かかりつけの医者


7月3日土曜日、風邪をひいたため、病院に行くことにした。
私は、だいたい年に一回風邪をひく。
今回は、先日の送別会でうつったようだ。お隣に座っていた方がひどい風邪をひいていたので。
この日は、夜に飲み会を予定していた。
当日にキャンセルするのは申し訳ないので、医者に診てもらい、たいしたことがなかったら、参加しようと考えた。
風邪をひいた時は、いつも近所の碇先生に診てもらう。
今回も、碇先生の病院に行った。
病院の前にはライトバンがとまっていた。おそらく、どこか薬品会社のMRであろう。扉の前で困惑しているスーツ姿の男が居た。
「あれ?あいてないんですか?」
「そうみたいなんです。はり紙してますわ」、MRは困った様子だった。
見ると、「臨時休業」
この碇医院の碇先生は、非常にお年をめされている。
私は、7年ほど前に肺炎にかかり、当時は約10年ぶりに碇医院を訪ねた。
その時に、カルテに「急性肺炎」と書かれた。
それから、毎年、風邪をそくたびに、碇医院に行くが、カルテはそのまま。
つまり、新しいカルテを作っておられないのだ。
碇のじいさんは、「おっ、I氏君。肺炎やな」
私は反論しない。
治療は、いつもと同じく注射を打ち、風邪薬を出してくれることを知っているからだ。
先生は、一応、聴診器を当てて、診察してくれる。
たまに、思い出したように、慌てて聴診器を外し、代わりに受話器を耳にあてる。
どこかに電話をして、
「売り。成り行きでええわ」
株の売買をされる。
用を済ますと、いつも同じことを聞く。
「結婚したか?」
「いえ。まだです」
「お見合い話有るんやけど」
「いえ。せっかくですが」
「そうか。まだ独身を謳歌したいんやな。じゃ、注射打っとこうか」
お見合い話だが、相手は、僕の小学校時代のクラスメイト。毎年、彼女の名前が出てくる。彼女は、いったいいつになったら、結婚相手が見つかるのだろう?
先生は、茶色に変色した7年前のカルテに何かを書き込む。
今回も、碇先生に診てもらおう、いやいつもの注射を打ってもらおうと考えた。だが、臨時休業なら仕方あるまい。
私は、京橋の商店街に向かった。
商店街には何軒も内科がある。
さて、どの病院に入ろうか?
いくつかの病院は、近所の人達が行ったことがあり、どんな先生だとか評判は聞いている。どの病院も、評判では、特に問題は無いようだ。
だが、評判の良い病院というものは、非常にこんでいる。私は、待つことが苦手である。
となると、誰からも「行ったことがある」と聞いたことのない病院を選ぶべきだ。おそらくすいているだろう。
あった。
大内内科。
今までに聞いたことがない名前だ。
おそるおそる扉を開けた。
やはり、すいていた。読み通りだった。
靴を脱ぎ、スリッパに履きかえ、受付に行った。
「すいません。初診なんですが。どうも風邪ひいたようなんです」
保険証を出した。
非常に太った女性が、非常に高い声で、「熱はありますか?」
「はかってないんです」
「じゃあ、これ脇に挟んで下さい」
体温計を渡された。
私は、体温計を脇に挟んで、待合室で座っていた。
「あのお」
受付から高い声が聞こえた。
「あのお... I氏さん」
「あっ。はい」
「ピピっと言ったら、持ってきて下さい」
「はい。分かりました」
何事かと思った。
「あのお」
またもや、受付から高い声が聞こえる。
「あのお... I氏さん」
「あっ。はい」
「おしっこは?」
「おしっこ?」
「しましたか?」
「は?さっきしましたけど...」
「じゃあ、出ないですね。検査しようと思ったんですけど...」
何と答えていいか分からず、検査はしないことになった。
熱を計り終えた。37度。微熱だ。
待合室で座っていると、おばはんが入ってきた。
「こんにちは!」
元気良く挨拶するやいなや、いきなり腕をまくり、自分で勝手に血圧を計りだした。
「180の120... 高いなあ」
おばはんは、納得出来ないのか、計りなおした。
やはり結果は同じ。
うなだれて、出て行った。診察してもらう訳でもなく、薬をもらう訳でもなく、うなだれて出て行った。
何だったのだろう?
しばらくすると、診察室の扉が開き、看護婦さんが「I氏さん。どうぞ」
診察室に入ると、なぜか看護婦さんが10人ほど居る。小さな町医者なのに、先生一人に看護婦が10人。なぜか、みんな、ほほ笑んでいる。
私は、先生の前に座った。「お願いします」
先生は、年の頃は40代であろう。
非常に痩せたおとなしい感じの先生だ。悪く言えば、貧相な病的な暗い雰囲気だ。と言っても、嫌みな感じは無い。
「い.いまいずみさん。ど.どうされましたか?」
「風邪をひいたようなんですが」
カルテを見ながら、「ははは... そう書いてますね。熱もありますし... 7度... さっき計りましたね」
「え.ええ」
「喉痛いですか?」
「痛いです」
「頭痛いですか?」
「痛くないです」
「食欲ありますか?」
「あります」
「おなか痛いとかはないですか?」
「ありません」
「鼻水は出ますか?」
「出ません」
「風邪ですね」
「は?」
「喉が痛くて、熱がある。おそらく風邪だと思います」
「そ.そうですか」
「たぶん、風邪です」
「そ.そうですか」
「風邪かもしれませんね」
「そ.そうですか」
「風邪ですかね?」
「そ.そうじゃないんですか?」
「風邪じゃないかも...」
「え?!」
「風邪にしときましょう。そう思いませんか?」
「だと思いますが...」
先生は、カルテに何か書き込んでいる。
デスクには、なぜかパソコンのモニターが置いてある。端末も本体も無い。
モニターだけが置いてあり、妙なスクリーンセイバーが流れていた。
「じゃあ、上着をめくって下さい。いや。大丈夫です。心配なさらないで下さい」
「心配?」
私は、訳も分からず、Tシャツをめくった。
先生は、聴診器を当てた。
「じゃあ、今度は、背中をみせて下さい。いや。何も心配なさらないで下さい。大丈夫です」
私は、非常に不安な気持ちで、背中を出した。
先生は、聴診器を当てた。それ以上何もしなかった。
「風邪だと思います。おそらく」
「は.はあ...」
先生は、何とも言えない奇妙な顔でほほ笑んだ。
「注射有るんですけど...」
「は?」
「うちには注射有るんですけど。これを打てば、早く治ると思います」
「は.はあ。じゃあ、お願いします」
「いいんですか?」
「え?」
「注射を打てば、3日ほどで治ると思いますよ」
「はあ」
「打ちましょうか?」
「はあ、お願いします」
「いいんですか?」
「え?」
「ほんとに打っていいんですね?」
「え?あの?」
私は、どう答えていいのか分からなくなった。
「私なら打ちますね。これを打てば、早く治ると思います」
「じゃあ、お願いします」
「いいんですね?」
「え.ええ」
「じゃあ、そこのベッドに横になって下さい」
たかが注射を打つのに、どうしてベッドに???このおっさん、いったい何をする気なのか???
私は、極度の不安に陥った。
と言っても、逃げることも不可能だろう。周りには、10人ほど看護婦達がほほ笑んでいるのだから。
私は、言われるままベッドに横になった。
右腕にゴムを巻かれ、
「じゃ、注射打ちますので。ちょっと痛いですよお」
看護婦の一人が大きな注射器を持っている。
なんだ、点滴ではないのか。一安心した。
看護婦は、私に注射を射し、ゆっくりゆっくりピストンを押す。
「痛いですよお」
「だ.だいじょうぶです」
なかなか終わらない。
急に激痛が走った。
「あたあっ!!!」
腕を見ると、注射器が立ったままだ。看護婦が居ない。
「痛いですよお」、ほほ笑みながら戻ってきた。
痛いに決まっとるやんけ!と言いたいところだったが、
「だ.だいじょうぶです」
「もう少しですからねえ」
しばらくすると、やっと終わった。
「あれ?血が止まらないですねえ。しばらく、ゴムバンドしておいて下さい。2〜3分で止まると思います」
私は、ベッドから起き、先生の前に座った。
先生は、私に気付かないのか、何か書き物をしている。
邪魔することもないと思い、私は黙って座っていた。
私に気付いた先生は、「あっ!ど.どうされましたか!?」、両腕でカルテを覆った。
「ええっ?!」、私は、何が書かれているのか、覗き込もうとした。
「だ.だいじょうぶです。風邪だと思います。受付でお薬もらって下さい」
あのカルテには何と書かれていたのか?私は、訳も分からず、待合室に行った。
薬をもらい、家に帰った。
何気なく熱を計ってみた。
6度5分。いきなり下がっていた。
いったいあの注射は何だったのか?
打って良かったのだろうか?
あの必要以上に多い看護婦達は何だったのだろうか?
あの端末も本体も無いパソコンのモニターは何だったのか?
分からないことばかりだ。
今後、風邪をひいた際には、以前同様、碇先生に診てもらうか、今回の大内先生に診てもらうか、私には選択肢が増えたのは確かだ。

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