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複雑系の知  著:田坂広志
 
<要約>
●序章〜複雑系の知とは
 この本は
「いま、なぜ『複雑系』などという言葉が、知のキーワードになるのか?」
「この『複雑系の知』が、我々が生きていくうえで、何の役に立つのか」
この問いが書かれている。
 
 これからの時代、今までの世界観や世界認識の方法を根本的に変えていかなければならない。知のパラダイム変換が必要となった。そのために「複雑系の知」が必要となる。
 
 宇宙、地球、自然、生命、人間、社会、市場、企業など森羅万象あらゆる世界の根本的な性質を言い表すのが「複雑系」「複雑性」。また、これらを理解することにより、生きていくための知恵を受けることができる。
 
 この複雑系としての世界の根本的な性質は
「世界は複雑化すると新しい性質を獲得する」
ということが近年、深く理解されてきた。
 
 宇宙は真空の状態から160億年かけて現在の姿が作り上げられた。そしてこの宇宙は
創発〜複雑化すると新しい性質を獲得する(emergence)
自己組織化〜自然に秩序や構造を形成する(Self organization)
進化〜突如、それとはまったく異なった性質を持つ存在へと不連続的に変化する(evolution)
を持つ世界である。これは、宇宙というものが一つの「生命的プロセス」にほかならない。そして、
複雑なものには こころが宿る
という言葉に複雑系の世界を理解する鍵が潜んでいる。
 
 さらに、複雑系の性質を加速するもののひとつに「インターネット革命」がある。
 これは、社会のあり方と組織や個人のあり方を根本から変えていく革命になる。
 
 複雑系の知はたんなる知識ではない。体験でしか身に付かない「臨床の知」、身体感覚を通じてしか身に付かない「身体性の知」であり、言葉では表現できない「暗黙の知」である。
 
 それを七人の賢人によって解説を試みる。
1.ポエット〜詩人
2.インキュベーター〜孵化を促す者
3.ストーリーテラー〜語り部
4.アントレプレナー〜起業家
5.セラピスト〜心理療法家
6.ゲームプレイヤー
7.アーティスト
 
●第1章〜社会の本質を知るにはどうすれば良いか? −ポエットの知
 魚の解剖実験のがこれまでの科学の限界を示す〜魚を解剖することによって、構造は理解できた。しかし、いくら丁寧に縫い合わせて元に戻したところで、失われた命は戻ってこない。
 これまでの科学は、複雑なものに出会うと、単純なものに分割した上でそれぞれを分析し、その分析結果を集めて総合的な本質を得ようとしてきた。これが「要素還元主義」である。この方法が、近年では正しく知ることができないと理解されてきた。それは、分析によって大切な何かが失われるからである。では、なぜ分割すると大切な何かが失われるのか。それは、「複雑化すると新しい性質を獲得する」からである。群集心理についてもこれがあてはまる。よって、理解の対象を分割した時点で、全体が獲得していた新しい性質が失われ、結果瑞々しさを失って色あせてしまう。
 
 現在の「総合」という発想は、たんに分割した結果の集まりでしかない。全体の本質を捉えているわけではない。ならば、どうすれば「総合」の理解を得られるか。
 答えは「洞察」や「直観」という手法を用いる。全体をありのままに観察し、その本質を直接的に把握するのである。ただ、こういった古典的な方法は、一見「簡単」であるかのように見えるが、実際はかなり困難な方法である。なぜなら、多くの場合予断や先入観が入ってしまうからである。しかし、正しく観察するためには「頭で考える」のではなく「体で感じる」ことが求められる。そしてこれは、かなり高度で長期の修練によらなければ身につけることはできない力量なのである。
日常的な体験において、ある問題に面したとき、ピンとくることがある。それにもかかわらず、情報や論理によって分析的思考を行うと、直観とは異なった判断に達することがある。こうした状況下ではほとんどの場合、直観が正しい。ただ、直観を生むには豊かな経験を積むことが必要なのである。
 
 では、どうしたら洞察力と直観力が身につくか。
 ひとつは、論理を究めることによって、論理を突き抜けた洞察や直観の世界が開かれる。
 もうひとつは、体験に徹することである。極限的な状況での決断や意思決定を幾度も体験することで洞察力や直観力が磨かれる。
 そして、これらに共通して求められるのは「感じる力」である。研ぎ澄まされた感性をもって、理屈・理論ではなくありのままに感じることで、あらゆる本質を知ることができる。
 
●第2章〜社会の現実を変えるにはどうすればよいか? −インキュベータの知
 社会の本質を「知る」だけでは意味がない。現実をよりよいものへと「変える」ことが大切である。では、どうすればよいか。
 今までの社会変革パラダイムは「管理」のパラダイムであったが、それが限界にきている。というのも、こうしたパラダイムは瑞々しい社会をあたかも「機械」のごとくみなし、設計して制御できると勘違いしていたからである。人類は機械文明下において、社会も作れると錯覚に陥っていた。しかし、社会とはひとつの生命と呼ぶべき存在であり、けっして機械のように扱うことはできない。なぜなら、「理想」に偏して設計・構築されたものは必ず「現実」から復讐されるからである。会社の組織を例にすれば「陰のマネージャ」「陰の組織」などである。机上で設計したものは、それが現実的でなければ、人々の心まで管理できないので、そういった復讐にあう。それは、やはり社会や組織が「生命力」をもった存在だからである。それは「創発のプロセス」ともいえる。
 創発(emergence)とは「部分の単純な挙動が全体の高度な秩序を生み出す」「個の自発性が全体の秩序を生み出す」というプロセスである。自己組織化ともいう。
 そして、現実を変えるには、社会が自発的に「変わる」ことを促進することである。人為的な発想を捨て、自然なプロセスを起こすということだが、それでは具体的にどうすればよいか。
 それは「情報共有」のプロセスである。社会における情報の創造。伝達、蓄積、活用という情報共有のプロセスを「変える」それだけで、社会は自ずと「変わる」。
 それを実現させるのが「インターネット革命」である。これまでは量的な拡大のみだった通信革命が、これからは次の三つの革命をもたらす。
@「情報バリアフリー革命」
A「草の根メディア革命」
B「ナレッジ・コミュニケーション革命」
 
@は、国会などの議事録が公開され、容易に内容を知ることができること。
Aは、個人が低コストで容易に情報発信ができること。
Bは、今までたんなる「データレベル」の情報しか共有できなかったものが「ナレッジ」や「ノウハウ」のレベルまでに拡大すること。
 これらが社会変革を促すことになる。社会変革とは、政治経済などの制度変革だけではなく、むしろ人々の意識や行動を含む「文化の変容」を進めていかなければならない。
 これから主流となる「生命的社会観」では、構造よりもプロセスが重視される。社会にあるダイナミックなプロセスが、創発の条件が整ったとき、秩序や構造を形成する。
 文化に強い影響を与えるのがメディアである。インターネットはまさに新しいメディアであり、進化のアクセラレータとなる。しかし、ここで留意しておくべきことは、インターネット革命が「設計図をもたない革命」であるということである。従来の管理型社会変革から創発型社会変革とも呼ぶべきパラダイムであり、その根底にある思想は「自然」である。
インキュベータとは「卵を孵化させる者」という意味の英語であるが、彼らが社会の創発を促すことによって自ら変わることを援助しようとするのである。
 
●第3章〜社会の創発を促すにはどうすればよいか? −ストーリーテラーの知
 
社会は自ら創発するもので、人為的に創発させることはできない。
人間ができるのは、創発の条件を整えることだけである。
この条件とは3つ
・オープン(開放系)
・ダイナミック(非平衡系)
・ポジティブフィードバック(自己加速系)
社会はこれからこの3つの条件を成立させる方向に向かう。まず、国際などの「際」が消失し、ボーダーレスに向かう。次に、規制緩和などでベンチャー等が活発になり民間主導のダイナミズムが発揮される。そして、情報化が進み、社会でのブームやトレンドなどが短期間に広く伝わるようになり、人々は敏感に反応するようになる。その結果、自己加速系に向かう。とくに、自己加速系は重要である。
 その自己加速系を生み出すにも条件がある。それは2つ。
・情報共有を進める。
・共鳴を生み出す
その共鳴はどのように生まれるのか。「言霊」である。生命力を持った言葉を発することである。生命力を持った、というのは、「他人を信じさせる」という発想ではなく「自ら信じる」という信念を持って発せられる言葉である。ビジョンを語る人間はその実現を誰よりも深く信じているところから、はじめて人に伝わっていく。安易な願望や甘い夢だけでは誰にも伝わらない。その役割を担うのがストーリーテラーである。
 
●第4章〜社会の歴史に参加するにはどうすればよいか? −アントレプレナーの知
 
たったひとりの個人でも、社会進化の分岐における「ゆらぎ」を生み出すことによって社会の歴史に影響を与えることができる。そのキーワードは
・「起こす」から「起きる」 〜人為的なものでなく、自然(じねん)
・「組織」から「個人」
従来は、組織の力によってはじめて社会を変えることができるというパラダイムであったが、これからは個人の力が大きな影響力を持つようになる。
なぜなら、複雑系としての社会には「摂動敏感性」という性質があるから。「摂動」とは小さなゆらぎのことであり、「敏感性」とは部分の小さなゆらぎによって全体が大きな変動を生じることである。言い換えれば「ミクロのゆらぎがマクロの大勢を支配する」。すなわちアントレプレナー(起業家)が活躍する時代である。これはビジネスマンだけがなり得るわけではない。むしろ、旧体質を改めていくにはNPO(非営利団体)等におけるアントレプレナーが求められるのではないか。そして、アントレプレナーとは一攫千金の夢という金銭的なものではなく。社会に貢献するというボランティアシップと融合していくであろう。
その例がシリコンバレーの起業家たちにある。
またイントレプレナー(社内起業家/組織内起業家)もインターネットの発展によって活躍できる時代になってきている。
小さなゆらぎを起こすには組織の力は必要ない。個人の共鳴力によってなし得ることができる。
 
●第5章〜社会の問題を解決するにはどうすればよいか? −セラピストの知
セラピストとは、正しくはサイコ・セラピストのことであり、カウンセラーとも呼ばれる心理療法家のことである。人の心の問題を解決するのに用いている思考のスタイルから学ぶべきことが多い。
とくに注目するのは「家族療法」である。これは、子供に問題があるとき、子供だけではなく、家庭全体に問題があると捉え、家族全員の癒しを実現する方法である。
社会においても同様に考え、ひとつの問題だけを見つめるのではなく、複数の問題によって形成される「問題群の生態系」というとらえ方をする。
ここで大切な認識が2つある。
@「癒しとは進化である」
A「心の生態系は共進化する」
@については、心の病というのは何らかの原因で異常な状態になっているのではなく、さらに進化しようとして現実と葛藤して自らを生み出すという肯定的な現象である。現在の社会においては、機械の如く問題箇所だけを一刻も早く元に戻すという否定的な意味合いを濃くもっている。こうした認識が癒しを妨げている。
社会の問題は、ある理由が原因で異常なのではなく、社会という生命体がさらに進化を遂げようとしている、いわば肯定的なプロセスと認識しなければならない。
真に問題解決をめざすなら、まずは否定的な思想を克服して、肯定的な思想を育むことである。
Aについては、問題群の生態系を構成する多くの「問題」は、それぞれに影響を与えながら進化する、ということである。そして、個々の要素と全体は、共進化する、ということも理解しなければならない。当然、社会も「部分と全体が共進化」するのであるから、これらの関係を上位・下位と考えてどちらか一方がどちらか一方を決めるという、トップダウンやボトムアップのプロセスとして見ることは正しくない。
したがって、複雑系の社会においては、 問題群の生態系が共進化するために、二つの思考スタイルが求められる。
「水平統合思考」
「垂直統合思考」
「水平統合思考」とは、個別の問題のみ取り上げるのではなく、構成する主要なすべての問題に対し、水平的に統合して働きかけるというものである。
なぜ現代社会の問題解決がこれほど困難なのか。それは、多くの問題が密接に絡み合い、問題群の生態系を形成しているからで、個別の要素を取り出して機械の部品をい修理するかの如く解決することはできない。よくあるのは、犯人捜しである。「何が原因か」「誰に責任があるのか」といった論調の犯人捜しが行われることが多い。しかし、社会はこのような安易な処方で解決できるようにはなっていない。これは機械的世界観のパラダイムに終始している。
現実の問題は「原因−結果」のような直線構造をなしているのではない。「循環的な構造を形成している」。
では、どのような問題解決を行えばよいのか。
薬でたとえるなら、「即効薬」から「漢方薬」への移行である。
抗生物質のように、原因のウイルスを除去することによって治すというのではなく、体全体を同時に改善していくというやり方である。
これを社会にあてはめて示すなら、異なった社会的階層が協同して取り組むことができる「場」を作ることである。具体的にはコンソーシアム(共同事業体)である。これは、たんに意見交換の場ではなく、共同活動の場である。
「垂直統合思考」とは、問題群の生態系において、あらゆるレベルの問題を同時並行的に働きかけて解決していくという考え方である。今までは「ビジョン→戦略→行動」という直線的スタイルがトップダウンで行われていた。考える人と行動する人が分かれているが、これが弊害を生み出している。実践する人間はこれらを同時並行的、相互反復的、瞬間洞察的に統合しながら最適の組み合わせを見いだしていく。
 
●第6章〜社会の法則を活かすにはどうすればよいか? −ゲームプレーヤーの知
「社会における法則とは何か」
まず、物質、生命、人間、社会のそれぞれは、明らかに異なった進化の段階にあり、法則も異なるを理解しなければならない。
物質の世界における法則とは「再現性」があることを意味している。
生命の世界においては、個性や学習という要素が入るので、再現性という点では怪しい。
人間の世界ともなると、高度な知性を持っているため、予想という要素が入ってくる。これによって、人間の法則はより複雑なものになる。たとえば、ある法則を聞いて人間の行動を予想しても、それを聞いた人間は行動を修正する可能性が生まれるからである。
さらに、予想という要素を持つ人間が多く集まった社会においては、ゲームという要素を考えなければならない。例えて言うなら、ある人間が他人の過去の行動を学習し、未来の行動を予想することによって、自分の現在の行動を修正する可能性があるからである。
二十世紀では、社会科学を物質科学と同じように、厳密で論理的な基盤の上に構築しようとしていた。結局それは幻想に終わるのだが、社会科学における法則や理論というものに対する問いかけでもある。
その問いとは「法則というものは変わらないものか」「法則というものは、我々自身を離れて客観的に存在しているものか」という問いである。それを考えていくとき「法則進化性」と「自己言及性」という問題について考えなければならない。
法則は進化する。ということは、法則自体が変わっていくということである。とくに、現代の市場などは変化が著しく、ビジネスマンのライフタイムの間に進化が何回も生じる。よって、これからのビジネスマンには、新しい法則やルールに対し、常に敏感でなければならない。その市場の変化について考えるとき、「法則というものは、我々自身を離れて客観的に存在しているものか」ということから考える必要がある。このとき、社会科学特有の事象として「自己言及性」という特徴を理解する必要がある。これは、ある客観的法則が一時期有効性を示していたが、広く認知されることによって、その客観性と有効性を失っていくということである。そして、有効性の代わりに台頭するのが「戦略的ゲーム」である。これは、予想された未来について、好ましいと思う人はその法則を望み、好ましくないと考える人は異なった行動をとる、という現象である。こうして、利害が異なる人々の間で戦略的ゲームが生み出されていく。このゲームも進化する。というのも、ゲームに敗れそうになった人は、今度はゲームのルールを書き換えようとするからである。これは「創造的ゲーム」と呼ぶことができる。ルールの書き換えに最も有効な手段は他者との協調行動である。現代の民主主義社会では、絶対権力による行動は受け入れられない。この動きは、企業の戦略的提携という事象が説明に値する。詳細は本文にて。
ゲームプレーヤーの知とは「法則は変わる、そして変えられる」という主体的な発想を大切にする。それ故、社会の法則に縛られることなく、戦略的ゲームへと進化させてゆく。そして、ときに熱い情熱をもって創造的ゲームを生み出していくのである。さらにいちばん大切なこと。
自分自身が社会の一部であるということ。そのことを忘れ、社会に対するアウトサイダーとして振る舞い、たんに外部から評論し、批判するという安易な姿勢をとるべきでない。傍観的行為から社会を変えることはできない。社会を変えていくためには、まず自分が社会の一員であることを自覚し、その事実から逃げることなく、この社会に対して内部から働きかけ、それを創造的ゲームへと進化させることによって、このゲームに主体的に参加していかなければならないのである。
 
●第7章〜社会の未来を知るにはどうすればよいか? −アーティストの知
なぜ未来を知りたがるのか。それは未来が不安だからである。
未来は予測できない。
下記の三つの条件のうち、ひとつでもあてあまる世界においては、未来を予測することは不可能である。
・摂動敏捷性
・自己言及性
・法則進化性
摂動敏捷性とは、ミクロのゆらぎがマクロの大勢を支配する、という性質である。現在に生じたわずかな変化が未来を大きく変えてしまう、ということから、将来は予測できない。
自己言及性とは、未来を予測した結果をみて行動を変えるという性質のことである。
法則進化性とは、読んで字のごとく、法則自体が進化するのであるから、未来を予測することはできない。
我々の生きるこの世界は、常に進化し、これまでとは異なった世界へと向い続ける。それはあたかも、ひとりの創造的なアーティストに似ている。次々と新しい作品を創造し続け、さらにその作品を生み出す作風そのものを革新し続けていくひとりのアーティスト。我々の生きる世界とは、そうした存在である。
そうしたアーティストの感動的な作品を前に、我々がとるべき姿勢は、将来の作品を予想することではない。作風の秘密を暴くことではない。やるべきことは、ただひとつ。心の底から感じること、そしてその生き方を深く学ぶことである。
世界のアーティストの生き方に学ぶ。これは、自分がアーティストとして生き、人生というたったひとつの作品を残すことに他ならない。そして、精一杯の心を込めて残す作品こそが、未来を創造していくことを忘れてならない。
未来とは受動的に予想するものではない。能動的に創造していくものである。
 
●終章〜いま、なぜ、複雑系なのか −二十一世紀に求められる複雑系の知
世の中には「知」が溢れている。書店には多くの本が並び、テレビでは有識者がコメントを述べ、大学では多くの研究がなされている。にもかかわらず、社会の多くの問題が解決されずにいる。
これは、現代の知の無力さを表している。
なぜなら、現代の知は、複雑な問題に出会ったとき、それをあたかも機械のごとくみなし、それを単純な要素に分解して細かく調べ、それによって得た知識を用いて問題を解決しようとしてきたからである。
こうした機械的世界観や要素還元主義は、単純な問題に対しては有効であったが、現代が抱える多くの複雑な問題には限界がある。
複雑な問題を解決するには、世界をひとつの生命とみなし、その全体性を失うことなく、その病の癒しを求めていくための、成熟した知が求められている。こうした生命的世界観と全包括主義にもとづく成熟した知こそが、複雑系の知とよぶべきものである。
すなわち、これからは「機械論パラダイム」から「生命論パラダイム」への知のパラダイム変換が必要なのであるが、同時に「分離の病」をも克服しなければならない。これは、機械論パラダイムから生まれてくる「知と知の分離」「知と情の分離」「知と行の分離」という三つの病で、現代の知の生命力を失わせている。
「知と知の分離」というのは、専門主義である。そこに必ず存在する専門用語がこの壁を作っている。日常用語で使うようにするという考え方は、「知は誰のためのものか」ということに起因する。知識人の特権階級的な財産ではない。社会を支え続けている人々のためにある。
知識人というもに役割があるとすれば、知の営みに取り組める才能と環境に恵まれたことを深く感謝し、獲得した知を一人でも多くの人々のもとに送り届けることである。その役割を自覚することこそが、知識人の最低限の資格である。
「知と情の分離」は客観主義である。人間の深い思いを置き去りにし、事象として捉えるやり方は、社会問題の解決を妨げているもっとも根深い理由なのではないか。
「知と行の分離」。これは分業主義である。具体的には、理論を担う人間と実践を担う人間が分業してしまっていることである。例をあげると、経営コンサルタントと企業経営者、学識経験者と行政担当者、政治家と自治体職員、社会評論家とボランティアなど。これは、理論を語る人間が責任を取らない、という弊害が発生する。さらに、失敗の経験から理論を語る人間が深く学ばない、という害をも生み出す。理論を語るだけの「安全の高み」にあって「現実の深み」を知ることはできない。
では、どうしていけばいいか。分離から合一。ただひとつである。知行合一。これは自他合一という言葉も含んでいる。自と他の合一、これは自己言及の大切さである。他者のみを語って自分を語らないのは愚かである。
知を語ることは自己を語ること
これからは、いかなる知を語るかではない。いかなる人が語るか、である。