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運命の散歩道
 
   財運の不思議
 
 
 
財とは何か?  
 
現代は物質の時代であるとよく言われます。巷には物が溢れ、私たち現代人は歴史上かつて類を見ないほどの物質的な繁栄を享受しています。そんな物質の時代に生きる現代人にとって何かと気になるのがお金、つまり俗に言う財と言われるものではないでしょうか。
 
占術の世界においては、よく財運や金運といわれるような運勢が存在すると言われています。しかし果たしてそのような運命原理が本当に存在するのでしょうか。このテーマは現代人にとっても気にかかるテーマでありますので、ここで少し考えてみましょう。
 
占術世界でいう金運、財運という言葉は、具体的にはお金の入ってくる時期や物に恵まれる時期を意味しております。私たち現代人は、いわゆる経済的活動によって金銭や物を得て生活しておりますが、まずそれが何の為に為されるものなのか、またそれを支える財、つまり金銭とは何なのかを考えねばなりません。
 
財という言葉の意味を辞典で調べますと、「値打ちがあって人の役に立つ金銭や物資のこと」を言います。つまり換言すれば物です。私たち人間は動物と違って物が無ければ生きて行けません。この物というのがまったく存在しなければ、人間世界は野生の動物のような生活に戻ってしまうでしょう。
 
私たち現代人が使う金銭とは、換言すれば物が凝集されたものであり、物と物を等価交換する一つのシステムなのです。人間は物がなければ生きていけないので、このようなシステムが自然発生的に形成されてきたのではないでしょうか。
 
実際に金銭とは、この物質世界において万能といえるような存在でもあります。もしこの金銭がたくさんあれば欲しいものが何でも買えます。また嫌な仕事からも解放され、1日中好きなことをして暮らすことができます。また美味しい物を食べたり、好きな土地を旅したりすることもできます。
 
また自分の理想を実現していくのにも必要なものと言えます。つまり金銭とは、この物質世界にある様々な制約を解いて行き、精神的、物質的な自由を獲得するものであると言えます。
 
ご承知のように、この物質世界には私たちに苦痛をもたらすあらゆる制約が存在しています。その多くが実は私たちの肉体、つまりこの身体的な原理に根ざしたものであるのです。
 
 例えば人間はこの身体を維持するために、毎日の食物を始めとするいろんな物を必要とします。それは身体の暑さや寒さを防ぐ衣服であり、身体を風雨や外敵から守るための住居であり、さらにこれらの生活システムを維持するための生活必需品などあって様々です。
 
つまり私たち人間の身体は、自分自身が物ですから、こうした生活をするための物が存在しないと維持できないような構造になっているのです。私たちは生まれた時からこうした環境が当たり前であるために、そのことに関して何の不思議も感じません。
 
しかしよく考えてみると、こうした物と物が繋がり、物を維持するために物が必要となるような、いわば物と物とが連鎖的に関連していくこの仕組み自体は、実に不思議な構造だと思えるのです。
 
これと似たような概念に「食物連鎖」という概念があります。学校教育の中でも教えられておりますので、誰でも1度くらい耳にしたことがあるはずですが、この概念はこの物質世界のそうした特徴をよく捉えたものだと言えます。
 
 食物連鎖とは簡単に述べれば、生物が自己の存在する世界において食うか、あるいは食われるかの関係によって連鎖的に繋がっていることを言うのですが、ここで想定している食物というのは動物や植物の身体という意味ですから、身体が物の集合体であることを考えれば、この食物連鎖も結局は、「物の連鎖構造」であると言えると思います。
 
こうした物を維持するために物が必要となる、いわばこの「物の連鎖構造」というのは、この物質世界を象徴するようなシステムでありますが、私が思うにこれは多くの生命が進化していく過程をいわば助けるための仕掛であり設計であって、その中で生きねばならない宿命をもった生命が、身体という物を所持することによって強制的に他者と関り、またその中で切磋琢磨していくことを通じて、生命としての意識が成長していく構造になっていると思えるのです。
 
金銭とは、こうした物の連鎖構造を凝集した一つのシステムであり、物と物のチェーンを生み出すためのシステムなのです。またそれは私たちの意識というものが作り出した、特殊な契約事でもあるということになります。
 
金銭は現代において紙幣によって賄われておりますが、このいわば紙切れが価値を持ちうるのは、それを使う多くの人が、共通の認識を持つことによって金銭としての概念が成立しうるからです。それを知らない人にとって紙幣はただの紙切れでしかありません。つまり、金銭というのは私たちの意識というものによって成される約束事であり、物の連鎖構造を凝集した特殊な存在なのです。
 
それは物そのものでありながら、しかし、その物は私たちの意識によって作られたものでありますから、それは物であって物ではないという、実に複雑な存在であるとも言えるのです。
 
 
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 運と意識の関係
 
ではそうした意識によって形成されているこの金銭システム、つまり財とはどのような原理によって動いているのでしょうか。不況に悩む現代人にとっての、最大の関心事でもある財の原理にせまってみましょう。
 
私たちの歴史を巨視的なスケールから俯瞰すれば、カール・マルクスが述べたように階級闘争の歴史であったと言えます。階級闘争とは一見すれば、権力者と被権力者、支配者と被支配者の闘争であるかのごとく見えます。
 
しかしその根底にあるのは、この物質世界を動かす力ともいえる金銭、つまり財といわれるものの中に最大の原因があると私は思うのです。その原因を中核として個人の野心や虚栄心、権力欲などが重層的に積み上げられて、様々な権力闘争や血みどろの争いが繰り広げられてきたのです。
 
いつの世でもどこの国にも裕福な人と貧しい人が存在しています。あるいはその中間に属する多くの人も存在します。それは永続的なものではなく、これまで裕福であった人が突然に没落し貧乏になったり、逆にこれまで何をやってもだめであった貧乏な人が突然に成功して裕福になったりすることもあります。
 
権力者は永遠に権力者ではありませんし、支配される者も永遠に支配されているわけではありません。こうした関係が常に入れ替わるものであることを私たちは歴史を学ぶことで知ることができるのです。
 
現代のような激動の時代であれば、巨大企業の破綻や経済的巨人の退陣劇などによって、短期間のうちにこうした現象をみることができます。こうした現象をみるとき、「あの人は運がよかった」とか、「あの人は運が悪かった」とか、「あの企業は運がなかった」、「あの企業は時流にうまく乗った」などと言われるものですが、こうしたことはいわゆる「運」という存在を抜きにして語ることはできません。
 
では、占術の世界で言われるこの「運」とは何でしょうか。この運の存在を解くことがこの問題を解決する糸口になるように思えます。
 
そこで、運のあった人と運のなかった人を比較して、現実的な背景を考えて見ましょう。
 
世間においてよく言われる、「運の境目」において考えてみると分かりやすいかもしれません。俗に言う「運の境目」とは、これまで順調にいっていた人が、あるきっかけを境目にして没落していったり、あるいは逆にこれまで何事も遅滞してうまく行かなかった人が、あるきっかけを境目にして全てが順調に動き出した、というような時に使います。
 
実際に、こうした運命の大きな変化が起きる最大の要因がどこにあるかということを突き詰めていきますと、結局は、その渦中にある人、つまりその世界に属している私たちの意識の内に存在していることが分かってきます。
 
例えば現代のような時代は「一寸先は闇」の時代でありますから、社会の変化を柔軟に感じ取る鋭敏な意識が要求されますが、もしそうした鋭敏な意識がその渦中にある人になければ、こうした時代を切り抜けることはできないであろうことは容易に想像がつきます。硬直した意識は、社会の変化を柔軟に感じ取れずに、結局はどこかで壁にぶつかり破綻してしまうのです。
 
そういうことを考えますと、運とはつまり、私たち人間の根幹とも言える意識というものをベースとして築かれるものであることが分かってきます。ではこの意識がどのような原理に基づいて形成されるものであるかを次に考えれば、その答えに辿りつけるのではないでしょうか。
 
つまり私たちの意識が何よって作られ、それは恒常的なものなのか、あるいは何らかの原理によって常に変化していくものであるのか、または意識の根底に存在するものとは何なのか、というような複雑な問題を解決していかねばならないのです。
 
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 意識とは何か
 
意識とは何でしょうか。意識を一般的に解釈すれば、外界を認識して思考する心の働きであると言えます。つまり意識がない状態では、私たちは外の世界で起きている現象がまったく理解できません。意識が健全に働いているからこそ、外の世界を知ることができるのです。例えばこの文を読み、その意味を考えているのも意識の作用であり、他人を認識したり、自己について考えたりするのもすべて意識の作用であると言えます。
 
この意識の問題は非常に重要なテーマであります。古今東西の思想家や哲学者たちにとっては、かつて最大の関心事でありました。現代という時代は経済活動に関心が傾向しておりますが、この非常に重要なテーマがなくなることは決してありません。そのテーマが消失したのではなく、経済に囚われた私たちの意識が、自己のアイデンティティを忘却しているのです。
 
こうした自己矛盾に陥っているのが現代という危機の時代でもありますが、では、この意識というのはどのような原理に基づいて機能しているのでしょうか。現代のような時代であれば、その回答を即物的に自然科学に頼ろうとする傾向性があります。
 
しかし私の経験からすれば、こうした精神世界に属する意識の本質的な問題を、物の世界の手法、つまり生理学や解剖学などによってその本質を解明することはできません。科学優性の時代においては、現象の全てを科学によって解明できるのではないかという、「科学信仰」が一般化しております。
 
この意識という現象は自然科学のみならず、哲学や宗教世界まで裾野を持つ途方もなく巨大な世界の問題です。私の運命科学においても、この意識の存在こそが最大の重要テーマでもあるのですが、この問題を解決するには自然科学を始めとして、哲学や宗教、さらには運命学など、世界に存在する多くの学にアプローチしなければなりません。
 
それはこのテーマがそれほど大きなテーマでもあるからなのです。
 
では、再び意識とは何であるかを問うてみましょう。私はこの意識が先ほど述べた運と深く関係しているものであることを述べました。つまり結論から簡潔に言いますと、運命学の世界で考えられている運とは、「意識の変化」のことを意味していたのです。
 
要するに、運命学でいう運の変化する時期には、その人の意識が変化しているのです。その人の意識に変化が生じれば、もしその人が会社の社長であれば、その人が携わる会社の経営が変化したとしても何ら不思議ではありません。
 
例えばこれまで健全な業況分析をし、常に冷静でシャープな思考を持っていた人物が、ある期を境に妄執型の非客観的な思考タイプに変化することも考えられるわけです。
 
もしそのようなことが起きれば、当然にその会社の経営は行き詰まっていくわけです。このような意識の変化が生じる原理がもし存在すれば、次にそれがどのような法則によってこの原理が成立しているのかを考えねばなりません。
 
 
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 運は存在する
 
こうした意識の大きな変化は、運命科学では、運と呼ばれるエネルギーの変化に関係して生じてくると考えております。しかし一般的な観念において考えれば、意識の変化は外界の影響によってもたらされると多くの人は考えます。
 
 外界とはつまり、その人がおかれている環境のことを意味します。例えばその人がおかれている場の対人関係だとか、時代の流れであるとかです。その人の背後にあるこのような環境的な要因において、その人物は変化したのである、と考えるのが普通です。
 
こうした外界からの影響というのが、確かに意識の変化を引き起こす大きな原因になっていることは否めません。しかしその外的原因を主因として、そうした目に見える現象的な理屈のみで、意識の大きな変化を解決しようとするならば、そこには多くの矛盾が発生してくるのです。
 
例えば、そうした意識の大きな変化という問題が発生した当時、同様な立場や環境にあった他のB氏はまったく別の考え方をし、まったく反対の行動をとったとか、あるいはその当事者本人が周囲の反対を押し切って、自ら作り出したこれまでの行動規範を逸脱するような行為をしてしまったとか、そのような不可解な現象というのは外的原因のみを考えては解決できないのです。
 
こうした一つの原因のみによって問題の全てを解決し、その範疇においてすべてを理解しようと考える一元的な思考パターンというのは、私たち人間のもつ本能的な自我特有の性質であり、この自我の思考力のみに頼りきっては複雑な多くの問題、例えば意識などの高度な精神現象などの問題は解決できないのです。
 
運命科学では、こうした意識の大きな変化がおきる過程には、それを引き起こす本質的な法則が存在し、その法則によって意識の変化がその人の内的次元において進行していると考えます。
 
ですから、私たちが目にする実際の現象とは、その内的変化の結果として生じた現象であり、それ以前に心理的な領域において、その本人に大きな意識の変化が先行して起きていると考えるわけです。
 
つまり、これまですべて順調にいっていたある人が大きな問題に直面し、その重要な問題を解決しなければならない場合、その渦中に置かれている当事者はその問題に対して時流を読み、現状を精細に分析し、あらゆるリスクや可能性を考慮したうえでその問題に柔軟に対処しなければならないのですが、そうしたことができなくなる最大の原因が、その当事者の意識の状態が変化したことにあるのです。
 
要するに、いわゆる運が悪い場合、その人の意識状態は以前と異なり、これまで洗練されていたその人の意識に冴えが見られなくなります。以前であれば柔軟に解決できた諸問題も冷静に分析できず、時流や状況から外れたような見当違いや、いわゆる問題の読み間違いなどといったような判断ミスが生じてくるわけです。
 
そしてそれが、結局はその本人が置かれている環境をますます苦しいものにしていくのです。しかし、その渦中にある人はこうした意識の変化という内的な原因を知りませんから、苦しくなっていく環境がどこからきているのかは全く分かりません。
 
ですから通常は周囲に責任を転化し、自分を取り巻く周囲の人物や環境をなじったり、罵倒したりするものですが、彼は自らの意識が変化したことにはまったく気づかないのです。
 
こうした意識の変化は、何も今の例に挙げたような経済人だけにおきる変化ではありません。意識の変化というのは全ての人間に共通する運命法則でありますから、全ての人にそうした意識の変化という現象が生じるわけです。
 
例えば、これまで学業の優秀だった生徒が原因もはっきり分からず、いわゆる引きこもりになったとか、これまで元気に仕事をしていた人が突然会社を辞めて蒸発しただとか、これまで仲の良かった夫婦がある期を境に険悪の仲になっただとか、このような原因もはっきりと分からないような怪奇な現象が実際に生じてくるのです。
 
運命科学では、こうした変化の主因は意識の変化にあり、それは周期的なサイクルによって動くということが分かっております。
 
現代の科学者はたぶんこうした説を否定するかもしれませんが、伝統的な運命学の世界では、こうした意識の大きな変化を「運の変化」と考えたのです。ただ、そうした運命学が確立した古代や中世においては、現代のような科学的な思考法というのがまだ確立されておりませんので、古代や中世の研究者たちは、こうした意識の変化を「運の変化」というように捉えたのではないでしょうか。
 
こうした意識の大きな変化の謎をさらに深く解明するには、現代科学においてはまったく無視されているような、古代や中世の知識人たちが生み出した哲学や宗教、運命学の知識の中にもそれを解明できる重大なヒントが存在すると私は考えております。
 
私は自らの研究や経験や知識にこのような運命原理を重ね合わせることで、広大な意識の世界の謎に挑んでいるわけですが、これまで述べてきたような運の変化、つまり「意識の変化」という現象は、現実的に、広範囲において確認されており、またその当事者のそれまでの因果関係からはまったく解明できないような、不可解怪奇な現象などにも実際に応用できますので、新しい意識の理論としてかなり有効であると考えております。
 
 
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 運の構造とは
 
さて、ではそうした運の存在があることが分かれば、次にこの運というものが一体どのような構造になっているかをさらに探ってみましょう。私は先ほど、この運の作用というのは、実は意識の作用そのものであると述べました。つまり、運イコール意識であるとするならば、私たち人間の意識というものの成り立ちやその構造を解明していけば、この運の作用というのも解明できると考えられます。
 
そして、その推測した結果が正しいものであるかどうかの判断は、それが実際の現象と矛盾しないかどうかを観察していけばよいのです。こうした理論と現実世界の現象とにおいて、試行錯誤の思考プロセスを繰り返していけば、徐々にこの意識というものの正しい実像が得られると私は考えています。
 
こうした方法論によって、この意識の研究、つまり「運」の研究を進めていきますと、この一見複雑にも思える人間の意識にも、大きく分けて5つの機能があり、それらが複合して全体の意識という統合された意識というものを構成しているということが徐々に分かってきたのです。
 
その全体の意識を構成している5つの機能というのは、意識全体を構成しながらも、それぞれがまた固有の意識というものを持っており、5つの機能が相互に深く干渉しあいながら、全体として統合されて、一つの意識として機能していると考えられるのです。
 
この5つのいわば分割される意識というのは、単純にそれ自身の機能のみならず、他にも実に多くの作用を包含する機能でもありますが、あえてその5つの機能を現代的な用語に直すとすれば、自我、感情、身体、理性、知性といった、5つの現代語の概念に集約できると思います。
 
言い換えれば、私たちが単純に自分と捉える存在においても、それを細かく分解していけば、大きな素材となるものに5つの基本機能があり、その5つの基本機能を中心として人間の全体的な意識が形成されていると考えられるのです。それが思考機能であるところの自我、情緒を引き起こす感情機能、活動するための身体機能、全体を統括するための理性機能、自己の存在を守るための知性機能の5つというわけです。
 
この中において最も重要なものが、意識の中核的な存在であり、5つの意識を統合して、私という全体的な存在を形成していると考えられる理性機能です。
 
これまで述べてきた「運」といわれるものは、実はこの理性の機能と同一なものではないかと私は考えているのです。それはいわゆる「運の変化」という現象を観察するとき、意識の内部において変化したのはどの意識の機能であるか、を考えてきた際に出てきた結論でもあります。
 
要するに、「運の変化」が生じたとき、私たちの意識の内部において理性の機能に大きな変化が生じているのです。私たち人間が人間らしく生き、動物には無い高度な精神性や思考力を発揮して生きていけるのは、実はこの理性機能のおかげでもありますが、この機能は生涯不変の機能という存在ではなく、一定の周期的なリズムのもとにエネルギー的な盛衰を繰り返していると考えられるのです。
 
それが生命エネルギーを基礎にして働いている理性機能の盛衰を引き起こして、心理を大きく変化させる最大の要因となっているのです。
 
この理性機能は「人の常識」と呼ばれる概念や、「法」と呼ぶ概念を象徴する機能でもありますが、人間の高度で精神的な活動はこの機能によって成り立っているわけでありますから、人間のこの理性機能が完全に衰弱すれば、人間は動物的な存在へと退化してしまうのです。
 
そしてこの人間の高度な理性機能が「運」というものであるとすれば、「運」が衰弱するということは、つまり高度な理性機能が衰弱するということになるのです。もしこの理性機能が衰弱すれば、多くの人は仕事や学校、家庭においても健全な生活は営めなくなるでしょう。なぜなら、この機能こそが人間を人間らしく保っている機能であり、競争社会における激しい社会的なストレスや人間関係のストレスなども、この理性機能の意志によって克服されているからです。
 
ですからこの機能が麻痺してしまえば、あらゆる外的なストレスに耐えることができなくなりますし、特に現代社会のように非常に多忙でストレスの多い社会においてはなお更のことなのです。
 
こうした運命の大きな変化というものは、これまで述べてきたように外的な原因だけで起きるものではありません。外的な原因によるものも当然存在すると言えますが、その多くが内的原因、つまり意識の周期的な変化によって生じており、環境などが変化する以前において、意識の内的な次元で先行して運命の変化を起こしているのです。
 
そしてその意識の大きな変化が、外的な環境、つまり仕事や家庭、人間関係などの関係において、多くの諸問題を発生させる原因となっているのです。
 
そうした意識の大きな変化というのが、古代や中世の知識人たちが考えた、「運の変化」というものではないかと私は考えているのです。
 
 
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 財運は実在するか
 
これまで哲学者たちや学者たちにとって、かなり観念的に捉えられている理性というものが、実は決して観念的な存在などではなく、実際に存在する意識エネルギーの一つであり、私たちの環境を大きく変化させる主要因になっているとしたら、これは大変な驚きでもあります。
 
私はこれまでの自らのいろんな体験や経験、その研究結果として、どうしてもこのような理論に辿りつかざるを得ません。この研究の多くは、既存の運命学の知識や現代科学、宗教理論や哲学の理論を下地として、実際の経験や現象観察などを通して、理論と現象の照合という観点から研究を進めてきたわけでありますが、現時点における結論としましては、これまで述べてきたような基礎理論で運の構造が解明できたと考えております。
 
さて、ではこの理性の機能はどのような背景をもとに機能しているのでしょうか。
 
運命科学では、10年間を1周期として、この理性機能が動いていると考えます。「10年ひと昔」とよく言われますが、実際に、人間のこの理性意識も10年間という単位を1周期として作用し、その前後には大きな意識の変化を生じさせているのです。
 
例えば、これまでとても穏やかであったやさしい人がある期を境に突然強暴になったり、また全然うだつの上がらなかった人が突然に注目を浴びて成功したり、というような現象は、決して偶然などによって作られるものではないということを知らねばなりません。実際、運命科学ではこのようなことを事前に予測できるのです。
 
ある貧乏な人が突然裕福になったり、反対に裕福な人が突然没落したりするような大きな変化も、「運」と考えられている意識エネルギーの質や量が変化したからであると考えるのです。また、より詳細にその意識エネルギーを分解していけば、その意識エネルギーの中にもさらに細分された数種の機能があることが分かってきます。
 
話は大分長々となりましたが、実はこの中の一種がいわゆる「財運」と呼ばれる機能に相当するのです。財運が存在するかということを単純に問えば、「たしかにそうした機能は存在するものである」と言わねばなりません。
 
しかし、いわゆるこの「財運」が機能として作用するには複雑なプロセスがあり、いまだに未解明な部分もたくさんあって、その全貌が明らかになったわけではありません。
 
ですが、その存在を実在のものとして理解するのは、これまでの不思議な現象の観察とその経験、理論との照合によってであります。しかしそうした財運の存在は確かなものであると言えますが、占術世界などにおいて一般的に捉えられているような、単純な機能ではないことを予めお断りしておきます。
 
運命科学によれば、金運とか財運とか呼ばれるこの「運」は、物質を象徴する意識のエネルギーによって生じてくると考えております。この運のエネルギーは大きくは5種類に分類され、この中の一つが物質、つまり金運や財運に象徴されるような性質をもった意識エネルギーなのです。
 
 この物質の意識エネルギーは、他の意識エネルギーとも密接に関り、この物質を象徴する意識エネルギーがうまく機能するには、他の意識エネルギーともうまく調和しなければなりません。この物質を象徴する意識エネルギーがうまく調和して機能するとき、現実世界に存在するあらゆるモノ、物質、つまり富を自分のもとに磁力的に引きつけて成功者となるのです。
 
この世界での成功者の多くが、運(周期)としてこの物質の意識エネルギーが巡るか、あるいは生まれつきこの意識エネルギーを強い形で内在させています。単純に金銭の多寡のみで人生の成功者であるとは当然言えませんが、少なくとも金銭はその土台をなすものとは言えるでしょう。
 
結論として、「財運は確かに存在するものであり、それは物質的な基調をもつ意識のエネルギーによって形成されるものである」と、現在は述べておきます。
 
 
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 財運の現れ方
 
では、こうした財運に恵まれる人とはどのような人なのでしょうか。この物質を象徴する意識エネルギーはどのような法則のもとにおいて作用し、はたしてそれは万人に平等な原理として働いているのでしょうか。またそれはどのような現れ方をするのでしょうか。 私たちはいわゆる成功者といわれる人の中に、「強い財運」というものを見るとき、このような疑念を抱くことがあります。
 
 いやむしろ、このような疑問は現代のような物中心の時代であれば、誰でも思う疑問なのかもしれません。最後にこの疑問を探ってみましょう。 私は先に、「財運」とは物質を象徴する意識のエネルギーであると申しました。
 
そして世の成功者と呼ばれる人たちは、この物質のエネルギーが周期の巡りによって長い期間巡ってくるか、あるいは生来において強い形でその物質エネルギーを最初から内包しているものである、と述べました。
 
この二つの要素がいわゆる「財運の持ち主」といわれる二つのパターンだと言えますが、ではそうしたパターンが自分の運命の中において存在するのかどうかを知ることができれば、自分が将来において財に恵まれるか否かが分かるということになります。
 
この二つの財のパターンというものは皆に共通して存在するものなのでしょうか。答えを先に簡潔に述べますと、ノーと言わねばなりません。この二つの財運のパターンというのは皆に共通するものではないのです。どういうことなのか、この二つの財のパターンをもう少し細かく見てみましょう。
 
 財に恵まれる人には二種類のパターンがあると申しました。そしてこの財のパターンのうちの一つは、生来、強い形でこうした物質の意識エネルギーを内包させている人のパターンです。このパターンの人は、生まれた時から物質に対する異常な嗅覚みたいな感性を持っています。
 
例えば、どんな貧しい家庭に生まれたとしても、自らの物質的な、つまり物を扱う驚異的な才覚によってかならず財を成します。そして物に対する理解力や判断力も非常に優れていますから、あらゆる手段を通して財を形成するための道を見出します。
 
つまりこのタイプの人は財を成すための知恵を学ばずとも、本能的にこうした財を得るための方法を知っております。しかしまた同時に、金銭に対する執着心も人一倍強く、このタイプの人の頭脳はすべて物に対する関心で占められているのも事実です。
 
ですから、この物質タイプの人においては、人間的に豊かな教養や幅広い見識などが一番必要な要素でもあるのですが、不幸にもこうした環境に恵まれない場合、いわゆる「守銭奴」のようなタイプに陥る人もおります。
 
しかしその反対によい生育環境に恵まれ、人間的に豊かな教養を学んでおれば、その物を集積する才能に一段と磨きがかけられ、いわゆる大企業を起こす人物になることもあるのです。
 
このような、生まれついて物質の意識エネルギーを内包させているパターンの人というのはそう多くはありません。またこの物質の意識エネルギーがうまく機能するには、その人の意識の次元において、他の意識エネルギーとも調和していなければなりません。
 
それがうまく調和していれば必ず財を成す人物となるものですが、しかし他にも運の周期エネルギーというものがありますから、場合によってはこの周期エネルギーとの関係において意識の調和が乱れ、この物質の意識エネルギーがうまく機能しないこともあるのです。
 
ですから、これまで順調に財を成した成功者においても、このようないわゆる悪い周期に入れば、いくら財に関しては強運の持ち主であっても没落することは免れないのです。昔から「盛者必衰」と申しますが、このような運命原理というのは本当に存在しているのです。
 
次に、もう一つの財運のパターンを見てみましょう。もう一つのパターンとは、その財の物質エネルギーが周期において巡る人、つまり一定の期間だけ巡る人のパターンです。この財パターンの人は、その物質エネルギーの周期が続く期間だけ、財や金銭を磁力的に引き付けます。
 
例えば、これまで努力しても中々うだつの上がらなかった人が、急に何かのきっかけによって一気に成功する、というようなパターンなどはその典型的な例です。しかしこの第二の財のパターンとは、周期の意識エネルギーによって一時期だけ形成されるパターンでありますから、当然この運の周期が過ぎてしまえば元の状態に戻ってしまうということもあります。
 
つまり、そのよい財運が巡る以前の状態に戻ってしまうこともあります。もしその人が、いつまでもこうしたよい運気が続くものであると過信すれば、これまで蓄積した財を全て失ってしまうような危険性も実際にあるのです。
 
この第二の財のパターンは、第一のパターンとはその物質エネルギーの質においてかなりの相違がありますので、まったく同様な現象が起きるわけではありません。第二のパターンには特に、いわゆる磁力的な力が強力に作用するという違いがあり、第一パターンのように徐々に運勢が開けるのではなく、急速に運勢が展開するという相違があります。
 
しかしただ単に、財運という場合には両者の違いには、そう大きな相違はありません。財運といわれるものには、基本的にこのような二つの意識エネルギーのパターンが存在します。
 
これらの現象は、物質を象徴する意識エネルギーによって発生してくる現象である、と定義づけられます。また私は実際に、この財の意識エネルギーというものが物質を動かす原理に根ざすものであり、物質の本質的なエネルギーを操作するための、いわば意識と物を連結させるためのエネルギーではないかと考えております。
 
 
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 財運に恵まれる人
 
この「物質を象徴する意識エネルギー」がうまく働く人は、この世界で活躍できる人ということになります。では、この要素は偶然につくられるものでしょうか。
 
 ふつう私たちは成功者たちを羨んで、「あの人は運が良いのだ」というように考えますが、果たしてこのような認識は正しいものなのでしょうか。そうした運というのはたしかに生誕時に決定するものですが、私の考えではその運が巡る周期というものは決して偶然に作られるものではありません。
 
その周期というのは、その個人が持っている潜在的な資質に照応して現れてくるものです。言い換えれば、そうした運が巡るに相応しいよい資質、つまりそれに適した人格をこの人が持っているかどうかにかかってくるのです。
 
こうした「物質運のエネルギー」がうまく巡れば物質的な繁栄はたしかに保証されるものです。しかしそれも、その個人のもつ資質に応じてしか顕現してきません。
 
例えば、才能や気力も弱い凡庸な人物が、これまでの何の努力もなしに突然大会社の社長になって大繁栄するということは起こりません。
 
運のエネルギーは、あくまでこれまでの努力やその人の潜在的な意志に応じて現象化してくるものです。ふつうの人は成功者を羨んだりしますが、成功者のほとんどの人が、やはり人格的には優れた面を持っており、強い意志力や努力心など、常人にはないものを持っていることを認めねばなりません。
 
しかし、そうした成功者の人でも、その繁栄がいつまでも続くと考えるのは過ちです。良い時期というのは長くは続かないものです。それは「運のエネルギー」というものが常に動いており、周期的に巡る機能であるため、良い時期がくれば必ず悪い時期もくるのです。それは春夏秋冬の四季のように、繁栄する春夏があれば、衰退していく秋冬も必ず巡るのです。
 
「奢るもの久しからず」とか「盛者必衰」とかよくいわれますが、そうした理は私たちも経験的によく知っているものです。またよく成功者に多いのですが、人間全てうまくいく時期というのは周囲のことが見えなくなるものです。
 
 温厚で大人しかった人物が、良い運が巡って成功した途端に人格が豹変して派手に遊び暮らしたり、金銭にものをいわせて強引に仕事を展開したりするような人もいますが、そうした人はこれまで蓄積してきた良い資質をすり減らしていっているのだと考えるべきでしょう。
 
つまり、これまで潜在的に持っていた「よい徳」をどんどん消化していっているのです。こうした生き方をすれば、現在のこのよい運の時期がすぎれば必ず没落していくものです。もし、次の運気が悪い場合はその個人のもとに、これまでの悪い業が一気に返ってくるでしょう。
 
 業とは人間活動によって生成される実在のエネルギーですが、このエネルギーは潜在的次元に蓄積していき、そのエネルギーの資質に最も波長の合う時期に必ず顕現してくるものです。ですから、基本的には良い時期には良い業が現れ、悪い時期に入ると悪い業が現れてくるのです。
 
その現れ方も人によって様々ですが、悪い業は悪い現象、つまり病気、事件、事故、精神病などあらゆる悪い現象となって生じてきます。また反対に良い時期は良い業が結実してきますから、多くの協力者が得られ、何の問題もなく、やることがトントン拍子にうまくいきます。
 
業はこうした現象を実際に引き起こすものですが、すぐに返ってくるというわけではありません。ですから、あくどい事をしていても事業がうまくいったりもするものですが、結果的には、時間がたてば確実に自己の元に返ってくるわけですから、何事も人に害のない、恨まれないような生き方をしたほうがよいのです。
 
結論としまして、「財運は確かに存在するもの」であり、それは「理性の機能とかかわる意識によって生成されるものである」、と述べておきます。
 
 
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  家族の運命はシンクロする
 
 
 
 
 家族の変化
 
 人間というものは運が良いときは周りの人とも親密になり、また何をやってもとんとん拍子にうまく行きます。しかし逆に運が悪くなると、不思議なことに自分ばかりか、家族や親戚の人までが一斉にツキがなくなり、運に見放されたような状態になることがあります。これは例え話ですが、最初のそのきっかけはおばあちゃんの病死で始まりました。
 
次に子供さんが交通事故に合い、次にご主人が会社をリストラされて病気気味となり、さらに親戚の方が大きな災難にあった。あなたはこういうような話を聞いたことがないでしょうか。あなたの身近にもこういう体験をしているか、あるいは過去に体験したとか、そういう方がいるのではないでしょうか。
 
ふつうこういう状況になれば、誰でもその苦しさの原因を探ろうと必死になるものです。ある人は信仰宗教の門を叩き、またある人は先祖崇拝に走る。そして精神力の弱い人は自殺すら考えるかもしれません。その背景には、何とかこの状況から逃れたい、救われたいという気持ちで一杯なのです。
 
今まで信仰心のまるでなかった人が、周りの人が驚くほどの熱心な信者になったり、占いにのめりこんだり、霊能者のところを駆けずり回ったりというようなことは、このようなきっかけで実際に始まるのです。
 
運命学の研究をしていると、このような家族の話を良く聞くものです。
 
このような状況が、自分にだけは絶対起こり得ないとは誰でも言えないはずです。これはどの家族にも起こりえる現象なのです。
 
一寸先は闇、とよく言いますが、これは人間の運命にもよく例えられます。たしかに誰でも明日の運命は分かりません。昨日まで元気であった人が突然亡くなったりすることもあります。
 
人はそういった現象に出会ったときに、「運命は恐ろしい」と感じるものですが、それがわが身に降りかかり、それもまた自分一人ではなく家族全員の身に起きたとしたら、どんな強靭な人であれ、わが身の運命について深く考えるはずです。
 
実際、私の運命研究からもこういう現象が幾度となく確認されておりますので、こうした現象について考証してみなければなりません。
 
 
 
 
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 運命のシンクロ現象
 
たしかに家族の運命が、いっせいにシンクロしていく現象は不思議なものです。この現象はどのようにして起きるのでしょうか。
 
運命の研究をしている人には良く知られていることですが、不思議なことに人の運命パターンというのは、近親者である家族の場合、ほぼ全員が非常によく似ているものです。 例えばそれは才能のタイプであったり、性格的なものであったり、気質的なものであったりします。
 
しかし、これだけならまだ遺伝学的な面からも説明のつくところだと思います。しかし近親者の場合、さらに「運命のエネルギー」の流れも非常によく似ているのです。つまり、良い時期や悪い時期などの周期が、家族の場合ほぼ同じような時期にやってくるのです。
 
 例えば家族の一人がよい運気に入ると、不思議に他の家族までほぼ同じ時期にみないっせいに良い運になっていきます。また反対に家族の一人が悪い運気に入り、何らかの形で、例えば事件、事故、病気などの形になって現象化した途端に、他の家族まで似たような悪い現象が生じてくるのです。
 
こういう現象を心理学用語で「シンクロ」と言いますが、家族の運命はまさにこのように連動しているものです。こうした「運命のシンクロ現象」を単に偶然的なものと見る人もいるでしょうが、私の考えではこれは決して偶然に起きるものではありません。
 
実際に、偶然の確立を超えたレベルでそれが起きているからです。こうした運命の背後には、恣意的に秘められた原因も存在することを私は確信いたしております。
 
ですから、最初に書いたような家族の悲惨な事例も決して偶然に起きるものではなく、また先祖の祟りとか、家相が悪いとか、姓名が悪いとか、墓相が悪いとかの原因で起きてくるものではありません。
 
なぜなら、こういった現象は家族全員の生年月日時を詳細に検討すれば、かなり事前に予測できるからです。そして事前に予測できるということは、逆にそれらの現象は前もって計画されているということになります。さらにそれよりもっと重要なことは、なぜこういった現象が事前に家族でシンクロして起きるように計画されているのか、ということではないでしょうか。
 
人間の運命が生年月日時でほぼ決まるならば、逆にその生年月日時、つまり生誕する瞬間がある意図を持って、恣意的に決定されているというような結論に辿りつかねばなりません。そう考えるならば、これらの現象の説明がすべて矛盾なくできるのです。このことの詳細については後でまた論じようと思いますが、結論としてやはり「生誕の瞬間は決定されている」とだけ述べておきます。
 
そしてそれは、自分の運命だけではなく、「家族の運命もシンクロするように決定されている」と考えねばなりません。
 
こうした実際の事例は、自分の家族の過去や現在の体験を顧みることによっても確認できると思います。実際に、先の話のような劇的な内容の体験者は少ないものですが、大小の差はあれこそ、みな似通った経験を持っているのではないでしょうか。
 
私は家族について考えるとき、「家族とは同じ船に乗る船員」のようなものに例えられると思います。船が座礁するのも、無事に港に辿りつくのも船員一人一人の努力にかかっているのです。
 
それと同じように、家族の運命を本当に救えるのも宗教の教祖やご先祖様などではなく、家族一人一人の努力にかかっていると私は思います。こうした家族の苦難の時期というのは決して永遠に続くものではなく、時間の流れの中で必ず過ぎ去っていくものです。
 
運命科学では、この一区切りの時期として、こういう時期は短くて数年、長ければ約10年間位続くものであると申し上げておきます。
 
 
 
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   苦しみの起源
 
 
 
 
 
 苦しみの世界
 
この世界のどんな人であろうとも、自分には苦しみやストレスが全くないと言う人はほとんどいないでしょう。なぜなら、この世界は基本的に生きていく上での様々な制約が存在する世界であり、現実的には金銭のことや病気のこと、仕事のことや家庭のこと、自分自身の才能や容姿、将来に対する漠然とした不安など、それらを一々数え上げたら切りがないほどです。
 
また、現在は何の不安もないという人でも、明日はどうなるかは分からないものです。私たち人間を取り巻く、こうした物理的・心理的な制約というのは、結果的に見れば人間の精神を相当に強靭なものにしていき、自己の意識や認識をかなり拡大させてくれるものではあります。
 
しかし、このようなことも厳しい運命環境の真っ只中にある人にとっては、こうした原理について考えるゆとりなどはありません。
 
では、人々の最も忌み嫌うところの不快な苦しさというものは、またそうした運命とは一体何のために存在し、どのようにして起きてくるのでしょうか。この苦しみがどこからくるのか考えて見ましょう。
 
「苦しみ」とは何でしょうか。人は自己の成すことがすべてうまく行く時には、苦しみや苦痛はほとんど感じません。また逆に、全てが自分の思い通りにならないときには、激しい苦しみを感じるものではないでしょうか。「苦しさ」とは、そうしたときに発生するものでありますが、それは愛情に関してのことであり、時には金銭のことであり、時には家庭のことであったりします。
 
それら全てに共通するのは、その苦しみの基底に「自己」という、自分の意識が関っているとういうことです。つまり言いかえれば、自己の周りの環境やあるいは自分自身が「自分の思い通りにはならない」ことが、苦痛の最大の原因なのです。
 
そう考えるとき、ではその次にこの苦しみの主体となるこの「自己」とは、一体何だろうかということを考えねばなりません。通常、人は外部に苦しみの原因を見出し、ほとんどの人が、自己については深く考えないものです。しかし、よく考慮しなければならないのは、実はこの「自己」についてのことではないでしょうか。
 
 
 
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 自己とは何か?
 
この苦しみを感じるところの本体である自己とは一体何でしょうか。この自己についての解釈は、これまでも哲学などで常に取りあげられてきたテーマです。
 
これを運命科学の観点より考えてみましょう。運命科学では自己という場合、単純に自分自身の意識という捉え方はしません。運命科学でいう自己意識とは「自己の無意識的な生命作用や過去の記憶を統合して形成された意識」を言います。これまで述べたような心理器官内部で作用する心理全体をはじめとして、その人の潜在的な記憶などが複合的に混在してできた、自己感覚を言います。
 
そういう背景を考慮にいれますと、自己とは、「自我や他の無意識、さらにこれまでの記憶や経験の複合体である」と考えられます。
 
前に、人間の無意識の構造が生誕時に決まることを述べてきました。それはさらに、時間で巡る生命エネルギーの作用を受けて変化していくものです。
 
ですから、あなたが自分自身であると考えている「自己」も、実際には時間の巡りと共に常に変化していくものです。例えば、気の弱かった人が急に気が強くなったり、保守的だった人が急に先進的になったりもしますが、こうした不思議な心理現象も時間の移行に伴って生じてくるのです。
 
このような心理現象は、人間の心理内部での構造が変化していくことによって起きてくるものですが、私たちが考える「自己」が、このように時間によって周期的に変化していくものであれば、普段私たちが自分自身であると強く意識する自己も、またその存在基盤を失うことになるのです。
 
ここで大切なことは、あなた自身が自分であると思いこんでいる自己とは、言いかえれば、「自然界の大きな干渉を受けて漂う流動的な風のようなもの」であり、決して固定された、あるいは不変的なものではないということです。それは、あなた自身が自分であると思い込む確固たるベースが、実は観念の世界に存在するものであって、現実的には存在しないものだという結論に至ります。
 
宗教世界でよく言われるように、「人間の意識は実体がない」というのは、言い得ているのです。私たちが最も信頼する自己が、もしこのような一時の現象的な存在であり、恒常的な不変のものではないとすれば、私たちが感知するところの、この苦しみとは一体何でしょうか。
 
 
 
 
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 実体のない自己
 
こうした前提をベースに考えますと、こうした苦しみもじつはまったく実体のないものであり、こうした現象が実際には私たちの心理内部で形成されている、心理現象であるとうことを知らねばなりません。
 
しかし、現実的には苦しいものは苦しいのだ、と言う方もいると思いますので、その対処についてもう少し考えてみましょう。これまで述べてきたことは、「私達の自我はじつはかなり曖昧なものであり、時間の運行と共に変化していく実体のないものだ」ということでした。
 
 そして、この実体のない存在を私たちは自己であると思い込むことによって、苦しみを発生させているのですが、時としてそれは、苦しみの観念的な世界を形成し、それに迷い込む、はまりこむということが実際に生じてきます。
 
その渦中にある人は、自分自身の心理内部で起きている、その観念を引き起こしている心理作用にはなかなか気がつきません。現実的には、こうした心理作用は実は自己内部で起きているのです。
 
では、こうした心理作用がどうして生じてくるのでしょうか。それは確かに自己の精神的な内部で生じている心理作用です。
 
苦しみとは、周囲が自己の思い通りにならない場合に起きてくるものだと言うことを述べました。では、自己の周囲の環境を自分の思いのままにしようとすることが客観的、理性的に見て正しいことなのでしょうか。それが健全なものであり、建設的なものである場合は多いに結構なことです。しかし、その多くは実際には自己の充足されない欲望から出てくる場合が非常に多いのです。
 
人間は、自分の中に自己という意識を持ち、この世界を動かす役目を負っています。これは人間という生命に仕組まれた自己の本能の構造ではありますが、この自己意識が強すぎるがゆえに、苦しみが生じてくるのです。動物には、人間のような苦しみはありません。彼らは、自然の原理の中で生きているから苦しみがないのです。
 
苦しみをなくすには、まず自分という強い観念を捨てなければなりません。それができれば、少しずつ苦しみは消えていくのです。
 
 
 
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 苦しみを強める欲望
 
苦しみの起因であるこの自我意識を強めるのは、欲望という機能です。欲望はどんなに充足しても、満足することはありません。実は、この欲望こそが自我の機能をもっとも強める存在でもあるのです。
 
 自我の願望がスムーズにかなう場合、何の問題も起きません。しかしこの自我の願望がかなわない場合、欲望と絡まった自我は、自分自身を満たそうとして苦しみの信号を発するのです。
 
人間世界は、個人的な欲望を放棄することによって成立します。もし、個人の願望や欲望が、すべて肯定的に開放されるとしたら、この世界は修羅のような世界になるでしょう。 
 
たとえば、かつての戦国時代のような世界です。欲望とは本質的に利己的であり、自己の共感性をもとにして物事を判断します。ですから、理性的で健全な判断というものは決してできません。その基準というのは、あくまで自己の欲望を満たせるのかどうかで物事を決めてしまいます。
 
もし人が、この自己内部の欲望作用に忠実になれば、その人は少しずつ苦しみを増大させていくのと同じです。欲望はどんなに満たしても満足することがありません。欲望とは私たちの無意識世界に住む本能であり、衝動的に生きて自己生命を維持しようとする存在だからです。
 
それを、言語にならない意識として私たちは知覚しますが、そうした欲望生命の引き起こす生命作用が、実は私たちの自我を衝動的に突き動かしているものです。
 
ふつう、このことに気づく人はほとんどいません。この欲望生命と自我機能は心の内部で渾然一体となっているため、その作用に気付かないものです。
 
もし、私たちがこうした欲望体の作用を自己の意識であると勘違いをし、その衝動に忠実に生きるならば、その辿りつく世界は欲と欲がぶつかりあう修羅の世界です。
 
深刻な問題は、むしろその辺りにあるように思われます。欲望を肯定する自己愛が強くなるほど、周囲との調和が保てなくなるのは当然だと言えます。
 
人間は、こうした本能の構造的な枠組みの世界でしか生きていけないものですが、それが苦しみを生み出しているのです。私たちができることは、こうした苦しみの発生理由を正しく知り、それに正しく対応して以外できません。
 
運命科学は、そうした心理の内部で起きてくる精神作用を解明していくことで、自己を見つめなおす機会を助けるものでもあります。
 
 
 
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