瞬間であり、
 一つの「経験」が「体験」になった瞬間です。
 
 これが、「感得」ということの意味です。
 
 これは、言葉を換えれば「気づき」です。
 
 日々の仕事の「経験」の中で、
 それまで単に言葉として知っていた「知識」の深い意味を理解する。
 
 「ああ、なるほど」
 「そうか、これか」
 「よし、分かった」
 
 そういった大きな「心の動き」とともに、ある「気づき」が訪れる。
 そのとき、我々は、「智恵」というものを、体で掴むのです。
 
 すなわち、我々は、この「感得」や「気づき」ということを通じて、
 単なる「知識」を「智恵」へと深め、
 一つの「経験」を「体験」へと高めていくことができるのです。
 
 ■ 「センス・オブ・ワンダー」の大切さ
 
 しかし、この「感得」をするためには、
 大切な心構えがあります。
 
 頭で考えるのではなく、
 心で感じること。
 
 その心構えが、極めて大切です。
 
 すなわち、
 「専門的な知識」というものは、頭で考え、学ぶことができるのですが、
 「職業的な智恵」というものは、心で感じ、体で掴み取らなければ
 ならないのです。
 
 それは、ときに、「嬉しさ」や「楽しさ」、「悲しさ」や「苦しさ」という、
 人間としての大きな感情の動きのなかで、掴み取ることのできるものです。
 
 例えば、ビジネスマンが「リーダーシップ」について学ぶとき、
 それを「経営学」の教科書によって「理論」や「知識」として学ぶよりも、
 「歴史小説」の主人公の人間性や生き様に感動しながら学ぶことのほうが、
 よほど「智恵」として身につくときがあります。
 
 また、我々が、「不動心」について学ぶとき、
 それを「宗教」の書物での「説法」や「訓話」を通じて学ぶよりも、
 例えば、オリンピックでの優勝が懸かった瞬間の、
 選手の表情や姿に深く共感しながら学ぶことのほうが、
 よほど深い「智恵」になることがあります。
 
 それゆえ「感じる力」
 
 その力が、我々に求められるのです。
 
 この「感じる力」とは、ある意味で、レイチェル・カーソンの語る
 「センス・オブ・ワンダー」という、我々の「心の力」でもあります。
 
 「感動する心」とでも呼ぶべき、我々の「心の力」です。
 
 しかし、それは、決して、「自然」を見つめるときだけに
 大切なものではありません。
 それは、「人間」を見つめるときにも、深く求められるものです。
 
 なぜなら、「人間」とは、この「自然」が生み出した、
 最高の不思議だからです。
 
 すなわち、
 
 「瑞々しい感覚」
 「繊細な機微の感情」
 「静かに受ける感銘」
 「深く訪れる感動」
 
 そうした「心の力」は、
 この「社会」「市場」「企業」といったものを見つめるときにも、
 そして、そこで生きる「人間」の姿を見つめるときにも、
 決して忘れてはならない、
 大切なものなのです。
 
 
★08
2004年01月22日 号
 
第7話 いかにして「経験」から学ぶか / 反省(その1)
 
 知識社会においては、単なる「知識」ではなく、
 「智恵」をこそ身につけなければなりません。
 そして、「智恵」とは、何よりも「経験」を通じて学ばなければなりません。
 では、どうすれば、「経験」から「智恵」を学べるのか。
 そのための一つの大切な方法が、「感得」という方法です。
 前回は、そのことを述べました。
 しかし、「経験」から「智恵」を学ぶためには、もう一つ大切な方法があります。
 
 「反省」という方法です。
 
 今回は、この「反省」という方法について話をしましょう。
 
 では、そもそも、これは、どのような方法なのでしょうか。
 
 実は、この「反省」という方法は、
 「感得」とはまったく対極にある力が求められる方法です。
 
 すなわち、「感得」という方法においては
 「深く感じる力」が求められるのですが、
 「反省」という方法においては
 「深く考える力」が求められるのです。
 
 では、「反省」とは、具体的には、いかなる方法でしょうか。
 
 それは、一つの「経験」をしたとき、
 その「経験」を徹底的に「追体験」し、
 そこで学んだことを極限まで「言語化」することによって、
 「知識」を「智恵」へと深め、
 「経験」を「体験」へと高める方法です。
 
 特に、この「反省」において最も大切な方法が、「言語化」です。
 
 そこで、この「言語化」の方法として、ここでは二つの例を挙げておきましょう。
 
 ■ 「反省会」による言語化の方法
 
 一つは、「反省会」です。
 
 例えば、ある営業課長は、顧客への営業の帰り道、
 必ず、部下とともに「反省会」を行う習慣を持っています。
 その具体的な方法は、部下への「質問」です。
 例えば、次のような質問です。
 
 「先ほどの先方の表情からすると、
  今回の我が社の提案については納得してくれていただろうか」
 
 「あの先方の雰囲気から考えると、もうこのプロジェクトは、
  競合企業のA社への発注を決めたのだろうか」
 
 こうした質問を受けた部下は、その瞬間から、先ほどまでの営業の場面を
 頭の中で「追体験」し始めます。
 そして、そこで感じ取ったこと、掴み取ったことを、
 一生懸命に「言葉」にして語ろうとします。
 例えば、このような答えです。
 
 「あの先方の首を傾けたうなずき方からすると、
  まだ、本当には納得してくれていないのではないかと思います」
 
 「おそらく、あの先方の硬い表情から推察すると、
  もう既に、A社に発注を決めたのではないでしょうか」
 
 しかし、こうしたやりとりにおいて、この営業課長は、
 単に素朴な疑問を部下に投げかけているのではありません。
 
 部下に対して、鋭い視点から、様々な質問を投げかけることによって、
 部下が「経験」を「体験」にまで高め、
 そこから言葉にならない「智恵」を掴むことを支援しているのです。
 
 これが「反省会」という方法です。
 
 ここで「鋭い視点」というのは、
 その仕事を成功させるうえでの要所を鋭く突いた視点という意味です。
 
 それは、言葉を換えれば「着眼点」のことでもあります。
 この営業課長は、同時に、こうしたやりとりを通じて、部下に対して、
 仕事を成功させるための「視点」や「着眼点」をも教えているのです。
 
 ■ 「業務日誌」による言語化の方法
 
 もう一つが、「業務日誌」です。
 
 例えば、あるビジネスマンは、毎日、業務の終了後、
 「業務日誌」をつけて「反省」を行う習慣を持っています。
 
 しかし、これは、一般の企業で行われている通常の「業務日誌」とは違います。
 会社から指定されたフォーマットに従って
 日時、場所、相手先、商談内容などの情報を書き込み、
 それによって「業務記録」を残すといった類のものではありません。
 
 それは、まさに、日々の業務の「反省」というものを、
 自分個人の成長の営みとして行うための「業務日誌」です。
 
 例えば、業務の終了後に、一日の仕事を振り返り、
 うまくいった仕事や、うまくいかなかった仕事を深く分析し、
 その成功の要因や失敗の原因を、論理的に言葉で表現していく。
 それが、ここで言う「業務日誌」です。
 
 そして、我々は、毎日この「業務日誌」をつけることによって、
 一日の仕事の「経験」を通じて学んだことを、明確な「言葉」にして表し、
 そのことによって、その「経験」を「体験」にまで高め、
 「智恵」を学んでいくことができるのです。
 
 では、この「業務日誌」をつけるという習慣の本質は、何でしょうか。
 
 「対話」です。
 
 このビジネスマンは、「日誌をつける」という形で、
 「自分との対話」を行っているのです。
 
 例えば、商談が失敗したとき、その原因を分析しながら、日誌をつけます。
 そのとき、心の中で反省を行おうとすると、一人の自分がこう述べます。
 「この商談が失敗したのは、現場が作成した企画書の出来が悪かったからだ」
 しかし、その瞬間に、もう一人の自分がつぶやきます。
 「しかし、企画書だけでなく、自分のプレゼンテーションにも問題があった」
 こうして対話が始まり、対話が深まっていきます。
 
 これが「自分との対話」です。
 
 そして、この「自分との対話」は、極めて重要です。
 なぜなら、一つの「経験」から多くのことを学ぶためには、
 先ほどの営業課長の「反省会」のときと同様、
 複数の「視点」が大切だからです。
 
 しかし、複数の人間が集まって反省会を行うときや、
 優れた上司のもとで反省会を行うときと違って、
 「業務日誌」などの形で一人で反省を行うときには、
 上司や同僚の「視点」を参考にすることはできません。
 
 従って、一人で反省を行うときには、自分の中の「もう一人の自分」を自覚し、
 その「もう一人の自分」からの声に耳を傾けることが大切になってくるのです。
 
 そもそも、我々の中には、「様々な自分」がいます。
 仕事に対してリスクを恐れず意欲的に取り組む自分。
 仕事のリスクに対して極めて慎重に振る舞おうとする自分。
 論理的に仕事を進めていこうとする自分。
 直観的に仕事に取り組もうとする自分。
 そうした「様々な自分」が、います。
 
 「自分との対話」とは、まさに、そうした「様々な自分」と対話し、
 「様々な視点」から、自分の「経験」を振り返ることでもあるのです。
 
 これが「業務日誌」という方法です。
 
 
★09
2004年01月29日 号
 
第8話 いかにして「経験」から学ぶか / 反省(その2)
┌────────────────────────────────────┐
 「反省」とは、一つの「経験」をしたとき、
 その「経験」を徹底的に「追体験」し、
 そこで学んだことを極限まで「言語化」することによって、
 「知識」を「智恵」へと深め、
 「経験」を「体験」へと高める方法です。
 
 特に、この「反省」において最も大切な方法が、「言語化」です。
 
 前回は、この「言語化」の方法として、
 「反省会」と「業務日誌」という二つの例を挙げました。
└────────────────────────────────────┘
 ■ なぜ「言語化」で智恵を掴めるのか
 
 しかし、ここで皆さんから疑問の声が挙がりそうです。
 
 「反省」のための具体的方法として「言語化」があることは理解したが、
 もし、「職業的な智恵」というものが、「言葉で表せない」ものであるならば、
 そもそも「言語化」という「言葉で表す」方法によって、
 その「職業的な智恵」を掴むことができるのか。
 
 その疑問です。
 たしかに、これは鋭い疑問ですが、
 実は、「言語化」という方法によって
 「言葉で表せない智恵」を掴むことはできます。
 
 なぜなら、この「言語化」とは、
 あたかも「井戸水」を汲み上げる行為に似ているからです。
 
 例えば、いま、井戸水を汲み上げていくときを想像しましょう。
 そのとき、井戸水の「表層水」が「言葉で表せる知識」であり、
 井戸水の「深層水」が「言葉で表せない智恵」であるとします。
 このとき、「言語化」によって汲み上げることができるのは、
 「表層水」だけなのですが、「表層水」を汲み上げていくと、
 自然に「深層水」が井戸の表層近くに昇ってきます。
 それは、「言葉で表せない智恵」というものが、
 我々の「意識」によって掴まれやすくなっている状態を意味しています。
 
 すなわち、このとき、我々は、スキルやセンスを掴みやすくなり、
 直観や洞察が閃きやすくなるのです。
 
 例えば、長時間の会議で徹底的な議論をしても答えが出ないときがあります。
 そして、万策尽きたとの思いのなかで、これ以上考えても仕方がないかと諦め、
 気分転換に食事に行ったりすることがあります。
 そうしたとき、不思議なことに、突然、直観が閃き、
 答えに結びつくアイデアが生まれるときがあります。
 こうした経験を持っている方は、決して少なくないのではないでしょうか。
 
 実は、このことを、科学哲学者のヴィトゲンシュタインが、
 『論理哲学論考』という著書の中で述べています。
 彼のこの言葉は、この辺りの機微を述べたものです。
 
 「我々は、言葉にて語り得るものを語り尽くしたとき、
  言葉にて語り得ぬものを知ることがあるだろう」
 
 すなわち、徹底的な「言語化」にもとづく「反省」という方法は、
 決して、単なる「智恵の言語化」や「暗黙知の言語化」ではないのです。
 
 それは、「言葉で表せない智恵」を、
 その深みにおいてそのままに体得する方法でもあるのです。
 
 ■ 「反省」とは似て非なる方法
 
 さて、このように、「反省」という行為は、
 一つの明確な「方法」を持ったものであり、
 その根底には、一つの深い「思想」があります。
 
 そこで、最後に、しばしばこの「反省」という行為と混同される行為について
 話しておきたいと思います。
 
 それは、「後悔」と「懺悔」です。
 
 しばしば、「反省が大切である」と聞くと、
 「ああ、二度とあのような失敗はしたくない」といったことを述べる人がいます。
 また、「すべての責任は私にあります」といったことを述べる人がいます。
 
 これは、実は、「反省」をしているのではなく、
 ただ「後悔」や「懺悔」をしているだけです。
 
 そして、こうした「二度と失敗はしたくない」という「後悔」の心境では、
 失敗の原因を冷静に分析できないため、将来の失敗を避けることはできません。
 また、「すべての責任は私にあります」という「懺悔」の心境には、
 しばしば、周りの人々に対して「懺悔」を行うことによって、
 自分がこれ以上責められることを避けたいという心境が隠れています。
 そのため、この心境では、他人が自分をどう見ているのかを意識しているため、
 自分が何を直すべきかを考えることはできません。
 
 もとより、こうした発言をすることの奥には、
 それなりの真摯な気持ちがあることはたしかなのですが、
 こうした「後悔」や「懺悔」という行為によっては、
 我々は、「成長」していくことはできません。
 
 我々が「成長」していくためには、
 「反省」という行為こそが大切なのです。
 
 なぜなら、
 「後悔」とは、過去に向かっての営みであるのに対して、
 「反省」とは、未来に向かっての営みだからです。
 
 そして、
 「懺悔」とは、他者に対しての営みであるのに対して、
 「反省」とは、自己に対しての営みだからです。
 
 そして、我々が、本当に「成長」していきたいと願うならば、
 
 「過去」の非に囚われることなく、「未来」を見つめ、
 「他者」の目を意識することなく、「自己」を見つめる。
 
 その心の姿勢こそが、求められるのです。
 
 
★10
2004年02月05日 号
 
第9話 いかにして「反省」をするか  / 意味(その1)
 
 人生における大切な「時間」
 その「時間」を使って得られた貴重な「経験」
 その「経験」から「智恵」を学ぶためには、
 得られた「経験」を徹底的に「反省」することが必要です。
 そして、その「反省」の具体的な方法が、「言語化」です。
 前回は、そのことを話しました。
 しかし、この「反省」ということを本当に深く行うためには、
 実は、大切な心得があります。
 今回から、その「反省の心得」として、三つの心得を話したいと思います。
 
 まず第一の心得を述べましょう。
 
 「隠れた目的」を持つ。
 
 これはどういう意味でしょうか。
 そもそも、「反省」ということを本当に深く行うためには、
 一つの経験を積んだ「後」ではなく、その経験を積む「前」こそが大切です。
 なぜでしょうか。
 
 「目的」が重要だからです。
 
 すなわち、「反省」をするためには、一つの仕事や会議に臨む前に、
 その「目的」は何であるかを明確にする必要があります。
 それを明確にしなければ、その仕事や会議が終わった後で、
 所期の「目的」が達成できたか、そして、
 何が得られたか、何を学んだかを「反省」できないからです。
 
 しかし、それだけの話であれば、特に、改めて述べるまでもないことです。
 では、なぜ、このことが問題か。
 
 「目的」通りにいかないからです。
 
 例えば、一つの会議に臨むとき、
 「この会議ではこの点について必ず結論を出そう」という目的や、
 「今日の会議では、この問題について深めよう」という目的を定めたとします。
 たしかに、こうして会議の目的を明確に定めて出席するならば、
 会議の後で、その目的が達成できたかどうかを具体的に反省することができます。
 しかし、残念ながら、現実には、そう理想通りにはいきません。
 
 なぜなら、会議においては、自分が主宰者であるとはかぎらないからです。
 そのため、たとえ自分が明確な「目的」を持って臨んでも、
 会議の主宰者が、会議の目的を明確にせず、散漫な議論に終始したときには、
 その会議は、その「目的」に鑑みて「反省」するならば、
 目的を達することもなく、
 何も得ることのなかった「不毛な会議」になってしまいます。
 
 しかし、こうした会議も、一つの心得を持つだけで、
 決して「不毛な会議」にはなりません。
 
 それが「隠れた目的」を持つということです。
 
 例えば、会議において「公式の目的」が「新しい商品企画」であったとします。
 このとき、会議の前に「商品企画」だけを目的として心に定めるのではなく、
 それ以外に、幾つもの「隠れた目的」を心に定めることです。
 
 例えば、「この会議においてはA課長の会議の仕切り方を学ぼう」という目的や、
 「Bマネジャーの企画センスを学ぼう」という目的を、
 「隠れた目的」として心に定め、その会議に臨むならば、
 もし仮に、その会議において良い商品開発のアイデアが得られなくとも、
 それは、決して、「不毛な会議」にはなりません。
 
 いや、むしろ、会議に際して、単なる「公式の目的」だけでなく、
 こうした「隠れた目的」を持って臨むならば、その「不毛な会議」は、ときに
 その個人にとっては、極めて実り多い会議になることさえあるのです。
 
 そして、これは、単に「会議」だけにかぎったことではありません。
 
 いかなる「仕事」においても、それに取り組む前に、
 「公式の目的」だけでなく、幾つもの「隠れた目的」を心に定めること。
 
 それが、貴重な一つの「時間」を使って、一つの「経験」をしたとき、
 そこから、できるだけ多くの「知識」や「智恵」を学ぶために求められる
 大切な心得なのです。
 
 例えば、若手社員が、会社主催のパーティの受付を命じられたとします。
 こうした仕事も、「公式の目的」だけで考えるならば、
 ただ顧客から名刺を受け取って、名札を渡すだけの単調な仕事かもしれません。
 しかし、「この機会に、当社の顧客について詳しく観察してみよう」と
 「隠れた目的」を心に定めるならば、その「パーティの受付」という仕事も、
 実は、有意義な実り多いものになるのです。
 
 すなわち、これは、言葉を換えれば、「粘り腰」や「したたかさ」です。
 
 一つの会議において、長時間を使っても、良いアイデアが生まれなかった。
 このとき、「結局、この会議では何の成果もなかった」と
 淡白に考えるのではなく、
 「いったいこの会議で何が学べたのか」ということを
 「隠れた目的」に照らして考え抜き、大切なことを学び取っていく。
 
 いかに単純で、単調に見える仕事であっても、その仕事に取り組む前に
 「この仕事から何を学べるか」について深く考えてみる。
 そして、幾つもの「隠れた目的」を心に定めて、仕事に取り組む。
 
 「反省」を通じて、日々の会議や仕事から多くの「智恵」を学んでいくためには、
 そうした「粘り腰」や「したたかさ」こそが求められるのです。
 
 ■「反省」のための第二の心得
 
 さて、第二の心得を述べましょう。
 
 「失敗」を活用する。
 
 これはどういう意味でしょうか。
 一つの「経験」に際して深く「反省」を行うということは、
 言葉にするのは簡単ですが、実際にそれを行うことは容易ではありません。
 なぜなら、我々の心の中には、この「反省」を妨げるものがあるからです。
 何でしょうか。
 
 無意識の「慢心」です。
 
 我々の心というものは、
 表面的には、理性が「反省によって、自分を成長させなければ」と思っていても、
 その奥底では、エゴが「いまの自分で良い、何も変える必要はない」と考え、
 自己を正当化する傾向があるからです。
 
 すなわち、我々の心の奥深くにある無意識の「慢心」
 そのため、我々は、本当に深く「反省」することができなくなってしまうのです。
 では、どうすればよいのでしょうか。
 
 「失敗」を活用することです。
 
 仕事において「失敗」したときや、
 競争において「敗北」したとき。
 そうした機会を活用することです。
 
 我々は、「失敗」や「敗北」に直面したとき、
 しばし、痛苦な心境に覆われ、屈辱的な気持ちに襲われます。
 例えば、自分のミスでプロジェクトが失敗し、会社に大きな損害を与えたとき、
 出社して同僚の顔を見ることがつらいと感じる朝があります。
 また、会社の帰りに一人夜道を歩きながら、自分の未熟さが恥ずかしくなり、
 思わず夜の空を仰ぎ見るときがあります。
 
 しかし、そうした心境や気持ちを抱えたときこそ、
 我々は、自分の中にある「慢心」に気がつくことができるのです。
 そして、その「慢心」に気がつき、それを認めたとき、
 我々は、自ずと「謙虚」で「素直」な気持ちになることができるのです。
 
 古くから「敗北した軍隊は、よく学ぶ」という諺があります。
 
 この諺どおり、我々は、「失敗」や「敗北」に直面したときにこそ、
 「謙虚」で「素直」な心境になることができます。
 そして、そうした心境のときにこそ、我々は、
 その経験を深く「反省」し、そこから多くの「智恵」を学ぶことができるのです。
 
 従って、「失敗」や「敗北」の機会を最大限に活用する。
 
 それが、第二の心得です。